自分で言うのもなんだが、俺は無気力だしネガティブ、現実主義の人間だ。
 だがそのくせお人好しで苦労性という損な性格をしているということは、スターライトオーケストラという壮大な夢を掲げて歩き続ける朝日奈という同級生のせいで嫌と言うほど思い知っている。

「…………何してるんだ」

 その日も同じだ。基本的に無気力でネガティブで、現実主義者で、うまくいかない世界を知っているのに、無駄にお人好しを発揮して、見ず知らずの人間に声をかけてしまった。
 散歩しようと思い立ってヴァイオリンを置いて外に出た。どこにでもある公園、どこにでもある夕暮れ、どこにでも溢れる景色。その中で一点だけ普段にはない様相でいるのは、同じ学校の普通科の制服を着た人物。
 暗い表情でベンチに座り、膝の上には抜き身の刃物があるとなれば、さすがの俺も声をかけざるを得ない。
 無気力、というより、死んだ目をした相手はのろりと顔を上げた。「ああ……ええと。九条くん」どうやら相手はこちらのことを知っているらしい。
 無感動に、むしろ無機物のように夕焼けの光を反射していた瞳がすとんと膝に落ちる。抜き身の刃物に。「ねぇ、これ、刺したらやっぱり痛いよね」「……そりゃあそうだろう」何を考えてるのか知らないが、慎重に言葉を返しながら、アレを取り上げないと、と思う。
 向こうは俺を知ってるようだが、俺は相手を知らない。
 知らない相手が死にたがっているのだとして、ならそうさせてやればいい。それが相手の望みなら。
 そう思いながら、俺はこうも考えている。
 目の前で自殺なんかされてみろ、後味が悪い。たぶん一生引きずる。あのときこうしていればよかった、ああしていればよかったって後で嫌ってほど思うんだ。それを延々と引きずる。だから、止めないと。
 けど、こんな場面、早々出会うものじゃない。なんて声をかければ適切なのか、なんて知らない。

「何か、悩んでいるのか」

 ありきたりな言葉しか出てこない俺に、相手は失笑したようだった。「悩まないと、こういうものを手にはしないと思うよ」「それもそうだな。じゃあ、何に悩んでるんだ。俺で良ければ聞くが」一歩、彼女が座るベンチに寄る。
 彼女は笑みを引っ込めると、はぁ、と深く息を吐いて刃物の柄を指でなぞった。「九条くん、ヴァイオリン、できるんだね。この間見たんだ」「……ああ。色々あって、しばらくやめてたんだが、また始めたんだ」彼女は虚ろな目で俺のことを眺めている。「少し、楽しそうだね」「え?」「あなただよ。九条くん。いいね。良かった」「……そうか?」「そうだよ」自分の顔に手をやってみるが、特段、いつもと変わりはない。朝日奈の面倒事に巻き込まれただけ。そう思っていたはず。だが。
 ふらっと立ち上がった彼女は、夕陽を反射する刃物を片手で掲げてみせる。その切っ先を自分へと向けて。

「ねぇ、今ここで私が自分を刺したら、あなたは、後悔とかするのかな」
「………するだろう。そりゃあ」
「そっか」

 すとん、と腕を下ろした彼女はその刃物で手首を切った。躊躇いのない慣れた手つきだった。
 細い手首にはいくつも蚯蚓腫れや消えない痕があり、彼女が日常的にこうして手首を切っていることを示していた。
 ぽたぽたと赤い色が地面に落ち、表情一つ変えない彼女はその一閃だけで刃物を鞄へと突っ込んだ。「おい……っ」手首からはまだ赤い色が伝って地面へと落ちている。
 目の前で手首を切ってみせた、その衝撃にうまいこと動けず言葉も出てこない俺に、相手は薄く、ほんのりと笑うと、「いつものことだから気にしないで。じゃあ、また明日」と言ってしっかりとした足取りで歩いて行ってしまった。
 結局大したこともできなかった俺は、とても散歩という気分にはなれず、寮の自室に戻ってヴァイオリンを手に取った。
 俺の心のさざなみを表すように、音色はいつもより安定せず、不安に揺れた。
 次の日、登校してクラスに顔を出して、驚いた。昨日死んだ顔で自分の手首を切ってみせた彼女が「いやー昨日はごめんネ!」と明るく挨拶してきたからだ。「えっ」思わずそんな声まで出た俺に両手を合わせた彼女は昨日とはまるで別人で、明るくて、快活だった。

「ちょっと魔が差してさ。ホントごめんネ〜ビックリしたよね」
「何々、ってば九条くんになんかしたの?」
「やぁ、愚痴聞いてもらったんだよ。ね」

 笑いかけられて、その笑顔が昨日のものとは全然違って、目の前がくらくらする。
 女子同士の話に流されるまま適当に会話を合わせ、昨日とは別人の彼女、のことで頭を埋めながら席に着く。
 彼女は昨日切ってみせた手首にバンダナを巻いていた。
 ……そういえば、いつでもそうやって手首に何かを巻いていた子が、いた気がする。
 どっちが本当のなんだろう。ああしてクラスメイトに明るく振舞って笑う彼女か。それとも昨日公園で出会った、死んだ顔で手首を切っていた彼女か。
 ただのクラスメイト。友達でもない。本来のがどっちだろうが俺にとってはどうでもいいこと、のはずだが。
 スッキリしない気持ちで午前中の授業をこなし、昼休み、購買にパンでも買いに行こうと席を立つと、目の前でぱっぱと手を振られた。「ハロー」だ。にこにこした笑顔で「ちょっと付き合ってよ。昨日のお詫びでパンを奢るぜ〜」「……じゃあ、甘えるよ」別に、その手にある焼きそばパンにつられたわけじゃない。純粋に、彼女のことが気にかかった。だからその申し出を受けて付き合うことにした。
 昼休み、澄んだ青空の良い天気ともなれば、校舎の外のベンチは生徒でだいたい埋まっていたが、用意のいい彼女はチェックのシートを地面へと広げて「さあどうぞ」と笑う。
 その笑顔に妙に胸がざわつく。
 大人しくシートの上に腰を下ろし、もらった焼きそばパンの封を破る。用意のいいことに無糖の紅茶のボトルまである。

「驚いた? アレが学校の私」

 ポツリとした声に隣に視線をやると、膝を抱えてサンドイッチの封を破ったが、死んだ顔をしていた。どうやらそちらが素らしい。「こんな死んだ顔してると、イジメられるからさ。なるべく明るく振舞ってるんだよね」「……そうか」「九条くんみたいに、黙ってても格好がつくイケメンなら良かったんだけど」俺は別にイケメンじゃないと思うが……。
 なんと返したものか、考えながら焼きそばパンを頬張る。
 はそれきり黙ってサンドイッチを食べていたが、急に、スイッチが切れたように背中からばたっと倒れた、と思えば、「疲れたなぁ」とぼやいて目を閉じた。
 ………そりゃあ。普段の、本当のお前が死んだ目をした魚みたいなものなら、学校での作った顔は相当な無理をしてるってことになるだろう。疲れもする。
 俺がお前の本当の顔を知ったのはただの偶然。
 こうしているのも、ただの偶然と、お人好しが重なったというだけ。
 そのお人好しが、また顔を出そうとしている。

「………演奏を。聞きに来ないか」
「え?」
「今度、コンサートがある。小さなホールだけど。お前の分くらいならチケットも都合できる」

 精一杯の言葉を吐き出すと、彼女は唇を緩めて笑った。「それは慰めてくれてる? それとも、それまでは生きろって言いたい?」「別に、他意はない。来たくないなら来なくていい」「………九条くんは、もっとイケメン活かさないとねぇ」笑った彼女は俺の誘いを拒否はしなかった。しなかったから、後日、一ノ瀬先生に頼んで都合してもらった(さんざんからかわれた)チケットを渡すと、また苦い顔で笑われた。だが、拒否はせず、受け取りはした。それが答えだった。
 別に、音楽で人生を変えてやれるなんて、壮大なことを思ってるわけじゃない。
 ただ、俺は音楽に人生を変えられた。一度目は喪失。二度目の今は、無謀な夢を追いかけて。きっと叶うはずのない星の舟を夢見て、今もまだソラを目指して音を奏でている。
 音楽で人生を変えてやれるなんて思ってないけど、色のない日常に寄りそう音くらいには、なれるかもしれない。
 だから、コンサートのその日、制服姿のがちゃんと音を聞きに来たことにはホッとしたし、演奏のあとでCDを買っていったことにもホッとした。オケの収入がどうこうではなく、彼女にも何かしらの形で音が届いたのだろうということにホッとした。
 俺としては、してやれることはそのくらいだ。
 の人生に手を貸せるほど自分の人生に余裕はないし、そういう義理もない。
 ただ、俺の精一杯は、彼女の人生に何かしらの影響を与えたらしい。

「スタオケのファンになったよ!」
「は?」
「次の日程も教えてよね! これ、CDにサインちょうだい!」

 ずい、と差し出されたCDケースに困惑し、サイン、というよりテストの記入時みたいな文字で九条朔夜、と書くと不満そうな顔をされた。「ええー退屈なサイン…。次のCDのときはもっと良いの書いてよね」「はぁ…」わざわざ再生機を買ったらしい彼女はCDを機械に入れると、座席に戻って上機嫌な様子で聞き始めた。
 どうやら俺の、スタオケの精一杯の演奏は、彼女の人生を彩ることに成功したらしい。
 その表情は、以前よりは無理のないものになっている。そんな気がして、俺は一人安堵の息を吐くのだった。