さあ、笑って、マイエンジェル

 俺が大学を卒業して自由に動けるようになったことが手伝い、春王と本格的に動き出して数年後。俺達が実現を目指していた花の世界は現実となった。

 『花』は芸の道を志す若者。『花主』は花のパトロンとなる貴族。
 花主は花の芸の最大の理解者であり、花は花主の庇護を受けてその芸を惜しみなく磨く。
 花の姿は花主の品格や教養を映す鏡。『花祭』とは花主が自慢の花を連れて集う祭典である。

 この形を定着させるのにはまだ努力が必要だけど、金銭面は春王が上手く管理してくれてるし、俺は心配してない。俺がすることは春王が得意としない金銭面以外の方面、たとえば花と花主の関係のこととか、まぁ色々だ。
 ウチが設立した学校の花が不遇な扱いを受けているようなら、学院を通して花を保護することもできるし、花主から花を取り上げることもできる。俺は主にそういった花関連のトラブルを解決するためにルピと一緒にあちこちへ出向く外向きの仕事を続けている。
「明日は花祭か…。三日もあると管理も大変なんだけど、半期に一度だし、頑張らないとなぁ…」
 招待者の中で俺も挨拶しないとならない人の名前とか、祭りに顔を出さないといけない時間帯とかを確かめていると、ことんとカフェオレのカップが置かれた。視線を上げるとルピがいて、今は西洋のドレスを着て、ものすごく機嫌が悪い顔をしていた。せっかくのかわいい顔が台無しレベルの不機嫌顔だ。
「まだ怒ってんの? よく似合ってるってば」
 ぶすっと拗ねた顔でそっぽを向いて、ルピは俺と口を利いてくれない。
 どうやらこれ着てこれ着てと勧めて着替えさせたことがよっぽど気に入らなかったらしい。よく似合ってるのにな、ドレス。
 スケジュールはいつもルピが管理してくれてたから、俺はさっきから明日の確認に追われている。自分でやるとこうも大変なことをルピにやらせていたとは。俺もちょっとは自分で管理能力つけないといけないな。
(ああ頭がぐるぐるしてきた。とりあえず休憩しよう俺)
 は、と息を吐いて書類を投げ出しカフェオレのカップに口をつける。ルピは相変わらずぶすっとした顔で腕を組んでそっぽを向いている。本当に嫌なら脱いだっていいのに。
「嫌なら脱いでいいよ。俺としては着ててほしいけど」
「……これ、女物じゃないか」
「家で着てた着物だって女物だったよ?」
「そうだけど。これ、スカートじゃないか…スースーしてすごくヤだ」
「じゃあ脱いでいいよ」
 苦笑いしてカフェオレをすする。ルピはスカートをぎゅっと握ってから諦めた息を吐いた。諦めた顔で俺が腰かけるソファの隣に座って、「明日からの予定でしょう? 復唱できるくらいボクが憶えてるから大丈夫」「本当?」「ホントだよ」ルピが呆れたように笑う。その笑顔が本当にああかわいいなと思って顔を寄せてキスをする。ルピは拒まず、俺の舌を受け入れた。
 ルピの手が俺の手を掴んで、太腿までたくし上げたスカートの中へと持っていく。
 さっきまですごく不機嫌顔だったのに、今のルピは潤んだ目で俺のことを誘惑する天使だった。
「似合うんでしょう? こうされたらもう堕ちる?」
 囁き声が肌を撫でて、スーツの襟元を唇のやわらかさが掠める。
「…理性が崩壊するんだけど。シてもいいの?」
「いいよ。どうせ三日ある花祭の最中シないんでしょ。他の花と話してる君ばっかり見てたらボクが嫉妬で狂っちゃうから、その前に満たしてよ」
 なんだその理由、と思ったけど、ここまで来ると理由を気にかける思考もなくなってくる。
 ルピの白い腿を掌で撫でて、せっかく買ったドレスだから汚したくはないなぁと思いながら、まぁ汚れてもいいか、と割り切ってルピを抱き上げた。キスしながらベッドに行って、鍵はかかってないしカーテンも閉めてない部屋で、ルピとベッドに転がった。
 花祭一日目。
 まず開催前に十五もある舞台の調子を見に早朝からルピを連れて駆けずり回り、無事開催式が終わるとまず最初の仕事が一段落する。
 昨日あれだけ機嫌悪そうにしてたくせに、今日も西洋のドレスに身を包んでるルピはいたって普通だった。というか、外での花としての顔をして俺の隣で紅茶のカップを傾けている。
 ルピが好きな甘いケーキが置いてある唯一のカフェもウチが出しているけど、これはさすがに花の手ではない。この技法を習得するにはかなりの年月修行がいるらしく、パティシエ、っていう部門への挑戦はうちではまだ始まってない。ただ、花の意向次第では取り入れることも考える、という段階だ。
 甘いな、と思いながらルピの手からケーキを一口もらった。うん甘い。
 目の前の舞台は笛を専門にしている花の舞台で、優美な音色、哀愁の音色、宴に流れそうなノリのいい音など、様々な笛の音がここまで届いてくる。
 ケーキを食べ終えたルピが手帳のページをめくりながら「今のうちにご飯食べた方がいいかも。お昼は舞台が休憩の時間に入るから、と話したいって人がたくさんいる」「あーはいはい…春王は?」「さぁ。藤若がスケジュール管理してると思うけど」「あいつも挨拶くらいすればいいのに…」ず、とコーヒーをすすってミルクを足した。ルピはお嬢様みたいにそこにいて、道行く人の視線を無視して俺にだけ笑いかける。「そういうのが無理な人だから君が代わってるんでしょ」と。まぁ、そうなんだけど。
 他へ移動するのも面倒くさいからカフェでサンドイッチを頼んで、それをお昼にした。ルピは俺のを少しかじっただけで、あとはケーキのカロリーがあるからいいと言って食べなかった。
(カロリー。ルピには無縁な言葉の気がするけどなぁ)
 昨日ルピの細い腰を抱いたことを思い出してぶんぶん頭を振った。馬鹿、俺の馬鹿、仕事中にそんなことを思い出すんじゃない本当馬鹿!
 ルピはそんな俺にクエスチョンマークを浮かべて「どうかしたの」と不思議そうな顔をしていたので、「何でもないよ。行こう」とサンドイッチを早々に片付けて席を立って、ルピの細い身体から視線を引き剥がした。
 ルピを連れて、こういうのは春王の方がいいんじゃないかなぁ、と思いながら色んな人に挨拶をして回り、政治の話とか経済の話とかはちんぷんかんぷんだったのでほぼ聞き流して相槌を打つことに徹した。
 俺の分野は花であって、俺が知りたいのはそこだった。相手の話が途切れたのを見計らって、ところでお連れの花は、と話をそっちへ持っていく。それでようやくその人が分かる。
 午後は延々とそれを繰り返し、花と花主の関係を見定め、学院が割って入らないとならない事情の子はいないと分かって何とか一日目は終了した。
 夕方辺りで俺の体力、というより頭の限界がきてエンストし出したのを察したルピが、春王が呼んでいるからと俺を連れて花祭の会場を引き上げた。この助け舟には助かった。さすが俺のルピ。
 俺は頭の体力切れだったけど、ルピは素直に体力の限界だったらしく、俺と一緒にベッドに倒れて、二人してぐうの音も出なかった。
 ようやく腕を伸ばせたのは五分くらい沈んでいたあと。のろりとした手つきでルピの頭に手をやって艶のある髪を撫でつけた。
「今日は、よくできたね。すごいよルピ」
「……君の、花だからね。君はボクの花主だ。恥かかせるわけにはいかないし。そうでしょ」
「うん。かわいかったよ。今もかわいい」
「うるさい」
 べちと手を叩かれてあはと笑う。のそりと起き上がったルピが「着替えなきゃ。もうお風呂入って眠りたい」とのろのろした足取りで隣の部屋に着替えに行った。俺はスーツのネクタイを緩めて上着を脱いだくらいで、もう寝ようかな、とさえ思う。
 そんなときコンコンとノックの音が響いて「はぁい」と投げやりな返事をすると、「お戻りですか様」と声がした。この声は藤若か、と思って起き上がると「失礼します」と藤若が扉を開けて部屋に入ってきた。相変わらずきれいめな藤若は大きめなトレイをぎりぎりな感じで持っていて、慌てて駆け寄ってトレイを受け取った。
「落とす落とす。藤若そう力ないんだから、無理しないで」
「すみません…春王様から夕食を運んでやれと命じられまして」
「え? 春王が?」
「はい」
 テーブルにトレイを置いて蓋を開ければ、まだほかほかで作り立て、という感じのパンとスープの載ったトレイがあった。一度部屋を出た藤若がカラカラと押してきた銀のカートにはまだメインやデザートまで載っているらしく、「片付けは他の者がやりますので、廊下に出しておいてくださいね」と言われた。「あ、うん。ありがとー藤若」「いいえ」にこりとした微笑みを浮かべる藤若にかわいいなぁと思ったとき、ばったんと大きな音を立てて隣の部屋の扉が開いた。顔を向ければぜぇはぁと息を切らしているルピがいて、桃色の着物の帯を締めながらずんずんこっちに歩いてきて「もういいでしょ藤若、春王殿の世話に戻りなよ」と藤若の背中を押して無理矢理部屋から追い出した。
 ばったんと扉が閉まって、息を切らすルピの向こうから「では、明日もよろしくお願いしますね」という苦笑いを含んだ声が聞こえて、下駄の足音が遠ざかっていった。
「…えっと」
 ルピがぎっとこっちを睨んでいるのでたじたじになる俺。
 え、なんでそんな睨んでんのルピ。っていうかね、着物の帯、後ろの方ちょっとこんがらがっておかしなことになってるよ。
「…かわいいと思ったんでしょ」
「へ?」
「藤若」
 苦々しい声でそうぼやくルピにあははと空笑いして頬を引っかく。
 いやまぁ、うん、そうだな。かわいいと思ってしまったけどもね。
 ずんずん歩いてきたルピが俺のシャツを掴んで背伸びでキスしてきた。ごちっと歯がぶつかるような、ちょっと痛いキスだった。

 他の花と話してる君ばっかり見てたらボクが嫉妬で狂っちゃうから、その前に満たしてよ

 昨日のルピの言葉を思い出して、泣きそうなルピのことを緩く抱いて一緒にソファに座った。そっと背中を抱いてあやすように撫で、ルピが落ち着くように、ゆっくりと言葉をかける。
「今日は、俺よりもルピが、本当に頑張ってたよ」
「…………」
「色んな花を見たけど、俺にはやっぱりルピが一番だ。今日の唄もよかったよ。ドレスによく似合ってた」
「…そういう歌を、選んだから」
「うん」
 少し呼吸が落ち着いてきたルピの肩に顎を乗せる。「嫉妬なんかしなくて大丈夫なのに」と言ってもルピは首を振る。「したくてするんじゃない」と。「しちゃうものなんだよ」と言われてうーんと苦笑いしてルピの耳に唇を寄せてキスをした。「俺の一番はお前だよ」と囁く。「愛してる」と言えばルピは俺に抱きついてソファへと押し倒した。俺を見下ろしたアメシストの瞳が不安定に揺らいでいるのを見ると食べてしまいたくなる。でも、俺もルピももう疲れてるし、ご飯食べてお風呂入ったら眠らないと。明日も朝早いから。
「ルピ、ご飯食べよ。せっかく藤若が持ってきてくれたんだから」
「……藤若のこと好き?」
「好きか嫌いかで言われれば、好きだよ。でも俺はお前を愛してる」
 ね、と笑いかけるとルピは納得したのか諦めたのか、俺の上から退いてくれた。
 そっと息吐く。このまま攻められたら俺が堕ちてしまうところだった。危ない。
 それから二人で夕飯を食べて、カートは廊下に出しておいた。
 ルピが疲れてるだろうからと先にお風呂に入らせ、俺はその間眠目で今日花主が決まった花の子達の書類を眺めていた。
 俺がお風呂から出た頃にはルピはすっかり眠っていた。自分のベッドで寝ればいいのに俺のベッドの方で。
 甘えんぼだな、と一つ息を吐いて電気を消し、ルピが眠るベッドに入った。狭いからちょっとだけルピを壁際に動かしたら目を覚ましてしまったらしく、瞼の向こうからアメシストの瞳が覗いた。
…?」
「眠っていいよ。俺も寝るから」
「ん…」
 布団の中で伸びた手が彷徨ったあとに探し当てた俺の手を緩く握った。目を閉じたルピはすぐに眠りに落ちて、すー、と寝息を立て始める。
 その手を緩く握り返し目を閉じれば、疲れと、知っている体温が近くにある安堵で、俺の意識もすぐに水底へと沈んだ。
 俺と春王が時間とお金をかけただけの理想は夢から現実へと成った。
 あとはそれをどう持続させ、存続させるか。そのために俺と春王と、協力してくれるみんなができることを、しっかり考えていかないといけない。
 まぁ、俺は。ルピと俺みたいな花と花主の、屈託なく笑い合う関係がたくさん生まれてくれれば。それが最高かな、と思ってやってるくらいなんだけど。
 今日もまた花と花主の関係が生まれ、そして、消えたものもある。
 俺は、ルピが泣くのなんて見たくないから。他の花の子達も、できるだけ、泣かないでくれるといいな、と思ったんだ。
 きっかけはそれ。そして多分、今でもそれだけを思って俺は動いている。