その人は貴族のオヒメサマというやつでした。
 貴族たるべく育てられた彼女は貴族たるべく貴族らしい生活を送っていました。
 お屋敷という籠の中で羽ばたけない一羽の小鳥。部屋の窓から臨める風景だけが彼女の知る世界の姿でした。

「退屈。私は今日も籠の中の鳥なのね」

 彼女の口癖はその言葉でした。
 もうじき彼女も婚礼を許される16の歳を迎えます。けれど彼女にとってそれは成人への一歩でもなければ決して喜ばしいものではありませんでした。なぜなら彼女は貴族の一人娘。大事な小鳥は羽ばたくことすら許されず永遠に籠の中で暮らすことになると決まっていたのです。
 彼女は近く、望まずに婚礼の儀を受ける。その未来は彼女の両親により定められていました。
 彼女に自由はありません。貴族の一人娘の取る道は決まっていました。彼女の意思は関係ありません。ただ貴族という立場を保つため、そして貫くために彼女の取るべき道は決まっていたのです。
 彼女の母親はそうして貴族の地位を保ちました。そしてまた彼女も同じ道を辿る、ただそれだけのこと。
 そんなある日でした。あまり嵐など訪れないその地に嵐が訪れました。雨と風と雷の音。彼女は嵐に怯えることなくいつもと違う風景を奏でる窓の外をじっと見つめていました。
 彼女の誕生日は明日。そして正式に婚礼の発表がなされるのも明日。
 彼女の胸には絶望がありました。

(誰も私の想いなど気にしないのだわ。知ってたけど)

 窓はがたがたと雨風により音を立てて揺れ、外ではカッと青白い雷。
 時刻はもう夜でした。けれど彼女は眠ることができませんでした。雨風や嵐の音がうるさいせいではありません。明日にはもう彼女は望まない場所へと赴かねばならないのです。
 彼女に自由という文字はあまりにも遠く、手の届かないものでした。
 いっそ窓から飛び降りてしまえば楽になるのかしら。そんなことを思いながらぼんやりと窓の外の嵐を見つめる彼女。その音に混じりひっそりとかちと部屋の鍵の外される音。彼女は気付きませんでした。青白い稲妻を見つめたままベッドの上でした。きいと扉が開いた頃に彼女はようやくそのことに気付きました。そうして振り返ればそこには。

「…来ると思ってたの。吸血鬼さん」

 彼女はあまり驚いた顔をせずただ微笑みを浮かべました。
 稲妻に照らされた部屋に黒い衣を羽織った赤毛の青年が一人佇んでいました。

「驚かないんだな」
「どうして? 悲鳴でも上げてほしかったの?」
「いや。都合が悪くなるから結構だ」
「そうでしょうね。知ってた」

 ぱたんと閉められた扉。かちと閉められた鍵の音。青年が黒い衣を放ればその下には給仕の制服。彼女は彼を知っていました。なぜなら彼は屋敷で働く者の一人だったからです。
 ただ彼の本当の姿を、彼女はまだ知りませんでした。けれど薄々気付いてはいました。ときどき彼が見せる飢えた獣の目を。

「いつからお屋敷に? 私があなたに気付いたのはついこの間よ。赤い瞳が印象的だったから」
「…いつになるかは忘れたな。美味そうな血の匂いにつられてきただけだ。思ったよりも入りづらい場所だから下働きなんてことまでして入り込んだんだがな。…我ながら馬鹿げてる」
「そうかしら。あなたが注いでくれるオレンジが一番おいしいと思ってたのに」
「だったら魔除けの十字架なんて掲げるな。おかげで能力が削られて人間並みにしか動けない」
「あれは母上達が勝手に。この土地に伝わる吸血鬼の話を聞いて呪い半分でやっていただけよ。でも」

 本当だったみたいね。そうこぼした彼女が薄く笑みを浮かべました。悲しんでいるようにも見えれば喜んでいるようにも見える、どちらにも取れる笑みでした。彼が言います。お前を貰うと。彼女はまた窓の外を見ました。カッと青白い稲妻が窓の外を走りました。
 こつと一歩踏み出される靴音。彼女は相変わらず窓の外を見たまま。

「ねぇ。吸血鬼ってどんなもの?」
「今目の前にしてるだろう」
「あなたは人間に見えるわ。物語にあるみたいに人ならざるものって感じはしないし。空でも飛べるの? 蝙蝠に変身したりとか?」
「…お前、恐怖はないのか」
「ねぇ。自由と恐怖って、どちらがこわいのかしらね」

 彼を目の前にしても彼女は相変わらず微笑んだままでした。給仕姿の彼がつまらなそうに彼女を見てその首に手をかけます。赤い瞳に獣の色が走ります。彼女は目を閉じました。それは望まない明日の訪れを眠らずに待つよりもずっと望ましい結末でした。

「最後に。あなたの名前くらい聞かせてちょうだい」
「…サソリ」
「サソリ。そう。知らなかった」
「俺はお前を知ってる。
「そうね。私が知らないだけで、他にも世界にはたくさん。色んなことが。色んなものが。あるものね」
「…怖いんだろう」
「どうかしら。よく分からないの。あなたには恐怖ってどんなものか分かる?」
「…ああ」
「そう。じゃあそれは、知らない方が、いいのかしら」
「ああ。知らないまま眠るといい。明日はもう来ない」
「…それは、いい話だわ」

 最後に彼女は微笑みました。生気の抜けていく顔に浮かんだ微笑みはきれいともかわいいとも言えないものでしたが、彼は彼女の首筋に小さな牙を埋めたままくたりと力を失った彼女を抱き止めました。
 彼女が来なければいいと願っていた明日は、もう二度と。
 籠の中で飛び立つことを知らずに堕ちていった一羽の小鳥。
 次の日、貴族の娘である彼女の部屋では変わり果てた彼女が発見され。そして同時に一人の給仕が姿を消しました。

おやすみなさいと
首を絞めた