あの月の夜を、
僕はずっと忘れないだろう。

 アンテノールという貴族の一人息子に生まれついた僕は、貴族という生き物がそうであるべきように教育されて育った。
 それまで当たり前のように贅沢な生活を甘受していた僕の目が醒めたのは、八歳のときだ。
 よく晴れたその日、僕は外で遊んでいた。敷地の外にきれいな花を見つけて、摘んだらかわいそうかな、でもきれいだし部屋でも眺めてたいな、とか色々考えて敷地から抜け出して、そこで初めて誘拐された。僕の家を脅すために下卑た輩が唯一の嫡男を攫ったのだ。
 けれど、僕の家だって馬鹿ではない。のうのうと貴族の立場を満喫している腐った連中にはまだなっていなかった。
 僕と同じくらいか、僕より少し年上か。そんな子供が身代金ってやつを持ってきた。
 それと交換で僕を親元へ返すという下卑た輩に、彼はお金の入ったトランクを放って寄越して。ばさりと外套を脱ぎ捨て、剣を抜いた。
 あとは、僕が目で追うので精一杯の剣劇を繰り広げ、僕を誘拐した連中を全員殺した。
 青白い月が夜空で大きく輝いていた夜。月光を受けて鈍い光を放つ剣が、赤い色をしたたらせる剣が怖くて、僕は、それを操る彼はよっぽど怖い人なのだろうと思った。
 だけど、僕の方に顔を向けた彼は、子供だった。僕と同じくらいの子供の笑顔を浮かべて大丈夫? と笑った。
 その日に、当たり前だと思っていた贅沢な世界でただ息をしていた僕の目は醒めた。
 そして、その日から八年が経過した。
 今日の天気は快晴。買い物には持ってこいだ。…だっていうのに。
? もーったら!」
 ばたばたと階段を下りて、約束した時間を過ぎたのに姿の見当たらない彼を捜す。ちょうど通りかかったメイドに「ちょっと君、捜して」と命じて玄関で腕組みして彼を待っていると、彼は三分でメイド二人に引きずられてやって来た。いつもと同じ、白い飾り気のないシャツに黒いズボン姿だ。寝ぼけ眼なところを見るに、僕との約束を忘れて寝こけていたらしい。
「へ? え? あれ、ルピ」
 僕の前に押し出されて、彼が笑う。へらっと笑って「なんか用だった?」「…なんか用、だって?」眉尻が吊り上がった僕に、メイドが退散していくのが見える。
「約束したじゃないか。一緒に買い物行ってくれるって!」
「え」
「三日前に! 君がその日は時間があるって言うから!」
「え、そうだっけ」
 あたふたと慌てる彼に、じわじわ視界が滲んでくる。
 僕がこの三日どれだけこの日を楽しみにしたか。今日だっておしゃれ頑張ったのに。
 ぐすと鼻を鳴らして泣きそうになった僕を、が抱き締める。ぎゅーって遠慮ない力で抱き締めて「ごめんルピ、行くよ、行くから。だから泣かないで」と囁かれて、滲んだ視界は、そこで止まる。
 あったかいな、と思って。彼の抱擁に甘えたくなったけど、わざと拗ねた顔を作って腕を突っぱねた。
「だったら着替えて。準備して。待ってるから」
「ん」
 五分で戻るから、と告げた彼が来るまでが手持ち無沙汰で、屋敷の外に出て敷地に咲いてる花を眺めた。
 手を伸ばして、指先で紫色の花弁をそっと撫でる。
 八年前。きれいに咲いていた花が気になって敷地の外へ一人で出て。そして捕まって。僕は、に出会ったんだ。
「ルピ」
 しゃがみ込んでいたところから顔を上げる。陽射しを背に立っている彼が、あの夜の、月を背に立っていた彼と重なる。
 君はちっとも変わらない。僕はもうすぐ変わらないといけないのに。
 ぐっと拳を握ってから解いて、立ち上がる。「さっさと行こうよ。君のせいで時間押しちゃった」「ごめんてば」困ったなと笑うの顔にそっぽを向いて不機嫌の態度を作りながら、僕の胸は切なさで埋まっていた。これから君と思う存分買い物できるっていうのに、それより先のことを思って、苦しくなっていた。
 僕はもう16歳だ。18になったら成人する。成人の歳を迎えたら、貴族の一人息子である僕は、お嫁さんてやつをもらわないとならなくなる。
 そうしたら。もう君とこんなふうに出かけることはできなくなるだろう。
 何をするにしても好きでもないお嫁さんて人と一緒になるんだ。それで、子供作れとか親に急かされて、そんなことまでしてしまうんだ。
 そんな自分想像しただけで吐き気がする。
「ルピ? 顔色が悪いけど、大丈夫?」
「…あんまり」
 人混みの中で足を止めたに手を引かれ、壁際に寄った。「人混み辛い?」と首を傾げる彼の肩に頭をぶつけて緩く頭を振る。
 人混みはあまり好きじゃないけど、今は、そのせいで気分悪いわけじゃないから。遠くない未来のことを考えて、ただ、苦しくなってるだけだから。
 家にいたら。屋敷にいたら。こんな話、口が裂けても言えない。
 人混みから視線を隣にやる。僕のことを心配そうに見ている君は、立場的には使用人で、用心棒だ。君は腕が立つから、あの日以来僕の護衛として色んなところに一緒に来てくれた。
 君になら。こういうことも話せる。だって君は僕を拒絶しないから。
「あの。ね」
「うん」
「嫌なんだ。未来が」
「…?」
「ボク、もう16だろ。成人は18だ。あと少ししか、とこうしていられないよ」
 それがたまらなく辛いんだ、とこぼした僕に、彼は表情を曇らせた。
 うん、そんな顔をさせてしまうとは分かってた。だってこればっかりはどうしようもない。貴族という世界に生まれてしまった僕の定められた未来のかたちだ。君は僕を守るためになんだってしてきたけど、こればっかりはさ、剣で斬ることはできないよ。
 僕が諦めて笑ったら、彼は緩く僕の手を握った。その手に縋って、僕よりも大きな手に指を絡ませて握り締める。
 目の前を歩いて行くドレス姿の女の子に、僕もああだったらな、と馬鹿なことを思う。
 もしもさ、僕が女の子だったら。貴族と使用人の禁断の愛ってやつに逃避して、屋敷を逃げ出すことができたかもしれない。あなた以外何もいらないって。でも僕は男で、も男だ。僕らの間に愛ってやつは芽生えない。だから、僕には逃げる道なんてものもない。
 は、と小さく笑って目を閉じる。
 …それなのに、君が、強く、僕の手を握り返すから。その手にありえない期待を抱いてしまって。僕は、余計に苦しくなるんだ。

縋るように俺の手を握る、
その存在がとても大切だった。

 ふう、と息を吐いて与えられた自室に帰った頃は、月が空の上の方まできていた。
 あと少ししか、とこうしていられないよ。苦しそうにそうこぼしたルピが諦めたように笑った。その笑顔が、まだ焼きついている。小さな手が縋るように俺の手を握ったことも憶えている。その手を掲げて月明かりにかざし、ぱたっと下ろした。
 馬鹿な考えだ。ルピをここから連れ出して、ルピの言う未来がなくなったとして。それでどうする。
 腰のベルトを解いて、剣を置く。柄に手をかけて鞘から刀身を抜けば、銀色の光が鈍く視界を射る。その光に、俺の剣でルピを守ると誓った遠いあの日が甦る。
 …それまで俺は、寝る場所も食べるものも確保することが難しい日々を送っていた。
 ルピを助けられたらそれをなくすと言った彼の両親を、信じたわけじゃない。大人が汚い生き物だということは俺も理解していた。ただ、衣食住を確保してくれるというから、ルピのことを助けようと思った。そのときはそれだけだった。
 助けに行ったルピが、女の子みたいな細さと白さで泣いていた。そんなルピを見たら、俺の汚かった心は、どこかへ行ってしまった。
 何が何でもルピを助けよう。相手を殺してでも。
 ルピの両親の言葉を信じるわけではない。ルピを連れて帰ったら知らん顔で締め出される可能性だってある。だから、これは骨折り損のくたびれもうけってだけの話かもしれない。
 でも。泣いてるルピを放っておくことなんてできない。
 紙束の詰まったトランクを放り投げ、それに気を取られた三人に目を細めて羽織っていた外套を脱ぎ捨て、ばさりと放る。
 剣を抜き。今出せるだけの全力の力で、何も手加減なんかせず、遠慮なんかせず、三人組の男を斬ることだけを考えて地を蹴った。
 あの日から、八年。長かったような短かったような。すっかりルピの専属護衛みたいなことをしてるけど、それもそろそろ終わるのかもしれない。ルピが結婚すれば、色々と代も変わるだろう。汚い平民出身の俺は締め出される可能性が大きい。
 まぁ、そうだとして。街で護衛みたいな仕事を引き受ければ、食べてはいけるだろうけど。きっとまた昔の暮らしに逆戻りだな。
 思えば、ここに来て。楽しいことが多かった。
 ルピが俺によくしてくれた。自由に使えるお金で俺におやつをくれたり、服を買ってくれたり、したっけ。剣を教えたり、乗馬を教えたりとかもしたな。
 ふっと息を吐いてシャツを脱ぎ捨て、新しいものを羽織った。
 なんか眠気が来ない。昼間に寝こけてたせいだろうか。散歩でもしたら、気が和らぐかな。
 剣の代わりにベルトにナイフを挿して部屋を出て、夜の闇に沈む敷地内の石畳を歩く。
 今まであまり執着してこなかったこの場所に、今更ながらに未練のようなものを感じた。
 本当、今更だ。こんな感情。今更すぎる。
 は、と息を吐いたとき、ガタンと音がして、反射で腰のナイフに手をやった。視線を走らせて物音の原因を探し、きい、と少し軋んだ音に上を見上げる。
 気付かなかったけど、どうやらルピの部屋の下まで来てたらしい。夜のパジャマ姿でルピが窓を開けてこっちを見下ろしていた。
?」
「ん」
 ひらりと手を振る。ルピが一度部屋を振り返って、それから手でメガホンを作ってこそこそと俺に話しかけてくる。「何してるの」「んー、夜の散歩かな。ルピこそ、就寝時間過ぎたよ」「だって、なんか、眠れなくてさ…」窓枠に手をついたルピが身を乗り出す。あー危ない、それ危ないからルピ。
 ナイフから手を離して「ルピ、落ちるよ」と言ってもルピは顔を引っ込めない。それどころか、決意さえ滲ませた表情で「ねぇ、二階から落ちると痛い?」とか言ってくるからちょっと慌てる。こら、飛び下りようとか思うなよ。もちろん受け止めるけど、衝撃が殺し切れない可能性の方が大きい。落としはしないけど、できればやめてほしい。
「ルピ、危ないから、」
「受け止めてね
 ルピは俺の制止を聞かなかった。聞かずに、窓枠に腰かけて、飛び下りた。
(馬鹿っ!)
 腕を広げて落ちてくるルピをキャッチしようと構えて、初めて落ちてくる人を受け止めた。どっと腕に一気に衝撃と体重がかかって、力が入らなくなりそうになるのを堪えて、はぁと息を吐く。ぎゅっと目を瞑っているルピに「怪我はない?」と囁けば、そろそろと目を開けたルピがこくんと頷いた。
 焦った。ルピがこんな大胆な行動に出るとは思ってなかったよ。
 とん、とルピを下ろして、靴を履いてないのに気付いた。足が汚れてしまう。…俺の靴はでかいだろうけど、仕方ないか。
 膝をついて脱いだ靴を履かせる。ルピはぶかぶかの俺の靴をぱこぱこ鳴らして笑った。
「ぶっかぶか」
「仕方ないよ。っていうか、お前が飛び下りるとは思ってなかった。どうしたの」
「別に。ただ、自分の覚悟ってのを試しただけ」
「覚悟…?」
 首を捻る俺に、月明かりを浴びて佇むルピが言う。「、ボクね」と言いかけて、口を噤んで。そろそろと俺を窺って見つめて「やっぱり、嫌だよ。お嬢様と結婚して子供作って、今の母さん達みたいになるなんて、考えられない。嫌なんだ」とこぼす唇が濡れて見える。
 嫌なのは分かる。なんていうか、ルピはそういう男がつがつってタイプじゃないし。なんていうか。そう、女の子みたいだからさ。細くて白くて、背もあんまりなくて、強い言葉は使わなくて。どっちかっていうとそのネグリジェみたいに足元ひらひらのスカート着てる方が似合うような華奢な身体をしてるから。
 細い腕を伸ばしてルピが俺を抱き締めた。ぺたんこの胸に頭を抱かれて「ボク、そんなの嫌だ」と言う声を聞く。震えている声を。
「…じゃあ。お前はどうしたいんだ」
 俺が訊ねると、ルピの手が俺の頬をはさんだ。くいと上向かせられて、抵抗しずにルピを見上げる。
 ルピが、月明かりを受けて輝いてる。その全てが。
。ボクね…」
 ボクね。君のことがずっと。
 囁いた声と一緒にキスをされて。今まで生きてきた中で初めて頭の中が真っ白になる感覚を知った俺は。濡れた唇から覗く舌と、月に照らされて泣きそうに笑ったルピに、俺は。
 つまり、話はこうだ。
 ルピは俺のことが好きだった。俺が誘拐されたルピを助けたあの日から、俺に焦がれていた。いっそ自分が女だったなら、俺との逃避行だってできたのに、と思い詰めるくらいには俺のことが好きだった。
 誰かのものになる自分なんて嫌だと。誰かのものになるくらいなら、俺のものに。俺に奪われた方がずっといいと泣いたルピを部屋に連れ帰って、俺は初めて人を抱いた。
 ルピはきっと女の子なんだろう。
 身体は男かもしれない。だけど、かわいいと言われて頬を染める姿や、俺に犯されてよがる様は、女としか言いようがなかった。
 ルピはきっと女の子なんだろう。そうして生まれてきたかったんだろう。そして俺と一緒にここを逃げ出したかったのだ。
「馬鹿だなルピ。そう言ってくれたら、俺だってそうしたのに」
「だ、って」
 は、と息を切らしたルピを抱き締める。白い肌を舌でなぞって「これで分かったでしょ。俺だってお前のこと好きだ。抱けるくらいには」とこぼす俺にルピの頬をつっと涙が伝う。
「ほんと? ほんとに?」
「まだ信じない? もう一回する?」
 背中を指先でなぞると、ルピがようやく笑った。「じゃあ、信じる」とこぼして目を閉じたルピにキスをして、窓の外の傾いてきた月を見る。
 ここを出なければ。できれば今すぐに。
 ルピを抱いてしまった。知られれば、間違いなく俺は消される。俺のいなくなった世界でルピがどんなふうに生きるのかなんて想像したくない。
 ルピをベッドに寝かせて、ズボンを掴んで穿いて、シャツを羽織る。簡単な荷造りを始めた俺をルピがぼんやりした表情で見ている。
「何、してるの」
「ここを出る」
「今から?」
「ああ」
 着替えを放り込んで、換金できそうなものも放り込んで、ベルトに剣を取りつける。のそりと起き上がったルピが腰を押さえた。裸のルピに一度手を止めて、「痛い?」と訊きつつルピでも着れそうなものを探す。小さめのシャツ。昔のあったかな。
 ごそごそ棚をあさる俺にルピは淡く笑って「痛い、けど。嬉しいから、それでもいい」なんて言うから馬鹿だなと笑った。
 本当はシャワーを浴びれたらよかったんだけど、その時間もなさそうだ。使用人が起き出す前に俺達はここを出なくてはならない。
 濡らしたタオルでルピの身体を拭い、中に出したものを掻き出して、ルピにシャツを着せた。ズボンを穿かせて、大きいだろうけどとブーツを履かせる。俺の方は靴を履いて作ったトランクを担ぎ、部屋を出て、馬小屋へ行く。一番付き合いの長い馬を選んで鞍をつけ、ハミを噛ませ、トランクをくくりつけて。ルピを乗せ、自分は鞍から外れた場所に跨って、馬の腹を蹴った。
 月の沈み始めた夜空の中を、点々とした街の灯りの中を駆け抜ける。
 きっともう二度と見ることのない、今まで生きてきた街の夜を抜けて、灯りの一つもない暗い道に突入した。
 ぎゅっと俺の腕を握るルピに「大丈夫」と言う。
 俺達がこれから歩む道はこんなふうに真っ暗闇かもしれない。
 それでも俺にはお前がいて、お前には俺がいる。それだけのために今まで手にしていた全てのものが失われるのだとしても、俺は。俺達は。
Baroque
 僕が成人するまでの間が、大げさに言うなら、日々戦争のようなものだった。
 毎日は苦しい。寝る場所は硬いことが多いし、お腹が満たされるまで食べられることの方が少ない。移動ばかりしているから毎日疲れてるし、安定した生活なんて、遠い未来の話だった。
 それでも、僕を抱いてくれる腕がある。体温がある。優しく笑いかけてくれる笑顔がある。キスしてくれる唇がある。大丈夫だよと言ってくれる声がある。それだけで、僕は幸せだった。
 僕が成人してから、追っ手とか、その辺りの人数がぐっと減った。
 ようやく親が諦めてくれたのだ。僕が成人して、お嫁さんをもらわないといけないのに、公の場に姿を現さない。周囲の疑問の声に親がとうとう誤魔化しきれなくなったのだ。きっとそうだ。
 僕が使用人と愛の逃避行、なんて事実をどう説明したのかは知らないし、興味もない。
 ただ、ようやく少しは落ち着けるのだ、と思ったらほっとしたことを憶えている。


 アパートの窓から顔を出すと、土とか草で汚れた彼がひらひら手を振った。「ただいま」と言われて「おかえり」を返して小さなバスルームに駆け込んで、コックを捻ってお風呂の準備をする。
 今日も泥だらけになって仕事をしてきてくれた。嬉しいな。そんなことを嬉しいなんて思うのは変かな。でも、僕のために何でもしてくれるのこと、いつも嬉しいって思うんだよな。
 お湯を入れて、水を入れて、いい温度にしてから一室しかない部屋に戻る。皮のベストを脱いだが脱力して椅子に腰掛けていた。
「大丈夫?」
「んー」
 昔より筋肉のある背中を撫でると、やんわり笑った彼が「だいじょーぶ」と言って席を立つ。「ルピ今日はいいの? お風呂。俺入ると汚しちゃうよ」「うん、今日はいい。入って」彼の背中を押して狭いバスルームに押し込み、さて、と腕まくりをする。
 ご飯の準備をしなくちゃ。僕は僕にできること、精一杯しなくちゃね。
 が働きに出て、僕が家のことをする。そういう生活をここで始めて、三ヶ月になる。
 でも、これもそろそろ終わりだ。僕らはこの町に馴染む前に次の町へと移動する。このアパートは仮住まいだ。それでも、三ヶ月住んだから、それなりに愛着もあって、それなりに捨てがたいとは思ってる。それでも僕らは次へ行かなくちゃ。ここじゃまだ駄目なんだ。もっともっと遠くへ。あの家から、国から、もっと遠くの方へ。
 スープをあたためて、パンをスライスして、チーズと牛乳を用意する。
 鳥の照り焼きとか、そんな豪華なものはもう無理だけど。こんな食事でも僕は満足してる。君が稼いだお金で買って、僕が調理したりして、食卓に並ぶのだから。それがどんなに質素でも僕は十分だ。
 そのうちズボンだけ穿いたがバスルームから出てきた。「いいにおい」「うん。ちょっと自信作だよ」と腰に手を当てて胸を張ったらに抱き締められた。石鹸の香りが鼻をくすぐる。濡れた肌を、舐めたくなる。
「すっかりお嫁さんだね」
「う、るさぃ」
 ぼそぼそ反論した僕に彼は笑って濡れた髪をかきあげた。
 僕らはこれからも逃亡生活を続ける。
 いつ終わるのかは分からない。もしかしたらずっと世界の中を彷徨いながら生きるのかもしれない。
 それでも構わないと、強く思う。
 だって、ねぇ。こんなにも愛してると思える人と一緒にいられるのだから。それがどこだって、どんな生活だって、辛くはないよ。
 君がそばにいてくれるだけで、僕は幸せなのだから。