「あ、ヒルコの整備ですか?」
 声が降ってきたので顔を上げると、あどけない顔でこっちを見下ろす瞳と目が合った。それまで事務的に動いていた手が止まり、一瞬だけ動きを見失い、けれど彼女の目から視線を逸らすと同時にさっきまでどこをいじっていたかを思い出す。
 ちょこんと俺の脇に座り込んだがじっと手元を見てくる。別に面白いもんは何もないっていうのに。
「…何か用か」
「いいえ。ヒルコを整備してるお姿が見えたので、声をかけてみただけです」
 かちゃん、がちゃ、かちゃ。機械的な音に彼女の声が混じる。いつも聞いている音が聞き慣れない音になる。
 厄介だ。彼女は俺にとってとても。戦闘能力も策略を企てる術も俺の方が勝っているのに、妙なところで彼女に負けている気持ちになる。むしろこんなことを考えている俺の方が妙なのかもしれない。
 彼女は膝の前で手を組んで、じっと俺の手元を見ている。
「別に面白くもないだろ。整備なんか見たって」
「いいえ。とても勉強になります」
 俺の言葉にはいかいいえでまず返す彼女が暁に入ったのはいつだったろう。あまり憶えがない。つまりあまり意識していなかったのだ。暁唯一の紅の一点とも言うべき彼女だったが、俺は他人に興味はなかった。傀儡にするなら別だが、特別秀でた能力のない彼女を傀儡にする気はさらさら起きなかった。
 興味はなかったろう。彼女がここに来て何年かが過ぎ、強張っていた顔が徐々に笑顔が多くなり、唯一の仕事とも言える料理を張り切るようになり、戦闘に関わらせることなくまるで本当にそう、何も知らない箱入りのままで、ここでこうして俺のもとにいる。
 がしゃ、と手が滑って部品が落ちた。がきょとんとしたあとに俺に視線を移す。俺はと言えば、狂った自分の手元が信じられなくて目を見開いていた。
「どうかしましたか?」
「……いや」
 かしゃ、と落とした部品を拾い上げる。何だろうこれは。今のは俺に隙があったから生まれた失敗なのだろうか。よりにもよって手を滑らせるとは。
 ちらりとに視線をやる。膝頭の上に顎を乗っけて俺の手元を見つめる彼女。飽いた様子もなく。
「…今度」
 自分の口からそんな言葉がこぼれた。彼女が俺に視線を移して「はい」と返事をする。にも関わらず俺は焦っていた。何だ今度って。今度って何が。一体何が今度なんだ俺。自分で言っておきながら頭の中が真っ白に近くなっている。
 彼女が小首を傾げた。さらりと肩から髪がこぼれ落ちる。
 頭の中をさらいにさらって今度木の葉に行って暗部数人を殺す仕事を思い出し、「木の葉で、良かったら。連れてく」と声を絞り出した。彼女がきょとんとしたあとにずいとこっちに顔を寄せて「ほんとですか!」と目をきらきらさせた。思わず身を引きながら手からがしゃとヒルコの部品が落ちる。嘘じゃありませんよねと言いたげなきらきらした瞳から顔を逸らしながら、
「仕事があるんだ。その間は俺は一緒にいられないが…お前は木の葉にいればいい。手は打つ」
「、ありがとうございます!」
 勢いよく頭を下げた彼女。俺は身を引くためについた手を彼女の髪にやった。感覚がないから分からない。だから自らの姿を人間のそれに変える。わざわざ幻術を使ってまで、自分の感覚を幻術に頼ってまでその滑るような肌触りを確かめたかった。顔を上げた彼女が不思議そうな顔をしている。
(女の髪っていうのはこんなにさらさらなのか)
 縁がなかったのと興味がなかったので、女の髪に触れたことはなかった。ヒルコは当然のように堅物だし、男の髪をわざわざ触る趣味もない。そうこうしているうちに俺は人間でなくなり、五感は削げ、機械的な身体になった。ああそうか、女の髪ってこうなのか。どうでもいいはずなのにそんなことを考えていると「サソリさま?」と声。意識の焦点を彼女に向ける。ぱちぱちと瞬きしてこっちを見ている彼女の姿。暁の黒い生地に赤い雲の外套の上からでも分かる華奢な体格線。
「なぁ」
「はい」
「お前、どうしてここにいる?」
 言葉の意味を図りかねているかのように彼女がむむと眉根を寄せ、「ええと、ここへはイタチさんとですね」と昔話を始めるので、俺は首を振った。彼女がぱちぱちと瞬きする。俺は息を吐き出した。どうってことない今の会話が胸に引っかかっている。
「違う。なぜ今この場所にいるのかと訊いてる」
「ああ」
 なんだ、と彼女が笑って、それから口元を緩めて言うことは。
「サソリさまを、お見かけしたからですよ」

 俺は人間を纏いながら、指に絡めた彼女の髪を、まだ、離せずにいる。

指先の温度に


酔 い し れ る