その日は犬王と、その花主になった逢江という人が鹿王院にやってきた。春王に会いに来たらしいけど、も春王に呼ばれて面会に付き合いに行ってしまったので、残された僕は仕方なく藤若についていってあまり知らない面子の中に混じってクッキーをかじっていた。 藤若は春王の花という関係でよく話をするから平気だろうけど、僕は犬王や花菱とはあまり話をしたことがない。正直なところ僕は自分から交友関係を作るようなタイプじゃないから、こういう時間は、苦手だ。 お菓子を食べてお茶をすするだけの僕に「ねぇねぇルピ殿はさ」と話しかけてきた花菱に視線を投げる。花菱は多分僕とそう変わらないのだろうけど、ここ最近背が伸びてて、僕はすっかり抜かされそうだ。 「殿のこと大好きなんだってね!」 「っ、」 紅茶を口にしかけて、もう少しで吹き出すところだった。ごほごほ咳き込んだ僕の背中を慌てた様子で犬王の掌が撫でる。「だ、大丈夫ですか」と。けほ、と咳き込んで「大好きって…大好きだけど。だって、みんな花主のこと好きでしょう?」と訊けばそれぞれ微妙な反応が返ってきた。「えーっ、誰があんな奴!」とそっぽを向いた花菱と、「いえ、え、そんなことは」と慌てた犬王と、「そうですねぇ」と朗らかに笑った藤若。 僕はのことを思った。今頃三人でどんな話をしてるんだろう。 「あとね、気になること聞いたからさ、訊いてもいい?」 「…何?」 花菱のにやっとした顔を見てしまった、やだって言えばよかったと後悔した矢先、「殿とエロいことしてるってほんとなの?」とにやにやした声と顔で訊かれた。花菱は本当に遠慮がない。 さっきよりは落ち着いてカチャンと紅茶のカップをテーブルに戻した。僕よりも慌ててるのは犬王くらいで、藤若は落ち着いた顔してるし、花菱はにやにやこっちを見てるし。もう。 くしゃっと髪を手を入れたら簪が落ちそうになって慌てて抜いて、直す。が買ってくれたお気に入りで、だいぶ年月がたったせいか少し錆が目立ち始めている。今度新しいのをねだってみようかな、と思いながら一つ息を吐いた。 「…エロいことしてるよって、言えば満足なの?」 「できれば詳しいこと知りたーい」 「なっ、」 さすがに絶句した僕に花菱がけらけらと笑った。ばんとテーブルを叩く僕に「まぁまぁ」と藤若が苦笑いをする。 「言っとくけど相思相愛だよ。無理強いとかじゃないよ。は優しいから、ボクがいいって言わないと絶対シないもの」 「ほうほう」 「花と花主の関係だからってわけでもないんだから。ボクが花じゃなくたってはボクを選んでたっていうし、そういうのってほら、運命とかいうんでしょ」 早口にまくし立てたところに犬王の花主が戻ってきて、危ない空気は一瞬で壊れた。僕にとっては助かる方向で。花菱はちぇっとつまならそうな顔をしてたけど。「逢江様」と席を立った犬王から視線を外してを捜すのだけど、いない。話、終わったんなら、一緒に帰ってきてくれていいのに。 僕の視線に気付いたのか逢江は「殿ならまだ春王殿といるぞ」と声をかけてきた。途端、僕は視線を俯けて「そう、ですか」とこぼして小さくなる。 なんだ、まだ帰ってきてくれないのか。春王との話し合いなら僕も混ぜてくれたっていいのに。余計なことは言わないし、と同じ空間にいられるだけで、満足して息をできるのに。 そんな僕の様子がおかしかったのか、藤若が小さく笑って「行ってらっしゃい。お二人ともあなたが来たからといって怒ったりしませんよ」と背中を押してくれた。だから僕は席を立って「お先に失礼します」と残して速足で応接間へ急いだ。 …急いで来たは、いいものの。 (どうしよう…用事もないのに入るのはやっぱり変かな。本当に大事な話をしてるところにボクが入るのはまずい?) 中の声が聞こえないだけに、扉の前で右往左往する。ノックしてなんて声をかければいいのか分からないでぐるぐるしていると、からんころんと音を鳴らしている自分の下駄の足音に遅れて気付いた。絶対中からバレてる、と思ったところでがちゃんと扉が開いてびくっとする。「はーいどなた」と顔を出したにほっとして「」と声をかけるとぱっと顔を明るくした彼が「ルピぃ!」と僕のことを全力で抱き締めた。それはもうぎゅうぎゅうと遠慮なく。 「ちょ、っと、苦しい」 「あーなんか久しぶりみたいに感じる。ねー春王、ルピ入れてもいいでしょ?」 「……好きにしろ」 「やった」 へらりと僕に笑いかけたが僕を解放して応接間に招き入れた。中には春王がソファに腰掛けているだけで、他には誰もいない。さっきまでここに逢江もいたんだろうけど、それとはまた違う話をしているようだ、と大きなテーブルに広げられた資料の類を見て思った。 「お茶がないなぁ。ルピ、俺の残りもんで我慢してね」 「うん」 「で、話なんだったっけ? 春王」 僕を膝に座らせたが首を捻ると、春王は明らかに呆れた息を吐いた。「弥勒院の花祭のことだ」「あっ、そうだったそうだった」が開けてある煎餅の袋を僕にくれた。中にある硬い煎餅をかじりつつ、僕は二人の話を聞くことにする。 「まだ昔の花街みたいな花祭してるとこなんだっけ」 「ああ。だが奴らも馬鹿ではない。関係者が行けばそれらしく振舞うことに徹するそうだからな。今まで証拠を掴めず潰せずにいる」 「あー…で、俺にどうしろって?」 「お前は皮を被るのが上手いだろう。それらしい格好をすれば悪い奴にも見える」 「えー心外。つまり、俺に潜り込んで証拠掴んで来いってこと?」 「ああ」 話から察するに、弥勒院という財団が主催する花祭は、まだ花街のような花と花主の場を設けることを続けていて、春王はそれを潰したいらしい。それで、潜り込むのがの役目、らしい。 じっと煎餅を見ていると、僕の手にの手が重なった。「でもさぁ春王、それってどうしても花を買う買わないって話になるわけだよね。虚偽でも」「…そうだな」「俺はルピの花主なんですが」「それは分かっている」「俺以外いないの? それできそうな奴」「いないからお前に頼んでいる」…沈黙のあと、はぁと折れたのはだった。僕のことを緩く抱き寄せて「まぁね。花街みたいなこと続けてる花祭はなくすべきだ。分かってるよ」とこぼして僕のうなじに唇を寄せた。吐息が肌をくすぐって背中がむず痒くなる。 「で、俺はルピを泣かせて怒らせることになるわけなんだけど、その代金はどうなるの?」 「……何でも努力はするつもりだ」 渋々そう言った春王に、は小さく笑った。煎餅を見つめたままの僕の頬に手をかけて「ルピ、俺を見て」と言うから、そろりと後ろを振り返った。は卑怯なくらい優しく微笑んでいて、そして、譲らないつもりでいる。 「話聞いてた?」 「…聞いてた」 「怒るよね」 「怒る」 「俺のいないとこで泣くんだろうね」 「泣くよ」 「でもさ、俺、なくしたいんだ。花街みたいな花祭なんて。そのためにできることはしたいんだ。昔のお前みたいに自分のこと汚いって言って泣く子がいるのは嫌なんだよ」 だから、許してね。そう言ってキスされて。僕は、怒ればよかったろうか。泣けばよかったろうか。どうすればよかったろうか。彼の優しさでもうよく分からなくなって、とにかく抱きついた。抱き締めた。その体温を確かめた。 が僕を置いて花祭へ行く。花を選ぶ。それが嘘でも、演技でも、僕は悲しい。寂しい。苦しい。痛い。辛い。 辛い。 でも、が、決めたなら。僕は、背中を押すよ。悲しくても、寂しくても、苦しくても。痛くても、辛くても。 が例の花祭へ潜り込んでいる間、僕はの屋敷の方にいた。三日もあるなら一度のお父さんのいる屋敷に戻ろうかとも考えたけど、学院内には春王がいるし、春王の世話をするために藤若もいる。のお父さんと気まずい空気で家の中にいるよりは、顔見知りのいる広い場所にいる方がまだよかった。 藤若が普段どんな仕事をしてるのか気にもなったし、一日中くっついてあとを追っていると、昼食のときに言われた。「落ち着かないものですか」と。それがのことを言ってるのだと分かって僕はそっぽを向いてサンドイッチを頬張った。 藤若にはきっと分からないよね。春王はヒッキーだから、外に出ないし、そのためについていって外顔を作ることだってないものね。 落ち着けるはずがない。今が僕以外の花を花とするために、嘘でも、そのために、僕でない誰かを選んでいるだなんて。花街を潰すためとはいえ、僕以外を。が。 じわっと視界が滲んでごしごしと着物の袖で目元を擦った。 僕の願いを何でも叶えてくれるというに、一週間の二人きりの旅行の約束をさせた。代金はもちろん春王持ちだ。それが今回の仕事の報酬。 鹿王院が花祭の台頭組みになってからというもの、も僕も忙しかった。それくらいの休みをくれないと呆れるくらいセックスすることもできやしない。むしろ安いくらいの代金だ。 「様はできた方です。あなた以外を愛することはありませんよ」 藤若の声に、目を擦っていた手を下ろす。藤若は僕の隣できれいに微笑んでいる。 「ボクが、の花だから?」 「いいえ。様があなたを、一人の人として愛しているからです」 「……一人の、人として?」 「はい。以前ルピ自身が言ったことですよ。自分が花でなくとも様は自分を選んでくれていた、と。私もその通りだと思っています。様はあなたしか見ていないから」 最も、それはあなたもですよね、ルピ。くすくす笑ってそう言われて僕はぷいと顔を背けた。 …ルピ、と僕を呼ぶ声がする。の声が聞こえる。 まだ帰ってこないのに。まだ戻らないのに。弥勒院の花祭が終わるまで、は花街にい続けるのに。 もうサンドイッチを食べる気力すらなくして、僕はソファに蹲った。「ルピ?」と僕を呼ぶのは藤若の声であっての声ではない。「ルピ、どうしたのです? ぐあいが悪いのですか?」と慌てる声を聞きながら、僕は泣いていた。 (、早く、帰ってきて) 気がつくと、僕は鹿王院とは学園を挟んで対照にあるの家の、の自室にいた。 ぼんやりした頭で起き上がると、ベッドの軋む音がした。視線を下げればがいつも使うベッドがある。けれど、きちんと洗濯されているベッドのシーツからはのにおいなんかしなくて、ただ太陽の香りだけが残っていた。 部屋はしんとしていて、隣の自室に行っても、の姿は見つけられなかった。 部屋を出て当てもなく歩き、ふらついて、花の子達が授業をしている横を通り過ぎ、かけられた声を無視してとにかく歩き続けた。 歩き続けていれば。立ち止まらずにいれば。あの花街にいた頃のように、誰かが手を差し伸べてくれると。誰かが見つけてくれると。が来てくれると、信じていた。 「風邪を引きますよ」 「…ほっといて」 「そういうわけにはいきません。春王様からも言われていますから」 決まって、疲れて歩くのをやめた僕のところにやって来るのは藤若だった。 は約束の三日を過ぎてもまだ戻ってこない。 夜、人気のなくなった校舎脇にぼんやり佇んでいると、やって来た藤若が僕の肩に羽織をかけた。袖を通さない僕に構わず上から細い帯を巻いて腰の辺りできれいな結び目を作る。 「きっともうすぐお帰りになりますよ」 「…分からないじゃないか、そんなこと」 ぐす、と鼻を鳴らす僕に藤若が困った顔をしている。 ぽろぽろ溢れ出した涙と感情が堰を切って溢れ、濁流となって僕を呑み込み、止まらない。 「きっとボクよりも気に入る花を見つけたんだ…そうに決まってる。もう約束の三日たったもの……。、ボクだけだって言ったのに。愛してるって言ったのに……っ、こんなに、ボクを待たせてるくせに…っ」 しゃがみ込んで蹲って地面に伏せる僕に、藤若が合わせて膝をついた。「ルピ、あなたが愛する花主様でしょう。そんなふうに悪く言ってはいけません」「だって…っ!」「三日で戻ると言って約束を破ってしまった様にも非はあるでしょう。ですがそれだけで、ルピ、あなたは今までの様との時間を切り捨てるのですか?」そう言われて言葉に詰まった。 今までの。そう言われて浮かんだのは、優しく僕を犯した彼の顔とか、光る汗とか、熱いキスとか、僕が欲しそうに見ていた簪を買ってくれたときのこととか、洋物のドレスを着て似合うよと笑ってくれた顔とか、僕の唄をきれいだと言ってくれるときの優しい表情とか。キラキラした彼との時間と、熱く溶けるような夜とが交互に浮かんでは消えて、僕の中を埋めた。 …切り捨てられる、わけがない。 と過ごした時間は僕の全てだ。ルピという花の、全てなんだ。 「…戻りましょうルピ。様が帰ってきたときに、あなたが泥だらけでいたら、きっと驚かれます」 どこまでも諭す口調の藤若に手を引かれ、ふらつきながら立ち上がる。 頭上の月は丸くて、今日も輝いていた。 藤若はボクをの部屋へと送り届け、鹿王院の屋敷へと戻っていった。 藤若だって春王の世話があるのに、時間が空けば僕の様子を見に来る。心配をかけているな、と分かっていても、食事は余り手につかず、泥だらけ、と言われたことが気になってシャワーだけは浴びておいた。桃色の着物を着てのベッドに潜り込む。のにおいはやっぱりしない。 「…早く。帰ってきて……」 それだけを願って、目を閉じる。 朝、目が覚めたら、がいればいいのに。早く、帰ってくればいいのに。 四日会ってない。それだけでの声を懐かしく思っている僕は、大げさなんだろうか。彼がいないとまともな生活さえできない僕は、変なのだろうか。 「ルピ」 そして、朝。名前を呼ばれて、朝陽の眩しさに目を開けることができずに視界を腕で覆った。「ふじわか?」と寝起きの声を出すと苦笑いのあとに「違うよ」とまた声が聞こえた。はっとしてがばっと起き上がって、朝陽が眩しいと訴える目をなんとか開けて、僕を呼んだ人を確かめようと躍起になる。 だった。が帰ってきていた。そこにいた。僕の手の届くところに。 震える腕を伸ばして、あまり物のよくないスーツの袖を掴んだ。そっと僕の手に重なった手は少しかさついていたけど、僕がよく知っている体温を持っていた。 「?」 「ん。遅くなってごめん」 申し訳なさそうに笑う彼に、ふるふると震えた僕は、とにかく抱きついた。しゃがみ込んで視線を合わせていた彼にベッドからダイブして飛び込んだ。「え、わっ」慌てて僕を抱き止めが勢いに負けて背中から床に倒れ込む。どったんと痛そうな音がしたけど知らないフリでの胸に顔を埋めた。「遅いぃ、遅いよう」と泣けば彼は困った顔で僕の髪を撫でつけた。 「ほんっとうごめん。なかなか難しかったんだ、証拠掴むってのが。花祭が終わってからようやく尻尾出してね。掴まえるのに少しかかっちゃって。約束破ったし、本当ごめんルピ」 「うー、ううー」 泣くことしかできない僕にはやわらかな笑みを浮かべて僕を抱き上げた。ボクはしがみつくみたいに彼の首に腕を回してぎゅーと身体をくっつける。なるべくその体温を感じていたかった。確かにそこにいると、ここにいると、何度だって確かめていた。 そこへちょうど朝食を持ってきた藤若がやって来て、を見ると驚いた顔をしたあとにほっとした顔を見せた。 「お帰りなさいませ様。春王様のところへは…」 「もう行ったよ。ごめん藤若、ご飯は廊下に置いといて。あとで食べるから。今は二人にして」 「…はい」 小さく笑った藤若が部屋を出て行くとき、僕にやわらかく笑いかけた。よかったですねと僕に笑う顔は、本当に僕のことを心配していて、その憂いが晴れてほっとしたという表情をしていた。 ぱたんと扉が閉まって、僕はベッドへと戻された。まだ泣いたままの自分が嫌で目を擦っていると、がくたびれた感じのスーツの上着を落とした。視線をずらすと、ネクタイを解いてシャツのボタンを外していくがいる。 「愛してあげる。いや、愛したいんだ。ルピ」 シャツのボタンが全て外れて、僕がよく知っている肌が覗くと、呆けていた頭に熱が生まれた。着物の帯にかかった手がいつものように結び目を解き、桃色の着物がはだける。僕を求める掌が膝を伝って腿の内側を撫でていく。煽る仕種で。 その手に、君の熱を求めて腰の奥の方が疼いた。 僕は女みたいに君を求める身体になっている。 昔はそんな自分が大嫌いだった。身体を売って生きている自分のその性が大嫌いだった。 でも、この人に抱かれるようになって、セックスが本当は気持ちのいいものだということを知り、君に愛されて、人を愛するということを初めて知った。 「ルピ」 囁く声は僕の許可を求めていた。 が僕の額にキスをする。頬にも。唇にも。乞うように。 …僕は、の花なんだから。の好きにしていいのに。いつまでたっても僕のこと、花って扱い方はしないよね。最初から君は、僕のことを、一人の人として、見ていてくれたよね。 「愛して、くれるの?」 「全力で」 笑った彼の首に腕を回して鎖骨に唇を寄せた。少し汗のにおいのする肌を吸って「じゃあ愛して。ボクが壊れるまで」と囁けば、苦しいくらいに抱き締められて、ベッドへと押し倒された。 |