自分なりに一生懸命スケッチブックに向かって絵を描いてみた。一時間、いや、二時間。もっとかもしれない。ノートと筆箱、お弁当、水筒、その他おつまみやお菓子を詰め込んだリュックサックで山に登って、誰もいない開けた場所で、風の音、木の揺れる音、葉っぱがこすれ合う音なんかを聞きながら黙々と鉛筆を動かしてスケッチブックに眼下の風景を描いていた。
 その日はとても晴れていて、いい天気だった。小春日和だ。風が吹いても心地いいと思う温度。ちょっと紙が揺れるのはいただけないけど、それさえ感受してしまう。ああ春だなぁと。
 描きかけのスケッチブックを脇に置いてお弁当を食べて、水筒のお茶を飲んで。思い切って山に登って絵を描くという行動に出てみたけど、結果的にとてもリラックスできる時間になった。正解だったなぁと自分の選択を褒めつつ描きかけの絵に視線を落とす。…うん、なんていうか、下手くそなんだ。絵は苦手なんだ。でも一生懸命描いたんだから納得できる形になるまで諦めたくない。
 ピピピと鳥のさえずりがして視線を上げる。ベンチの後ろにある大きな木の枝に鳥が止まっていた。二羽だ。片方が一生懸命アピールしている。そうか、春か。鳥も春なんだな。
(…そういう意味の春は、全然こないなぁ。私)
 ちょっと溜息を吐いて、ぼんやり鳥を見上げていた。頑張れ鳥。種類も何も分からないけど応援するよ。
 他に誰もいない場所で夕方まで居座ってやろうと決めてスケッチブックを手に取ったとき、じゃり、と音がした。靴音だ。それまで風か木々か鳥の声しか聞いていなかった耳が反応する。まさかこんな僻地に人が来るなんてと思わず振り返った先にいたのは、靴音から想像したとおり、人だった。しかもイケメンだ。でもしっかり山登り用の格好をしてるってことは気紛れで立ち寄ったとかではなくて、しっかり登ろうと思って登ったんだろう。山登り、趣味なのかな。
 じっと見ていたら「先客か」とぼやく声が聞こえてはっと我に返る。私ベンチ占領してる。
 慌てて荷物を片付けて「あ、すいませんどうぞ」と半分場所を譲ると、その人は表情なしにこっちに来てベンチにどさとリュックを置いた。無表情に肩を回して街並みを見下ろす横顔が端整で、思わず見惚れてしまう。
 かっこいいな。世の中こんなかっこいい人もいるんだな。そんなことを思いつつ、あまり見つめていてもいけないと思っていそいそ自分のスケッチブックを開く。鉛筆を手に取る。先が丸くなりすぎていたので鉛筆削りで少し削った。尖りすぎてても描きにくいけど、丸すぎるのも描きにくいのだ。
 さてやるか、と視線を街並みに向けたとき、「…下手くそだな」ぼそりとそんな声が聞こえてぱちと瞬く。隣を見上げれば立ったままのその人が私のスケッチブックを見ているではないか。慌ててばんと閉じて「へ、下手ですどうせ下手です、すいませんね」と言い返すとその人は口元だけで笑った。
 初対面相手に下手くそだなとかすごく失礼じゃないかと思ったのに、恥ずかしいのと怒りたいのでいっぱいだった気持ちが、その笑った顔を見たらどこかに消えてしまった。
 なんだ。やっぱりかっこいいって、いいよね。
「おお…すごい。すごいねサソリくん、上手。みんな上手」
「別に」
 私の絵を下手くそだと断言したその人は名前を赤砂サソリと言って、絵を趣味にしている人だった。彼が取り出したスケッチブックを見せてもらったところ、風景画がほとんどで、でもどれも上手だった。感動してスケッチブックをめくる私に彼は呆れたような顔をしていたけど、本当に、私は感動していた。
 アニメとか漫画とかで絵には見慣れてるけど、やっぱり違う。上手く言えないけど息吹を感じる。ただ一枚の紙に描かれた世界に命を感じる。
 ちらりと自分のスケッチブックに目を落とす。…比べ物にならない。悪い意味で。
 はぁと息を吐いて「ありがとう」と言ってスケッチブックを返した。彼がぱらぱらスケッチブックをめくって新しい白いページを開く。どうやらこれから私が描いてたのと同じ景色を描いてくれるようだ。ちょっとわくわくしながら鉛筆を取った彼を見ていたら、ちらりとこっちに視線を寄越した彼が「お前は描かないのか」と言うからうっと言葉に詰まる。
 だって、こんなに上手な人の横で、下手くそな私が描くって。それって拷問か何かですか。
 しどろもどろ「だって、私、下手くそだし」と返して、自分が描いた絵を見つめた。本当、彼の描いた絵に比べたら私の絵はなんて。
「…時間かけて描いたんだろう。それ」
「うん」
「なら描けよ。途中で放棄したら浮かばれないだろ、その絵が。そいつを仕上げられるのはお前だけだ」
「…うん」
 スケッチブックを両手で掲げて空にかざす。下手くそだ。やっぱりどう見ても下手くそだ。一生懸命描いたけど、下手なものは下手だな。
 でも彼の言うとおり、この絵の続きを描けるのは、私だけだ。そう思うと鉛筆を取ることができた。
 ちらりと隣を見る。彼はもうスケッチブックに鉛筆を走らせていた。無表情ながらも端整な横顔は、やっぱりかっこいいものだ。私なんかが隣にいていいものだろうか。でもこのベンチ以外座る場所がないし、だから、うん。しょうがないよね。いいよね、このままでも。
 十分。三十分。一時間。スケッチブックに向かい続け、鉛筆で描き続けた絵は、そのくらいたった頃ようやく完成が見えてきた。
 自分なりに満足してスケッチブックを置いて、そろりと隣を窺ってみる。彼は無表情にスケッチブックに視線を落としたままだった。ときどきじっと風景を見てはまたスケッチブックに戻り、たまに空を見て、それからまた視線が落ちる。繰り返し。私もこんな感じだったろうか。一人で描いてるときはただ夢中だったけど、人がいると意識することも違うもんだな。
「…何だよ」
「え、」
 その声にはっとして、かなり見つめていたらしいと自覚。は、恥ずかしい。誤魔化すために脇のリュックサックからお菓子を取り出して「あの、えっと、食べる? 休憩」どうにか笑ってそう言ったら彼は「甘いものは好きじゃない」とすっぱり一言。クッキーの袋を慌ててしまって「えっとじゃあ」ごそごそ中をあさってお酒のおつまみであるジャーキーを取り出して「これは?」と訊くと彼が顔を顰めた。「何で酒のつまみなんか持ってんだ」「だっておいしいもん。私これ好きだし。噛んでるとおいしいよ」「ふーん」「食べる?」ふうと吐息した彼が鉛筆を動かす手を止めた。それを食べるの意だと取ってびりと封を破る。大きめのを差し出すと、細くて長い指がジャーキーをつまんだ。
 ジャーキーを噛んだ彼がスケッチブックを閉じた。どうやら休憩してくれるようだ。
 …さて、困った。
(え、あれ。よく考えなくても、これってかなり緊張する状況…)
 もぐもぐジャーキーを噛みつつ、二人しかいない今の状況というのに今更に緊張してきた。馬鹿だな私。
 会話がないせいで余計に緊張してくる。
 彼はあまり喋らないようだというのは分かったけど、それにしたって。間が。何か話題はないだろうかと思ったけど特に見つからない。ど、どうしよう。
 もう一つジャーキーを口に入れたとき、ピチチ、と鳥の声がした。顔を上げると頭上の枝に鳥が止まっている。さっきとは違う鳥だ。一羽だ。女の子か男の子か分からないけど、君にはまだ春は来ていないらしい。そうか、そうだよね。みんながみんな春が来るわけじゃないよね。だよね。
 もぐもぐジャーキーを噛みつつ横から伸びた手にびくっとした。膝の上の袋からジャーキーを一本取り出した手と「濃いな。ワインが欲しくなる」とぼやいた声に一つ瞬いてから笑う。そこでビールと言わないのがまたかっこいい気がしたのだ。
「あとね、貝ひもとカロリーメイトがあるよ」
「何でそんな持ってきてんだよ」
「いや、あって損はないかと思って」
 またジャーキーを一つつまむ。お手拭でしっかり手を拭いてから「ねぇ、見せてよ」とスケッチブックを指せば「じゃあ交換な」とあっさり言われてうっと口ごもる。また下手くそだと言われなければいけないかと思うと。でも彼がどんな絵を描いたのか、同じ景色を描いてる私としては気になる。でも下手くそ…いやでも。
 結局彼の絵を見たいと思う気持ちが勝った。すごすご自分のスケッチブックを差し出して彼のものと交換する。
 風景画が続く一番最後のページに辿り着けば、彼がさっきまで鉛筆を走らせていた景色がある。
(どうしてこんなに違うんだろう…)
 顔を上げて景色を見つめてみる。同じ場所から同じ風景を眺めて同じように鉛筆を取って同じように描いたのに、描かれるものは、どうしてこんなに違うんだろうか。私は下手くそで彼はとても上手。拙い絵ときれいな絵。二つ並べて、違いがはっきりしすぎて、少し辛い。だから彼に言われる前に自分で言っておく。「下手くそでしょう」と。彼は少し笑った。「ああ、下手だな」と。それが心に刺さる。もうちょっと遠慮してよ、サソリくん。
「ただの模写より、俺は好きだけどな」
「え?」
「拙くても。下手くそだろうと。こういう心のこもった絵の方が、俺はいい」
 彼の細い指が私のスケッチブックを撫でる。ぺらりとページがめくられて、それまで描いたものを彼が一つ一つ見ていく。いつかに描いたきれいだと思った花、庭で大きく伸びて寝ていた猫、川原の景色。狭い小道の魅力を自分なりに描いてみた路地裏、かっこいいなと思った車のスケッチ、かわいいなと思った家のスケッチ。最後にまた描きかけの絵に戻った指が一つ表面を撫でる。やわらかく、鉛筆が掠れない程度に。
 ああ、この人は。すごく絵が好きで、趣味っていうよりもう生きがいなんだろうなと思った。
 そんな彼のスケッチブックを開いて、一番最後のページまで最初から順番にめくっていく。
 どこかの森の景色、小鳥、赤とんぼ、瓦屋根の町の景色、空、海、草原の広がる景色。走ってる犬。丸くなってる猫。そして今描いている、ここから見える景色。
「…サソリくん、風景画しか描かないの?」
「筆が動かない。だから描かない」
「そ、っか。人って描くの難しいよね」
「ああ」
 私のスケッチブックを閉じた彼がふと思いついたように「練習するか?」と言うから首を捻った。「何を?」「人を描くのを」「…え? 誰が?」「お前が」「は? え、いや、なんでそうなるの」話の展開についていけずにあわあわする私に彼が口元で笑う。「俺も付き合ってやるよ。お前なら描いてもいい」とか言うからさらに混乱する。それってどういう。どういう。
「まぁ、とりあえずこれの完成からだろ」
 差し出されたスケッチブック。おずおず受け取って彼のものを返して、ページをめくって描きかけの絵を開く。鉛筆を手に取る。足を組み直した彼もそうした。
 これを描き終わったら、この特別な時間は終わって、もう彼と交わることなんてないんだろうと考えてたのに。それが少しさみしくて、でもしょうがないか、ここで偶然出会っただけなんだからと諦めてたのに。
 なんだか胸が苦しい。
 それさえも、今はこの絵に注ぎ込もう。納得するものが描けるようにしよう。それを彼に見てもらって、また下手だとか言われて心にぐっさり言葉が刺さって、でもきっと付け足してくれる。ただの模写よりはこういう下手くそな絵の方が好きだって、さっきみたいに言ってくれる。少しだけ笑って細い指でスケッチブックを撫でてくれる。そう思う。 

いとしさはその指先に