あるところに一人の吸血鬼がおりました。その吸血鬼は錆色の髪と同色の瞳を持っていました。
 その吸血鬼は今しがた一人の少女を亡き人としました。
 吸血鬼は血を飲む生き物でした。人間の生き血が彼にとっては必要でした。
 その少女の血の匂いに釣られて彼は貴族の屋敷に忍び込み、給仕服を纏う仕事をしてまで、彼は少女へと確実に近付いていきました。
 美味いだろうと、そう思わせる血の匂い。彼はそう確信していたのです。
 そして彼の確信は的確でした。これまで何度も血をすすって生きてきた彼の感覚は研ぎ澄まされ、少女の血は確かに今まで食したどの血よりも甘く心地のよい飲み物となって、彼の渇きを癒しました。
 給仕として人間のものを食べている間、いわば彼は断食状態。久しぶりに口にした血は彼の口の中でいつまでも甘く残り、思っていた以上にその渇きを潤し、そして。

「、」

 逃亡の途中、少女の変わり果てた亡骸が横たわるだろう屋敷を振り返って吸血鬼である彼が立ち止まります。
 その目からは透明な雫がこぼれ落ちていました。
 彼は黙したまままた飛翔します。屋敷と守りの呪いがかかった場所を出てしまえば彼は自由に空を飛べました。
 こだわってじりじりと近付き手に入れた獲物。口にしたその血。彼は満足していました。けれど喉の渇きを潤した彼女の血とは裏腹に彼の心には違うものが降り積もっていました。
 けれど彼は自分の心から目を背けて頑なにその事実を否定しました。彼は認めませんでした。こぼれ落ちた己の雫が、それが後悔かもしれないということは、彼は決して認めませんでした。
 吸血鬼は血を飲まなくては生きていけない生き物なのだからと。これは仕方がないことなのだからと、彼は。
 そして、現在。
(…変死体か。同類の仕業だな)
 投げやりにポストに突っ込まれていた朝刊をばさと広げて斜め読みする。そうすると一面に大きく取り扱われている変死体について多少の情報が得られた。犠牲者の名前なんかはどうでもよかったが問題は干からびたような女性の、という死体の表記の仕方だ。
 これじゃあ吸血鬼なんて生き物がまだこの世の中にいると世間に宣言してるようなものだ。
 誰か知らない同類に溜息を吐きながらばさと新聞をベッドに放ってぎしと腰かける。
 視界に入るのは一室のアパート。どこにでもあるアパート。十九世紀になって貴族以外も多少なりともましな生活ができるようになった、そんな時代のどこにでもある狭いアパートの一室。
 人間になりすますのは簡単だった。吸血鬼は生き血を飲み続ければ外見が変わらず歳を取らない。正確には細胞が的確だと判断した状態を維持し外見が変わらない。つまり、必要なのは定期的に住む場所を点々として他人とのやり取りは最低限の付き合いだけに。必要なことをしてそれ以外はしない、それだけをしていればこの世界を渡り歩くのはそんなに難しいことではなかった。
 あの頃に比べればきっと今が世界の進歩の時。そう思えるくらいにこの百年で世界は激変した。少なくとも俺が移住を続けるヨーロッパ地方は。
 窓の外に視線をやれば車の灰色っぽい排気ガスと蒸気が上がっているのが見える。
(…百年か)
 どさと背中からベッドに倒れ込んで目を閉じる。そうするとまたあの屋敷を思い出した。
 吸血鬼の存在をまだ訝っていたあの頃。それなりに俺達に通用する呪いがありそれを実行され、力を行使できない状態で人間になりすまして一つの貴族の屋敷に忍び込んだ。狙いは鳥籠の中にいる一羽の小鳥。
 その小鳥は飛び立つことを許されず、鳥籠の中に閉じ込められ続けていた。
 そこから解き放たれる日は永遠に来ないと知りながら機会を窺った。貴族の屋敷だ、失敗は許されない。逃亡するのに時間もかかるだろう。足取りを完全に消すまで恐らく何年もかかる。
 そうと分かっていても口にしたいと思う、甘い血の匂いだった。
『ねぇ。自由と恐怖って、どちらがこわいのかしらね』
 ふいに掠めた声。ぱちと目を開けてもそこに声の持ち主はいない。
 我ながら馬鹿げてる。百年も前のことを今もまだ憶えているなんて。
 あの屋敷はもうない。取り壊された。そこにいた人間がどこへどう散り散りになったのかなんてことは知らない。あの地に俺はそれ以降一度も足を踏み入れていない。
 もう誰も吸血鬼なんて非科学的な生き物の存在を信じず、科学でできることが全てだとされている時代。あの頃から百年しか経っていないのにこんなにも変化した時代。その中で変化しないで生き続ける自分という存在。
「…我ながら馬鹿げてる。まだお前の名前を憶えてるよ。
 ぼやいた声は外からのファーンという耳障りなクラクションの音に掻き消された。
 目を閉じなくても思い出せる。一枚絵の中に立っているように常に貴族の一人娘に相応しい格好をしていた彼女。籠の中の小鳥は籠から抜け出そうともがくことはしなかった。ただ鳥籠の格子を見つめて佇んでいた。彼女はそういう人だった。
 あの血より美味いと思える血はまだ口にしたことがない。あれ以降血の味は薄れるばかりで美味いとも思わなくなった。ただそれでも吸血鬼として生きるためには生き血を飲まなくてはならなかった。それだけ。
 何か口にしようと起き上がってみても殺風景な部屋が見えるだけで、ここはあの屋敷ではなく。
 もう俺しかいない。彼女はいない。他でもない俺が殺した。
 何か。そう思って買い置きしてあるパンを手に取ってみても少しも食欲は出なかった。千切って一かけら口にいれて水で流し込むだけで精一杯。胃が受けつけない。まるで拒んでいるようだ。彼女の血を口にしてから何かがおかしい。人間の食事は面倒だし不味いものも多いから確かに好きじゃなかったが、こんなふうに苦痛なものではなかったはずなのに。
 血がないのなら人間のように食事をするしかない。血がないからすぐに死ぬわけじゃない。俺はそんなに弱くない。最も強くもないだろうが。
「…はぁ」
 我ながら馬鹿げてる。そう思ってパンを放り出し立ち上がった。駅前にでも行って次の目星でもつけようと思った。
 血を口にしたい。どれだけ不味くともパンなんかを食べるよりはましなはずだ。
 アパートを出てがしゃんと扉に鍵をした。ポケットに手を突っ込んで軋む階段を下りながら狭い路地裏に出る。人通りに出る道は行かずあえて裏道を通って表通りまで進んだ。暗い路地裏が俺という生き物にはぴったり見合っている気がした。
 駅まで行けば人がいる。別にその辺の誰かだってよかったはずだが、駅まで行こうと思った。誰でもよかったというのに、俺はまるで誰かを探しているようだ。血は確かに美味い方がいい。だけど彼女の血より上等な血があるのか。今まで何十人と殺しその血を奪ってきたが、そのどれもが彼女の血には到底及ばない味で。

 彼女の血を口にしてもう百年。彼女を殺してからもう百年が経った。
 俺が彼女を殺した。鳥籠から飛び立つことを知らず自由を知らず恐怖を知らず、お飾りの人形よろしく育てられた彼女を。何も知らなかった彼女を。
 あの血の味が忘れられない。
 忘れられない。自分がこんなに執念深い性格だったとは思いもしなかった。
 捕食するためにあの屋敷に忍び込み、それを前提で下働きなんてものをした。そうまでして彼女の血にこだわった。
 俺は今もまだ彼女を憶えている。もう何十にも何百にも生き血をすすってきたのに思い浮かべるのは彼女の笑顔だ。最後の笑顔。血の味。俺が、彼女を、殺した。

(後悔、しているとでも?)
 ちゃりとポケットの中で部屋の鍵が鳴る。
 ざわざわと近付いてくる雑踏のざわめき、陽の光。眩しいそれに手をかざしながら通りに出て、すっと差し出された赤い花に一瞬固まった。それが花売りのものだと気付くのに数瞬かかる。
「お花をどうぞ。赤い瞳がきれいなお兄さん」
 声。その声に身体が強張った。そんなはずはないありえるはずがないと思いながら目の前の花を受け取って視界を庇っていた腕を下ろせば、そこには彼女がいた。あの頃のような貴族の格好ではなく、見る限りでみすぼらしく。だけどあの頃にはない笑顔を浮かべてそこに。
?」
 掠れた声が唇から落ちた。ことりと首を傾げた彼女が「…私の名前。お兄さんお知り合いだったかしら」とこぼして一つ瞬きして不思議そうにこっちを見つめる。その腕には籠いっぱいの赤い花。駅前にいる花売りの少女、そういう格好をした彼女。
 籠の中の鳥は今、崩れた鳥籠から初めて外へと飛び出した。
、なのか…?」
「私の名前は確かにですけど…お兄さんのお名前は?」
 目を細めた彼女に冷やかしだと思われないように財布を引っぱり出して「いくらだ」と訊いた。ぱっと表情を輝かせた彼女が「ありがとうございます! お一つで」「全部だ」「え?」「それ全部」だから彼女が腕に下げている籠を示せば困惑した顔を返された。
「ええと、一籠ですか? 待ってください、全部でいくつか数えます」
 一つ二つと花の数を数え始めた彼女を見つめて「いい。これだけあれば足りるだろ」と銀貨と金貨をいくらか手渡す。彼女が俺を見つめて瞬きする。どうしてこの人はこんなことをするのだろうと、そういう顔を。
「あの、こんなには。困ります」
「困らないだろ。余った分は好きに使えばいい」
「いえ、でも」
 困惑した彼女に息を吐いて少し考え、「なら時間を」と呟く自分の声を聞いた。「え?」と首を傾げる彼女に「お前の時間を少しくれ」と言う。
 花売りである彼女は困惑した顔で同業者がいないかと辺りを見回し、裏路地にすぐ面したここには他に誰もいないと気付いて諦めたような息を吐いた。
 あの頃の彼女と今の彼女が重なる。似ている。瞳の色も髪の具合いも声も全部。こんなにも。
「あの、どこまで?」
「お前の時間を買った。どこでもいいだろ」
「そうですけど」
「敬語はよせ。いらない」
「…あのね、私あなたの名前も知らないのよ。ねぇ」
「サソリ」
「サソリ?」
「…ああ。サソリだ」
 何をされるかと不安なのだろうか。時間を買うという言い方に引っかかりを憶えてるのかもしれない。彼女が不安がるのならと俺は立ち止まって振り返った。そう表通りから遠くはない路地裏。彼女がそこに立っている。今は困惑した顔でこっちを見て。
「サソリ…やっぱり知らないわ。私はあなたを知らないのに、あなたは私を知ってるのね」
 そうこぼす彼女に俺は小さく笑った。
 吸血鬼なんてものが存在する今の世の中なのに、転生を信じないっていうのは、それもそれで馬鹿げているということか。
 二つの選択肢がある。このまま彼女を連れ去ってしまうか。食してしまうか。また同じような甘い匂いを嗅ぎつけた今俺の血が騒いでいる。あの味をもう一度と騒いでいる。
 もう一つは。あの喪失感。後悔かもしれないと感じたほどの彼女のいない世界での息をすることの重さ。世界の全てが悪意を持ってはっきりと俺の上を流れていく、そんな時間。それをなくすには彼女が必要だ。生きたままの彼女が。
 二つの選択肢がある。一つは吸血鬼なら当然の行い。そしてもう一つは。

「?」
「花売りをして生計を立てないとならないくらいなら、俺と一緒に来い。悪いようにはしない」
 だから手を差し出す。彼女はさっきよりもっと困惑した顔でこっちを見ていた。
 真っ直ぐな瞳はあの頃のまま、ただ貴族という籠から飛び立ち今そこにいる彼女は自由だ。あの頃あったものを失って今彼女はそこにいる。あの頃にはなかったものを持ってそこに、俺の目の前に。
「俺にはお前が必要だ」
「……あの、こんなこと言うのもなんだけど。私、告白は初めてなのよ」
 視線を伏せて小さくそう言う彼女に「そうか」と返す。「あなたとは今日が初対面なのよ」と言われ「そうだな」と返す。「あのね、だから、考えさせて」と言われてそう言うだろうと思っていたから「ああ」と返した。こつと一歩踏み出して手を伸ばす。獲物を捕らえようとするんではなく人間が人間にそうするように彼女を抱き締めた。あたたかい体温が分かった。もう聞けないはずの声が聞けたことやもう見られないはずの姿を再びこの目にできたこと、色んなことが胸のうちでぐるぐると渦巻いていた。

 吸血鬼であることを捨てれば。俺は人と同じように歳を取り、人と同じように生活に溶け込み、そうしていずれ死ぬだろう。
 死とは遠い存在だった。再生し滅びを知らない身体に肉体的な死を与えるにはそれなりの苦痛がいる。瞬間的な苦痛かそれともじりじりと灼けるような日を過ごすのか、最後が訪れるにはいずれにしても己との戦いだ。吸血鬼という本能との戦い。
 そして俺はそうしてでも彼女と生きたいと思っている。願っている。
 俺のあれは。やはり後悔だったのだ。

「明日もまた行く」
「…なら、同じ場所で、待ってるわ。私。考えてみるわ。あなたのこと」
「ああ」
 彼女の前髪をかき上げて口付けた。噛み付いて血を吸うんではなく人間が人間にそうするようにキスをした。彼女が顔を赤くして「あの、あのね、じゃあ私行くからね」と言って俺の腕から逃げるように抜け出した。それを止めはしなかった。
 そこにいる。生きている。そう分かっただけで俺の心は満たされていた。彼女をこの手にかけたときに胸を埋めたあの感情はやはり後悔だったのだ。なら俺がこれからすべきことはもう決まっている。たとえ己を本能が蝕もうとも、俺はそれに抗ってみせる。どれだけ喉が渇こうとも二度と人の血は口にすまい。
 俺は吸血鬼としての俺を殺し、人間としての俺を作る。
「あのね、」
 表通りに出てこっちを振り返った彼女。光の射す中にいる彼女と闇の中に立つ俺。ふさわしい立ち位置と立場。
 彼女の手には赤い花で埋まった籠があるまま。買ったあの花はそのまま彼女に贈った。俺の部屋にあってももったいないだけだ。彼女の手にあってこそあの花も望ましいだろう。
「私、サソリを知らないんだけど。これから知っていくっていうことでもいいの?」
「…ああ」
「そう。じゃあね、私明日もここにいるから。会いに来てね」
「必ず行く」
「約束よ」
 彼女が笑った。笑って光の向こうに走り去っていった。俺はそれを見送った。
 心は満たされていた。本能は疼いていた。あの甘い血の味と喉の渇きを潤す感覚が甦っていた。けれど彼女をこの手にかけた喪失感とこの百年が俺の心に食い込んでいた。どちらかを選ばねばならない。吸血鬼として彼女を再びこの手にかけるのか、それとも人間として。彼女と生きるのか。
 再び彼女の存在を感じた瞬間から答えは決まっていた。
 だからじゃりと表通りに背中を向けて裏路地を歩く。
 ただ渡り歩くだけでよかった世界が、今目の前にこれから生きるべき世界として横たわっている。茫漠とした時間の中を気の向くまま漂うだけでよかった吸血鬼という存在。歴史の闇に埋もれ確実に息づく獣。獣の自分。俺はそれを抑え込む。そうして獣ではなく人になる。
(彼女をもう一度失うことに比べたら。死ぬまでの空腹がなんだ)
 がちゃんとアパートの扉を開けて部屋に戻る。ばたんとドアを閉めてテーブルに放ったままのパンを見た。手を伸ばして一口食べるのが精一杯だったそれにがぶと噛み付く。今度は水がなくても飲み込めた。ぱさついた味とかさついた味。喉を潤すのは血ではなくただの水。
 仕事ってものを考えないとならないなと思いベッドに放ったままの新聞を手に取った。変死体の記事を飛ばし求人や広告の欄に視線を向けて斜め読みする。
 あれから百年何となく生きてきて、こんなにも明日や世界や社会を意識したことはない。我ながらそれが馬鹿だと思った。
 明日また彼女に会える。それを思えばぱさついた味のパンをかじり続けることは、そんなに困難ではなかった。

わかった
(これが、愛か)