どうしたら
貴方のものになれますか

 よく変わっていると言われるけれど、私は自分がそう変わった者であると思ったことはなかった。確かに趣味は人の建造物を眺めることだし人の作ったもの全般に興味がいくのだけど、きれいだと感じるものはきれいだ。だから私は今日もそうやってきれいなものを見つめる日々を続ける。
 私は特別変わってなんていない。それを言うのなら、変化を続ける人の方がよっぽど変わっている。

(あの古城。なんてきれいなシルエットなんだろ…あれは何様式かしら。昔から変化してく文明ってものには不思議でしょうがないのだけど、お城はいいわ。変化を重ねつつも普遍的ね)
 遠くの山の丘に立つ古城。それを視界に収めながら多分私の口元は笑ってた。好きなものを見つけたら自然と笑みが浮かぶのが人ってものだろう。今の私は人だから多分口が笑ってる、うん笑ってる。だってあのお城あんなにきれい。いいなぁお持ち帰りしたい。
「…いつまでそうしてるつもりだ」
 棘のついた声が背中に飛んできて、ぼけっとしていたところから振り返った。お城の尖塔の数を数えたり窓枠の向こうの景色を見つめたりしていたから一瞬だけ視界の焦点がぼやけ、それからピントが合う。片目を眼帯で隠してる男の子を視界に収め、古城のことで頭がいっぱいになってたところがさらさらと整理されて。だから私はにっこり笑う。「坊ちゃん」と。そうするとすぐにまた棘のある声で「坊ちゃんと呼ぶな」と言われて肩を竦めた。ひどい、セバスチャンはそう呼んでるのに。
 ずっと同じ姿勢を続けてたからだろう、かちこちになってる身体でぐっと伸びをして「ではご主人様、いかがなされましたか」と首を傾ける。苛々した感じで腕を組んで指をとんとん鳴らせてるうちのご主人様は「今日は使いでセバスチャンがいないと言ったはずだ。時計を見ろ時計を」「…あら」言われて懐中時計を取り出して気付いた。もう三時。
 すっくと立ち上がって「申し訳ありませんご主人様、すぐに準備いたします」「…あと三十分が僕の我慢の限界だ。それまでに用意しろ」「イエス。ご主人様」ぺこりと頭を上げる。つかつか靴音を立ててお屋敷に戻っていくその背をちらりと視界に入れた。ああもう三時とは、古城を見つめてただけなのに時間がたつのはなんて早いのか。
(すっかり忘れてた、失念だわ。今日はセバスチャンの代わりをしないといけないっていうのに)
 留守番を頼みますよ。彼にそう言われたことを思い出して一人嬉しくなってうふふと笑う。それからはっとしていけないいけないと厨房に向かう。油断するとすぐこれだ。
 ぱぱっと手早く準備と調理を。でもそれは彼が用意するものと同じように一流のものを。決して彼の美学を傷つけるようなことはしてはいけない。それが、彼の僕たる私の使命。
「大変お待たせいたしましたご主人様。本日のアフタヌーンティになります」
「ん」
 びしと手を差し出されて、それはつまりこの手に紅茶のカップをよこせという意味かと理解してポットから紅茶をそそいで小さなその手にカップを手渡した。
 おやつの方であるスイーツはきちんと一から全部手作りの私の自信作。シンプルだけどそれ故に奥が深いチョコレートケーキ。もちろんチョコはファントムハイヴ社のものを使用。わくわくしながら三角ケーキの先っぽをぱくと一口食べたご主人様の言葉を待つ。
 でも二口め三口めとぱくぱくケーキを食べて、ずずと紅茶をすすっての言葉なしの無表情のご主人様にうずうずしてずいと顔を寄せて「いかがですか、おいしくないですか」と訊く。気付いたようにこっちを見た瞳が「ああ。悪くない」と言うからやったと頭の中でガッツポーズ。おいしいと言ってもらえた方が嬉しいけれど悪くないってことはつまりまぁまぁってことだ。それなりにできたのなら短時間で頑張ったかいもあるというもの。
 かたんとソーサーにカップを置いたご主人様が「ところで」と言葉を口にした。だから私は一つ瞬いて「はい」と返事をする。ここで言葉をかけられるのは意外。
「さっきは熱心に何を見てた。僕から見たらお前はただ山を眺めてただけに見えたんだが」
「ああ。人の目では見えないでしょうが、あの山の丘に古城が建っていましてね。それを観察してました」
「古城?」
「はい」
 美しい装飾の施された正面玄関に両開きの扉、両サイドに広がる一定間隔の窓。視線を上げれば尖塔が突き立つ屋根。煉瓦の色合いがそれはもう鮮やかで、どちらかといえば落ち着いた色をしてるこのお屋敷よりも艶やかに見えて見えて。
 思い出したらまた口元が緩んでいた。はっとしていつもの顔を作る。そんな私をじっと片方の目で見つめていたご主人様がふうと息を吐いて「なんだ、古城か。そういえばお前はそういったものに興味があるんだったな」「はい」「…同じ悪魔でもあいつとは大違いだ」ぼそっと呟かれた最後の言葉に私は少し笑う。
 そうだろうか。本質的に私達はそうは変わらない。こだわりがある、それを譲らない。その一点においては何も。
 けれどご主人様にそう思われているのならそれで結構。だから私はいつもの顔で「イエスご主人様」と答える。
 正確にはご主人様のご主人様。ご主人様の契約者がこの小さな子、シエル・ファントムハイヴ。ご主人様の主人とあらば、それは私の主人も同然。
「セバスチャンはディナーには戻られる予定ですが、本日のご希望はおありでしょうか? その旨お伝えしておきます」
「…特にない。うまいものならそれでいい」
「…それもつまらないですねぇ。何かないんですかご主人様」
 空になった紅茶のカップにおかわりをそそぐ。ケーキの二切れ目にフォークを入れたご主人様がかたんとカップを持ち上げて「別に…ああ、まずいものは食いたくないな」それで顔を顰めるからその点には同意。ここは一流のお屋敷で一流のことが通って当然なのだけど、まぁ例外的にそうでないこともあるわけで。ここにいる使用人というのはだいたいがそんな感じに頼りない。彼らの手によればいいものも悪いものとなりおいしいものもまずいものになる。その点は心得ている。そもそも彼らは使用人ではあるけれど、そちらの使用人ではない。
 このお屋敷は彼、セバスチャンの管理のもとで回っている。最近は私がそれについている。仕事の半分ほどを任されるようになって私は嬉しい。けれどそんな私に目の前のご主人様は言う。雑事を言いつけられるのがそんなに嬉しいものなのかと。
 答えはイエス。
 主人からの言いつけならなんなりと。敬愛し服従する主人からの言いつけとあらばなんなりと。人殺しであれ食器磨きであれ料理であれ洗濯であれなんなりと。それが私。ここにいる私という存在のすること。
 にっこり笑って「手が増えて嬉しくはないですか? ご主人様」と言う。私は彼よりは能力に劣るけれどここにいる使用人や他の人間よりははるかに何でもできる。実質このファントムハイブという家がしていることは猫の手でも借りたいくらいに忙しい。その忙しさが私達を退屈させないのだけど、ちょっと違う意味の時間のないときもある。そんなとき私達のような者が二人もいればたいていのことはこなせる。
 私から視線を外したご主人様がはあぁと盛大に溜息を吐いた。かしゃんといささか乱暴に紅茶のカップをソーサーに置いて「手なら足りている。だが足りないものもある」「?」その言葉に首を傾けて続きを待つ。目を閉じてぎしと椅子の背もたれに背中を預けた小さなご主人様。ぱちと開いて覗いたきれいな瞳。映っている私は、まぁ分類するなら美人になるのかな?

「お前、だったな」
「はい」
「なぜ最初の頃のように僕に接しない」
「最初の頃…と言いますと、私がここにきてまだ間もない頃ということでしょうか?」
「そうだ」
「あの頃はとんだご無礼を。主と見定めていなかった私の勝手でございました」
「どうして僕がお前の主になる。お前とは契約も何も交わしてはいない」
「はい。ですが私はセバスチャンの僕。僕は主に仕えるものです。そしてその主に主がいるというのならその方にもお仕えすべきかと」

 でもやっぱりこういうのは疲れるなぁと相好を崩して「ああ、でも私は嫌いなことまでしていませんから。あくまでできることをしていますし、彼の美学を汚すような真似は一切しません。ですからご主人様の妨げになる行為はいたしません」と言えば、肝心のご主人様はどこか納得していない様子。
 もう食べないという意思表示だろう手のつけられない食べかけのケーキが載ったお皿と冷めた紅茶のカップを片付け、そろそろこれをきれいにして夕食について考えなくてはと思っていた頃に背中に声がかかった。「待て」と。だからカートを押す手を止めて振り返る。ご主人様はなんだか苦い顔をしている。
「どうなされました?」
「…僕はあいつが好きじゃない。それはお前も知ってるだろう」
「はい」
「だから、あいつと同じような顔を作って同じような言葉を喋るのはやめろ。あいつだけで十分だ」
「……では、私はどうしたら?」
「最初の頃の方でいい。あの方がお前らしい。自然だ」
 広い机の脇に積まれている書類に手を伸ばして羽ペンを手にしたご主人様。「それだけだ。もういい下がれ」と言うから、私は緩んだ口元を意識して自分に笑った。
 人の建造物に興味はあっても人自体に興味なんてなかったのだけど。
「じゃあ最初の方に戻そうシエル」
 だから私はにっこり笑ってシエルが残したケーキをひょいと持ち上げて一口でばくと食べた。我ながら上出来と思いつつ「何かあったら呼び鈴ねー」と部屋の扉を開ける。カートを先に廊下に出して部屋を出る寸前、扉を閉じる寸前。書類に目を落としていたシエルが少しほっとしたような顔をしたのを見た、ような気がした。
「そうですか。貴女なりに頑張ったようですね」
「そうよ、頑張ったわ。シエルがそれがいいって言うんならそうするし、それでもあなたの美学には傷一つつくことのないようにやってみせるわ。ねぇセバスチャン」
 夜、シエルの就寝を見届け半分ずつで屋敷内の施錠等を見届けて、最後に明日の朝ご飯の仕込みをしに厨房に。ろうそくの頼りない灯りしかない場所でも私達は問題なく手を止めずに明日の朝の準備をすませた。二人いれば時間は逆に余るくらいだ。
 私はシエルのお使いから帰ってきた彼に話をした。今日のこと。主にあなたがいなかった時間のこと。私が見てたもの話したこと感じたこと全般。彼はいつもの柔和で悪魔的な笑みでそれを聞いてくれた。
「ねぇセバスチャン、私役に立ってるかしら?」
「ええ、とても。馴染むのにもっと時間がかかるかと思いましたが、貴女はなかなか適応力があるようです。この分ならもう一ヵ月後には私と同じことができるようになるでしょう」
「そ、そうかな。えへ」
 彼に褒められることはとても名誉で嬉しいことだ。だから私は嬉しくなってほんとに顔が熱くなるのを感じて照れ笑いをする。
 嬉しい嬉しい嬉しい。古城を見つめて観察してるときの至福は余韻に浸るようにじっくりと、お風呂に浸かるようにゆったりとだけれど、この幸福は違う。おいしい魂を食べたときの満足感でもない。でもとても幸福だ。そう思う。だから彼に褒められることならどんなことでもしてみせよう。それが人殺しであれ食器磨きであれ料理であれ洗濯であれ何でもしよう。それが私だ。彼の僕たる私の姿だ。
 たとえば私が彼にとって替えの利く捨て駒であっても。柔和で悪魔的な笑みを浮かべる彼のその表情の下がどんなものであっても、私は彼のために生きるだろう。それが私だからだ。
「では明日は街へお使いに行ってもらいましょうかね。寄り道せずに必要なことだけこなして帰ってくること、いいですね」
「分かったわ」
 街へ行くと魅力的なものにそそられて私はふらふらしがちだ。だからこれはちょっとした意地悪。
 だけど彼に手渡されたメモ用紙とそこにびっしりの案件を見ても私は彼ににっこりと笑いかける。

 あなたのためなら、なんなりと。