緩やかに閉じていく、


そこは二人だけの世界

 あれから、数年が経過した。
「…あのさ、やっぱり、無理があると思うんだけど……」
「そう? 似合ってるじゃない」
 黒いドレスを着た黒髪の子を、長身痩躯の彼が表情を輝かせて「似合う似合う」といつかのように頬ずりした。それに片目を瞑ってやり過ごしながら「なんで黒? 普通白でしょう?」「だって白じゃあの頃みたいじゃない」「それは…」アメシストの瞳を伏せて、その子が口を噤む。彼はにこにこした顔で「いいよ似合う、黒で行こ!」とあっさりドレスをそれに決定した。
 むぅと眉根を寄せて「じゃあもその黒のなの?」と問いかけられ、と呼ばれた青年はあっさり笑顔で「うん」と一言。それに呆れたような息を吐くドレスを着た黒髪の子。
「あのさぁ、葬式じゃないんだから…やっぱり白にしようよ。あの頃とは違うんだしさ」
「えー。うーん…せっかく仕立てさせたんだけどなぁ。ルピはそれ気に入らない?」
 ルピと呼ばれたドレスを着たその子が首を振る。「気に入らないとかじゃないけど、さ。でも黒だって、ほら、敵の色じゃない」と歯切れの悪い返答をする。が首を傾けた。彼の姿は黒い燕尾のスーツ姿だ。黒と黒。それに眉根を寄せて、ルピは言う。
「やっぱり白がいいよ。どうしても白だけがいやって言うんなら白と黒にして」
「…しょーがないなぁ」
 ぽりと頬をかいたがルピに顔を寄せてキスをした。その部屋には二人以外には誰もおらず、どちらともが拒む気配もなく、口付けは舌を絡める深いものに変わっていく。

 結婚式の必要性はすでにないほど二人は愛し合っていた。けれど一つの区切りということで、の方が提案したのだ。ドレス着たいでしょ、っていうか着てるの見てみたいなとルピに笑いかけて。
 そんなの今更すぎるとルピは反対したものの、の強い要望に拒絶を示すことなどできるわけもなく。渋々、こうしてドレスを着用するに至ったわけである。

「、目的。外れてきてる」
「あ、ごめん。だってかわいいから」
 とんとの胸を押してルピが顔を逸らせた。が笑う。こつりと額を合わせて「ルピはきっとずーっとかわいいんだろうね」と言ってその手が背中を撫でた。それに片目を瞑って耐えるような顔をして「うるさい、煽るな。だいたい人間なんだから歳取ってるよ。これからどんどん老けてくんだよ」とかわいくないことを言っても、は慣れたように笑う。
「ルピはどんな大人になるかなぁ。それも楽しみだなぁ」
「…君って変なところで前向きだよね」
 はぁ、と呆れたように息を吐いて、ルピが笑う。仕方ないなぁというふうに。

 あの頃から二人の身長差は縮まらず、あの頃のまま、二人の心は少しも変わってはいなかった。
 どちらともが成人し独立し、が職を持ち、ルピは彼の帰りを家で待つ。ささやかだけれど幸せな毎日。だから結婚式なんて今更なものは必要ないとルピは主張したのだけれど、こんな田舎だし、とルピは付け足したけれど、は首を振った。一回だけだもん、やっておこうよと。ドレス着てよと譲らなかった。
 日本を離れ、二人は遠くイギリスの田舎町にいた。

「…ねぇ、もういい? 脱ぎたいんだけど」
「脱いだら食べちゃうよ俺」
「なっ、ばか言ってるなよこの!」
 べしといつものように頭を叩かれて、あははとが笑う。相変わらずの真っ赤な顔でルピが「あっち行って、着替える! 一人でやる!」「ええーつれないなぁ」笑いながらがルピから手を離した。「じゃあ俺も着替えてくるよ」と言ってあっさり離れていくその背中に、ルピが頬を膨らませてそっぽを向いた。相変わらずの二人。そしてそんな二人を呑み込み、世界は回っている。
 ばかばかばかと胸のうちで彼を罵りながらも、ルピはこっそりと安心していた。あの頃と何も変わらないことに。世界が変わっても自分達は変わらなかったことに。約束が果たされたことに。些細な現実が、それでも回っていくことに、安堵を憶えていた。
 一方の方はと言えば、ルピは相変わらずかわいいなぁと分かりやすいことが頭の大半を占め、けれどもう半分ではこれからどうするかについてという現実的な問題に占められていた。ルピと一緒にいられる未来を最優先に考える彼が安堵するのはやはりというか、ルピと共にあれるときだけだった。
 どうしようもない些細なことが。それでも二人を病的なまでに苛み、お互いを依存させ存続させている。
 望まぬ形で二人が引き裂かれるような未来が訪れたなら、些細なその幸せは崩れ落ち、どちらともがどちらともを追いかけるあの頃が戻ってくるだろう。
『たとえ死んでも、生まれ変わって、きっとまた一緒にいられるよ』
 あの言葉は鎖となって二人を縛ることだろう。
 そうはならない未来を、は常に案じていた。そしてそんなふが心を許すルピは、そんなふうに考えるのことを案じる。僕は大丈夫だよと何度となく言う。けれどは首を振る。俺が不安なんだよと。
 田舎町に来たのは犯罪が少ないから。海外に来たのはその方が都合がよかったから。
 田舎は確かに仕事をするのには不便だけれど、特別にネット回線を繋げて自宅からでも仕事をこなせるようにした。
 そんな二人の家には、様々な物事に対しての用心のために番犬として大型犬のハスキーが一匹、玄関に控えている。忠実に二人を慕うハスキー犬の名はトレパドーラ。それがどこから来ているのかは、語るまでもない。
 二人が帰宅すれば、へっへと舌を出して尾を振り「わん!」と吠えるトレパドーラに、ルピが「ただいま」とその頭を撫でる。その身体は決して小さくないけれど、は「よっ」とトレパドーラを抱き上げて「ほーら帰ったぞー」と笑いかける。「わん!」と吠えるトレパドーラはただ二人の帰りを待つ番犬で、忠実であった。
「今日は夕飯何にしよう? 田舎って買い物するところに困るんだけど…いちいち自家栽培はめんどくさいよ」
「いいじゃない、時間は余るほどあるんだし。あの頃よりは退屈じゃないでしょ」
 がちゃん、と玄関の扉を開けて二人が家へと入っていく。手と手を取り合った二人はあの頃から変わらず、ただ人としては歳を重ねた。
 邪魔なものは、が全て葬った。この世で刀が物を言わずとも、代わりに彼にはお金があったのだ。
「あのね、今度は玄関に花でも植えようよ。俺苗買ってくるからさ」
「いいよめんどくさい。トレパドーラの世話でお金かかってるじゃない」
「あの子は番犬でしょ、またべーつ。玄関がさみしいからさ、やっぱり花。ルピの瞳の色がいいなぁ」
 ぎ、とがリビングのソファに腰かける。ルピが呆れた顔をしてその隣に座り込む。二人で寄り添う姿はこの家での常の光景だった。二人はお互いに依存しなければ生きられない存在となっていたのだ。
 それは果たして幸せなことなのか、それとも。
「じゃあ僕はピンクがいい」
「言うと思った」
 が笑ってルピの頬に唇を寄せた。「いいよ、両方買ってくる。どうせならきれいなガーデニングにしようよ。家庭栽培してるんだし、田舎ならではって感じでさ」と笑う。笑ってルピに口付ける。くすぐったいを片目を瞑るルピ。
「君世話しないでしょ。なんだかんだ言って僕が料理してるし」
「俺は料理は苦手なんです。っていうかルピの手料理が食べたいからそれでいいよ」
「…はぁ」
 ルピが息を吐く。慣れたように、しょうがないなぁと笑って。
 なんてことのないいつものやり取り。手を握り合っている二人。寄り添い合う時間。
 二人のベッドルームではパソコンが起動音を立てている。誰かがお呼びのようだ、とは思ったけれど、流した。電話はここには存在しない。連絡手段はパソコンのみ。外部と繋がるのはそれ一つだった。
 必要なものはネットで購入するか、それとも二人で街まで出かけて買うか。
 お互いがお互いに依存し、病的なまでのそれは運命を通り越し呪いとも言えるものになっていたが、二人はそれで問題なかった。それで世界は存在していた。そんな二人を世界は呑み込んでいた。二人はお互い以外を緩やかに拒絶し緩やかに距離を取り、二人は二人だけでありたかった。
 多少の歪みが生まれど。世界はそれでも回る。
「ねぇ」
「ん?」
「式、ほんとにするの?」
「するよ。二人だけ。あ、神父さんだけはいるけどさ。誰にも内緒で二人だけで二人だけの秘密、作ろう。ね」
「…もう十分すぎるくらい作ってきたと思うんだけど」
「えー、いや? 俺はまだまだ人生エンジョイする気でいるんだけど?」
「いやじゃないよ。いやじゃなくて、その…君、無理してないよね」
「どうして? 俺、ルピと一緒にいられたらそれで満足だよ」
「僕だって、君と息をできたらもうそれでいいよ」
「そう言われると、なんかもう何もする気がなくなるでしょー。仕事はしないといけないんだからさぁ」
「…僕も何かやるよ? ばっかりじゃなくて、僕もなんか」
「それは駄目。ルピは俺のためにご飯作ってください。それがお仕事」
「……こじつけじゃない?」
「だってほんとのことでしょー。俺料理だけは上手になれないんだよなぁ。英語は追いついたのに」
「それもおかしな話だよね…君のことばかだなぁって思ってたのにさ、今は英語ぺらぺらなんだもん。僕の方が下手じゃない」
「いいよ、俺が代弁する。ルピは俺と日本語で喋ってくれてればいいんだよ」
「…まぁ、そうかもしれないけどさ。近所とか、挨拶くらいしかできないじゃない僕。会話が成り立たないよ」
「それでよし。ルピは俺とだけ喋ってください」
「それずるい。君は僕以外と喋るくせに」
「えー、浮気したいの? 俺泣いちゃうよ?」
「誰が浮気するか誰が。っていうか浮気とか考えられない。…君以外考えられない」
 拗ねたような顔をするルピに口付けて、が囁く。「ね、ベッド行こ?」と。耳を掠める吐息と声色に背筋を粟立たせ、ルピが目を瞑った。耐えるように。
 いつものことだ。耐えるのは、羞恥心故。けれどルピがその声に拒むことはない。腰に回る腕に応えるようにその首に腕を回して、ルピは囁き返す。「近所迷惑にならない程度にしてよ」と。は笑った。「はーい、気をつけます」と。
 の手に引かれ、ルピも立ち上がる。行き先は一つだ。

 部屋のそこかしこに色が溢れている。キッチンもリビングも二人が向かうベッドルームも、空白を嫌うかのようにただ色が溢れている。
 けれど、ここには黒はありはしなかった。
 玄関ではトレパドーラが伏せっている。いつものように二人が奏でる音にぱたんと耳を一つ動かして。
 そしてここには白もまたありはしなかった。家は煉瓦造り。お揃いのようにトレパドーラの犬小屋も同じ色をしている。
 空が曇り始めた。それにトレパドーラが顔を上げる。冷たい雨に晒されることを避けて小屋の中に避難するトレパドーラ。しばらくして雨が降り出し、さああという静かな音が大地を叩き、敷地の芝生を叩き、家の中からは別の音。慣れているその音色にぱたんと耳を一つ動かし、トレパドーラは目を閉じる。
 歪んだ二人を呑み込んで、それでも世界は回っていく。
 お互い以外を緩やかに拒絶し孤立していく二人を主人とし、トレパドーラはただそこで息をする。他ならないその二人のために。

そこは楽園
(それとも)