「サソリさん」 「あ? 何だ」 振り返るとあいつがいた。いつものあどけない笑顔を浮かべてにこにこしていた。 俺はあの笑顔が苦手だ。どうにも罵声を浴びせる気が萎えるし、少しのことで傷ついたような顔をして目を伏せるし、笑顔を保たせるのがめんどくさいったらないからだ。扱いにくいったらない。そんなこと露ほど知らないんだろうにこにこした笑顔で「目を閉じてくださいませんか」と言うから俺は眉根を寄せた。特にすることがなくて本を読んでいたのは確かだが、だからといってあいつの言うことに付き合う義理もない。 「何でだ」 「ちょっとだけですよ」 こっちに寄ってきたが俺の手からひょいと本を取り上げた。舌打ちしそうになるのを堪える。何度も読んだ本だから別に惜しいわけじゃない。ただ、彼女に翻弄される自分というのが嫌なだけ。 だから本の方に指先からチャクラ糸を飛ばして操り、ばさりと彼の手から本を取り上げた。「あっ」と声を上げるに息を吐く。俺のだっていうのに、何取られたみたいな顔してるんだか。 それで諦めて出て行くかと思ったら、は居座るかのようにそばに座り込んだ。一分、二分、三分と経過しても動く気配を見せない。仕方ないから俺から折れた。 「…何だって?」 溜息とともに言葉を吐き出すと、彼女がぱっと顔を上げた。「目を閉じてください」と言われて瞼を下ろす。見慣れた暗闇。眠ることを忘れた身体には唯一の暗闇。現実と意識を遮断する暗闇。 「サソリさん、何か見えますか?」 「…目ぇ閉じてるんだぞ。何も見えねぇよ」 「そうじゃなくて、ええと、見えるというか…浮かぶ? というか」 浮かぶ? 眉を顰めて自らの暗闇を見つめる。別に何も見えない。ただ暗いだけだ。 息を吐き出す。別に何も見えやしない。大体何だ、いきなりやってきてこれは。相変わらず意味が分からない奴だ。 を思い浮かべる。きっと俺を二つの眼でじっと見つめているに違いない。それで何を期待してるのか知らないが、きらきら輝いた目で、俺を見ているに違いない。 「何か浮かびました?」 の声。瞼を押し上げる。想像通り、どこかきらきらした瞳を二つ並べてこっちを見ているがいる。 その瞳がとてもきれいだったから、俺は彼女を傀儡にしようかと考えたことがあった。その髪も艶やかで流れるようだったから気に入っていた。だけど傀儡にすれば目は腐る臓器だから取り除くしかなくなるし、髪は残しても支障はないが恐らく艶やかさは失われ、きっとぼさぼさになるだろう。いちいち手入れをしなくてはいけないかもしれない。そうまでしてその艶やかさを保つのかと思うと馬鹿らしくなる。 だから彼女を傀儡にしようかという考えは捨てた。生きてる間だけそのきれいな瞳と艶やかな髪が見られればそれでいいだろうと思うことにした。 「サソリさん、何か浮かびま」 「お前だよ」 催促する声に突き放すように言葉を放つ。「え?」と首を傾げる彼女。さらりと艶やかな髪が流れる。手を伸ばす。人形のこの身体では、彼女の髪の滑らかさは分からない。 あるいはその髪を切り離して保存でもしてしまえばいいのかもしれない。そうすればその髪は永遠を保つかもしれない。 ただし、見るだけ。触れることは叶わない。空気に触れさせてしまえば物は風化する。だから保存するならば、そのきれいな瞳を永遠にきれいなまま置いておこうと思うなら、眼球ごとくり抜いてしまわなければ。それで保存液に浸して永遠に、永遠に瓶詰め状態。 いやな想像をした。ばっさりと髪を切り取られ眼球をくり抜かれた彼女。今の今まで俺が考えていたことの結果。 思考を振り切る。指に絡まる艶やかな髪を解く。 「お前が浮かんだよ。それだけだ」 そう言うと、彼女がぱっと表情を明るくした。それからいつものあどけない、俺の苦手とする笑みを浮かべて髪を弄んでいる俺の手を取る。ぎくりと身体が固まった。自分の身体のメンテナンスは一番気を遣ってるはずなのに、なぜここで無意味に固まるのか。 「じゃあ良かった」 「あ? 何だよ良かったって」 「サソリさんは、全てを置いていってしまったわけではないんですね」 彼女の言葉の意味が分からなくて眉を顰める。そんな俺に構わず彼女が口元を緩めて笑う。 ああその笑い方も、俺は苦手だ。また身体のどこかが軋んだのを感じる。本当に、そんな顔を見ていると、俺は自分自身をよく忘れる。もう人間でないんだってことを忘れる。本当によく。 どうして彼女の笑顔を見ると、いつも何もかもがどうでもよくなるのか。怒ることもなじることも、けなすことも、見下すことも、己の生でさえ。 「目を閉じて、誰か思い浮かぶ人がいたのなら。思い浮かぶ何かがあったのなら。サソリさんはもう人間でなくても、ちゃんとここにいる」 彼女が目を瞑った。そして瞼を押し上げ、やっぱり俺の苦手なあのあどけない微笑みを浮かべて言うのだ。 「多くは、サソリさんにとってどうでもいいものばかりかもしれません。でも、私は、そんな世界で良かったと思います」 「…意味分かんねぇよ」 ぼやいて視線を逸らす。まだ手が握られたままだ。 感覚はない。温度も感じない。何も感じられない。だけど核が、心が熱い。脈動している。生身の俺の僅かな部分が。 えへへ、とが困ったように眉尻を下げて、「すみません変なこと言って。ちょっぴり不安になっただけです」その言葉に彼女に視線をやる。彼女は笑っていたけれど、そういえば俺は、彼女の笑う顔以外を見たことがあったろうか。 「多くが、サソリさんにとってどうでもいいもので。私も、そのうちの一つなのかもしれないですけど」 彼女が俺の手に視線を落とし、両手で包むように握り込んだ。感覚はない。温度も感じない。何も感じられない。だけどやっぱり俺の心は疼いている。人間としての俺が疼いている。 「私は、サソリさんに手を伸ばしていこうと思います。手を伸ばし返して、もらえなくても」 その声が微かに震えているのは分かっていた。舌打ちが漏れる。どこをどうすればそんな意味不明のことを言えるのかさっぱりだが、不安がっているのは、何かを怖がっていることだけは分かる。夢でも見たのか。俺はもう夢を見られないから悪夢も何も分からなくなってしまったけど、は何かいやな夢でも見たのだろうか。 息を吐き出し、耐えるように固く目を瞑り、瞼を押し上げる。ああ本当に仕方がない。だから、仕方ないから、得意でもない幻術を施した。彼女がはたと動きを止めて俺を見つめる。俺は吐息する。どうしようもないよなお前はと口元が緩む。 「…来いよ。」 腕を広げて名前を呼んでやると、彼女が困ったように笑い、それから一筋涙を流して飛び込んできた。開口一番「すみませんサソリさん」という謝罪の言葉。俺は嘆息して彼女の髪を撫でた。艶やかで滑らか、流れるようなその髪と、今はどこか潤んだきれいなその瞳。 いっそ彼女を傀儡にしてしまえば俺はこんなどうしようもない、どうにもならない思いを抱かずにいられるのに、どうしても俺は彼女を殺そうと思えない。殺そうと思うどこか、苦手だと思っているその笑顔を、望んでいるのだ。俺の生身の極僅かな、人間である部分が。 |