心が疼いた。君という存在に

 大学に入って、一人の人と出会った。名前は。高校の成績的にはどっこいどっこいぐらいの子。まぁ大学だったら成績うんぬんは取る課目によって違ってくるし別にどうでもいいんだけど。
「…は? 全部僕と同じにしたい?」
「うん」
 そんな阿呆なことを言ってきたそいつに、僕ははぁと溜息を吐いた。気のせいか頭が痛いと思いながらも、冗談の欠片も見えないそいつの真剣さに折れて、そのときは負けてしまった。受けるつもりのある学科をチェックした用紙を仕方なく手渡して、「あのね、大学って自分の勉強したいことをするとこなんだよ?」と言った。だけどそいつが笑って「俺はルピが勉強することを勉強したいな」とか言うから。だから言葉に詰まって視線を逸らす。
 僕は男だ。間違っても女じゃない。だからこれはナンパじゃない。それは最初に言った。よく、間違われるというか、勘違いされるから。だけどそんなんじゃないよとこいつだって笑った。だからそれは分かってるはず。
 今は簡単に各学科の説明を受けて、単位やもろもろの説明も受けて、残り時間は自由になった。最も僕は自分の受ける学科の目星はつけてきたから、計算してもう決めてしまったけど。
 当然のようにそいつは僕についてきた。最初に集まるホームルームの時間くらいしか意味を成さないクラス編成も同じ組だった。だから必然、一緒に行動することになる。何よりこいつは僕についてくる。ルピって僕を呼んで。
 今日は最初の日だから、ホームルームのこのメンバーがクラスって感じだけれど。
(…変な奴)
 頬杖ついて、僕がチェックした学科をそのまま丸写しするそいつを眺める。黒い髪はちょっと長めで、そうだな、見た目的には多分上々。よく笑う。だけどそれはいつも少し憂いがある。
 何かを悲しんでいる。それくらいは分かった。入学式のときなんかには泣いた。あれは入学できて嬉しかったからじゃないのか。だけど式以外で、こいつはもう泣かずに笑うだけ。
 僕の手を握り締めて、まるで祈るみたいにしていたその姿を思い出す。

『たとえ死んでも、生まれ変わって、きっとまた一緒にいられる』

 そう言ってみせたそいつは笑ってみせたけど、でも、泣いていた。
(どっかの本にでもありそうな台詞。ナンパじゃないのかなぁ)
 頬杖をついてるのが疲れてきて、どうせやることもないしで机に頬をつけて息を吐いた。まだ十分くらいは時間がある。というか僕がどの学科受けるか考えてる間こいつ何してたんだ。ぼーっと僕でも眺めてたのか? それとも何か考えてた?
 大学だし、高校でも友達は多い方じゃなかったし、さっそく顔見知りができたことは嬉しくもあったけど。だけど何だか複雑だ。
(友達…? 友達……)
 何となく響きに違和感があって、僕は一人眉根を寄せる。友達。いやまだ顔見知りだけど。でもそりゃ、いたら便利だから作るけど。とそうなれるならなっておけば問題は。
 何か、胸で引っかかる。
(何? これ)
 ルピと僕を呼んだ最初の一声。そういえばこいつどうして僕の名前。僕はこいつのこと何一つ知らないのに。
 知らない。はず。だけどその笑顔を見ると心のどこかがとけるような、感覚を、憶えていた。今までにないものを。
(…何これ)
「できた。サンキュ」
 返された提出用のそれを受け取って、ファイルに挟んだ。一応家に帰ってからもう一度考えよう。勝手に変えたら…怒るかなは。
「ね、メルアドとか交換しよ」
 それでさっそく携帯をごそごそとポケットから出すもんだから、僕は息を吐いて自分の携帯をポケットから出した。薄いけどピンクだからあんまり人前に出すのは好きじゃないんだけど。男でピンクが好き、って変な目で見られるから。ああだけどこいつの前ではもう何回も出してるか。
 赤外線通信で電話番号とか全部交換した。いちいち入力はめんどくさいし。
 新しく追加された『』の文字と携帯の画面を見つめる。電話番号とメルアド。自宅、はない。だから顔を上げて「一人暮らし?」と言うと「うん。ルピは?」と訊かれて僕は首を振った。家から通える内で大学を探してここを受けたのだ。対してはそうじゃないらしい。
 ぱんとフリップを閉じたの携帯は黒い色。何だかほっとしたみたいな顔をしていた。それに眉根を寄せる。一体何に安心してるんだか。
(…変な奴だよなぁ)
 ことんと携帯を机の上に置いた。「そういえばルピはピンクが好きだったね」と言われて一つ瞬きして顔を向ける。僕を見ているの目はただ真剣だ。真っ直ぐだ。真っ直ぐな、黒い色。
「…変だって思わないの? 男なのにピンクかよって」
「まさか。だって知ってるし」
 が笑う。今更そんなこと、って笑い方だった。
 知ってるも何も。だって僕達は今日出会ったばっかりでしょう?

『俺のこと憶えてる?』

(知らないよ。初対面だよ、今日初めて会ったよ。そのはず、でしょう?)
 そういえばどうして僕の名前を。
 心で何かが引っかかっている。何が。一体何が引っかかってるんだろう。だって僕はと今日初めて出会って、それだけだったでしょう? 他に何が。

『たとえ死んでも、生まれ変わって、きっとまた一緒にいられる』

(……だから、それは、ナンパで)
 視線が彷徨う。何だろう、どうして僕はこんなにもこいつに心を掻き乱されてるんだ。ばかみたい。ばかみたいだよ僕。
 が配られたパンフの方に視線を落として眺めながら、「ルピは何かサークル入るの?」と言うから首を振った。「今んとこ考えてない。君は」と振れば、が笑って「ルピが入るなら同じとこに」と言う。あっさりと。
 何だろうこいつは。僕は手元のパンフを引き寄せてぱらとめくった。次は確か校内を自由に回ってサークルの見学だ。だから全部場所と名前が書いてある校内図がついてる。それを眺める。これから四年間、僕はここに通うのだ。
 サークル。高校でも部活は入っていなかった。運動は好きじゃなかったし、かと言って文芸部に入るほど文に思い入れがあったわけじゃなかった。読書は好きだったけど別に何かを書きたいわけじゃなかったのだ。誰かの何かを読むのは好きだったけれど。だから何もしない帰宅部だったし。パソコンも別にそんなに得意なわけじゃなかったし。そんなことを考えるのも面倒で、だから帰宅部。
(…別に入りたいのないなぁ)
 ざっと眺めて、やっぱりそう思う。「君が入りたいのないの?」ともう一度振ると、がパンフを掲げながら「どうかなぁ。俺は特別こだわりないよ」と言うから。「じゃあどうして大学入ったの」と呆れて言ったらがパンフをばさと机に落として笑った。
「きっとルピに会うためだね。俺はそのために息をしてきたんだ」
「…ねぇ、ナンパなら、相手違いだよ?」
「違うよ。ナンパなんかじゃない。お前は俺を忘れてるけど、俺はお前を憶えてるよ」
 首を傾けて笑みを浮かべた顔。だけど真剣な目は相変わらず。
 僕は眉根を寄せて顔を逸らした。正直こんなにストレートに物を言われたことがない身としてはどうしたらいいのかよく分からない。相手にしなければいいのか。流せばいいのか、もう一度ナンパでしょって。だけどこいつは違うって何度でも言うんだ。分かってる。
(…僕を知ってる? 確かに名前は、知ってたけど……)
 眉根を寄せている間に鐘が鳴った。休み時間開始と同時に、サークル見学兼校内見学の開始だった。
 が顔を上げて立ち上がる。鞄にパンフを突っ込んで「ねールピ行こ」と笑うから。結び直したネクタイら辺に視線をやりながら頷いて、僕もパンフをファイルに入れてそれを鞄に突っ込んだ。一応学科、提出は今週中だからもう一度考えよう。それで変更したら、…一応にも伝えよう。じゃないとなんか、泣かれそう。
 今は笑ってるけど、いつ泣いてもおかしくないくらい、は何だか不安定だった。
「…何で手を繋ぐの?」
「え、だって」
 それで、見学するのは別にいいんだけど。人の流れの中で手を掴まれて、掴まれるまま引っぱられるままに歩いていって、人の流れが少し落ち着いた場所でそう言った。ざわざわとうるさい廊下。が振り返って、それから悲しそうな顔をする。
「いつも、そうしてたよ」
「…僕らは今日初対面だよ」
「そうだね。そうだった」
 ぱ、と僕の手を離したが悲しそうな顔を伏せて、だけどすぐに表情を切り換えて笑うと「お、すげぇや」と教室の方に寄っていった。だけど僕は教室の中よりもの方が気にかかった。どうしてあんな顔をするんだろう。だって僕らは今日初対面。そうでしょう?

『たとえ死んでも、生まれ変わって、きっとまた一緒にいられる』

(……夢で)
 頭に手を添えた。人が多い場所は本当は好きじゃない。人混みは苦手だ。だからとんと廊下の壁に背中を預けた。頭が少し痛い。
(夢で、一度だけ、そんな言葉を)
 夢は見る。当たり前だけどすぐに忘れる。記憶してる方が少ない。だけどそんな台詞を言われた気がする。知らない誰かに。白い服を着て、黒いラインの入った、でも赤く染まったそれを着た、
「、」
 顔を跳ね上げる。痛みを無視してかつと一歩踏み出した。
 それを着ていたのは、今目の前にいる、

「ん?」
 振り返ったの服をがっと掴んだ。きょとんとしているその顔に構わず右肩に手を添えて、左の脇腹にかけてまでを掌でなぞった。当たり前だけど、記憶している夢で見た場所に、傷跡はない。そういう感覚はない。きれいな身体のラインが分かっただけだった。
 それにほっとして息を吐く。
 夢で。あの人は僕を庇って。だって僕は傷がなかった。痛くなかった。ただ涙が、視界が滲みすぎていて、だから今になって、その人を目の前にして思い出した。
「君、を知ってる」
「え」
「夢だけど。一度だけ、だけど。白い服を着て、さっきなぞった場所に怪我をして、僕を」
 言ってて、何だかばかみたいだと思った。だって夢の話だ。現実じゃない。
 だけどが目を見開いて言葉をなくすから。ごめん何でもないんだ、って言えなくなった。どうしてそんな顔をするの。どうして。
 最後のときまで、笑ってたくせに。僕は泣いてたのに君は笑ってたじゃないか。笑って、約束って。
(あ)
 約束。って。

『約束したんだ。そう』

 泣きながら笑ったを思い出した。が僕の手を取って「ルピ、俺も今日それを見た」と言われて一つ瞬く。同じ夢を? あんな夢を全く同じものを見たってそう言うの?
 だけど今までの君の言葉を考えるならそれは、きっと、正しい。
 僕は君の名前を呼んだろう。きっと君も僕の名前を。
 だから視線を伏せた。今の今まで僕は忘れてたのに。君は僕ばっかりを追いかけてきたけれど、僕は全然。だって、この夢くらいしか憶えてないのに。
 そして夢の通りなら、君は死んだ。そして僕も、多分、きっと。
(生まれ変わっても、きっとまた、一緒に)
 ぐっと強く掴まれた腕を引き寄せられて、僕はに抱き締められた。目を見開く。誰かと手を繋ぐのだって久しぶりくらいだったのに、熱いって思ったのに、抱き締められた。苦しかった。息苦しかった。それなのにとても、あたたかかった。
(何? これ)
 心が、とけていく。
「ルピ」
「、
 ざわざわという教室から漏れてくる声。廊下を行き交う人の好奇の視線。僕は目を閉じた。羞恥はあった。だけどその温もりに、強張っていた身体から力が抜けていく。痛かった頭が、もう痛くない。痛くなかった。
(僕、君を、知ってる)
を、知ってる。知ってるよ。はっきり言えないけど、僕は君を知ってる…」
「うん。俺もルピを知ってるよ。ずーっと前から」
 が泣いて笑った。ぽたとその涙が僕に落ちた。僕は目を細めてその目元を指で拭った。
 おかしいね、君は泣いてばっかりじゃないか。ああでも君を泣かせてるのは他でもない、僕か。

涙の理由
(ごめんね僕は君を憶えていないけど、嫌いじゃないよ。君のこと嫌いじゃないから。だから)