あるところにかわいい白いウサギさんがいました。
 ウサギさんは一人の女の子を一途に想うとてもいい子です。
 そして私は、そんなウサギさんを一途に想う女の子です。
「シロちゃん、お茶の用意をしたんだけど、今日は」
「昨日も言っただろう。僕はいらない」
「…そっか」
 今日もウサギさんは少し機嫌が悪いよう。せっかく用意した紅茶にもお菓子にも手をつけてくれない。
 でも私は知ってる。いらないと言ってそっぽを向いてしまう彼が、それでもそこにいてくれるという事実を。
 私が一人でお茶をしている間、時間が合えばウサギさんはそこにいてくれる。本当なら一緒に紅茶を飲んでお菓子を食べてくれたらこんなに嬉しいことはないのだけど、それは贅沢なのだろうと思って、私は一人でお茶をする。
 黒いウサギさんと一緒にお茶をするときは、とても賑やかで会話が絶えなくて、用意していた紅茶やお菓子が空っぽになってしまうまでお話しするけれど。白いウサギさんはそういうのはあまり好きじゃないみたいだから、私はやっぱり一人でお茶をする。
 でもそれでいいのです。だって彼はそこにいる。それだけで私は。
「シロちゃん」
「…その呼び方やめろって言ったろ」
「だって、白ウサギ、なんて呼びたくないよ。シロちゃんの方がかわいいし似合ってる」
「…はぁ」
 テーブルに頬杖をついて溜息まで吐いてみせるウサギさん。逆ににこにこしている私。
 じとっとした目でこっちを見たウサギさんが言う。「そんなに笑っててお前は疲れないのか」と。私はやっぱりにこにこしている。「シロちゃんと一緒だから笑顔になれるんだ」と。彼はそんな私に呆れた顔をしてがたんと席を立つ。まだ私のお茶は終わっていないけど、どうやら今日は用事があるようだ。「僕は少し出てくる。ここ片付けておけよ」「はーい」いってらっしゃい、とウサギさんに手を振る私。振り返ることのない背中にそれでも大きく腕を振り続けて、見えなくなるまで見送って、ぱたりと手を落とす。
 紅茶のカップを持つ自分の手を見つめる。
 ちゃんと手だ。腕がある。肩に繋がってる。からだもある。頭も。心も。
 それでもどこかが虚ろだと思うのは、私に名前がないからだろうか。
 ぼんやり視線を上げて食べかけのクッキーに手を伸ばした。ちゃんと指でつまめるクッキーは口に入れればさくさくとおいしい。ちゃんとクッキーだ。さくさくでおいしいクッキーだ。
(私の、名前は、何…?)
 ぼんやりした意識で目を閉じる。
 ウサギさんがいないと。私は虚ろで、何もなくなり、笑顔もなくなり、存在さえ危うくなる。
 ここは一つの物語の中で、一人の女の子を呼び戻すために紡がれ続ける終わらない物語の中で、私は多分、そこに呼ばれてきた住人の一人にすぎない。ウサギさんは説明さえしてくれないけど、多分そう。この世界のかたちを考えるならそれが妥当だ。
 私はウサギさんが捜し求める女の子ではない。
 ウサギさんは不機嫌そうな顔をしていることが常だけれど。その女の子の前では笑ったりするのかな。それは、きっと。素敵な笑顔なんだろうな。私には一生向けられることのない、笑顔。なんだろうな。
「おい」
「、」
 呼ばれてはっとする。気付けば私はテーブルに頬をつけて、気を失っていたらしい。そばには白いウサギさんがいた。怒ってるような顔をしてるのが見える。
 何か熱いと思って膝を見てみたら紅茶をこぼしていた。しかもカップを手から落として、床で割れてしまってるのが見える。彼が怒った顔をしてる理由は、これだ。慌てて立ち上がって「ごめんなさいシロちゃん、私、」「いい。僕がやるから先に着替えてこい」「…うん」はぁと息を吐いたシロちゃんが布巾を持ってきて、割れてしまったカップを片付け始める。怒ってる顔から呆れてる顔へ、そして今はいつものちょっと不機嫌そうな顔へ。着替えろと言われたのに私は動けずその場に立ち尽くしていた。紅茶を吸ったスカートはぺったりしていてちょっと気持ち悪い。
 床を拭いたウサギさんが顔を上げて赤い目で私を見る。「何してる」と。そう言われても、足が、動かないの。言うことを聞いてくれないの。
 まるでこのまま。全てが幻だったように消えてしまうんじゃないか。私の存在か、世界の存在か。どちらかが消えてしまうんじゃないかと私はこわくなる。
「あの、シロ、ちゃん」
「だからその呼び方やめろって、何度言ったら…」
「それはやだ。そうじゃなくてね、あの」
「…なんだよ」
「あの。私、」
 私の。名前は。何かな。黒いウサギさんには名前をあげたよね。でも私には、まだくれてないよね。名前さえあったら私、もっとちゃんとここに立っていられるのかも。
 そんなことを言いそうになった。でもやめた。ぐっと唇を引き結んで顔を上げて笑って「ううん。ごめんね、着替えてくるね」と残して全速力で自分の部屋に向かった。足は動いてくれた。広いお城の中を走って走って走って、最後には足がもつれてみっともなく転んだ。痛い。息が上がっている。苦しい。打った肩がずきずきする。
 痛い。
 感覚はあるのに。今走ってたからとても苦しいのに。今転んだからとても痛いのに。ちゃんと感じるのに、どこか、全てが曖昧だ。
 のろのろ立ち上がって自分の部屋のドアに手をかけた。扉の向こうにはいつものベッドとクローゼット、あとは窓。天井には灯り。ただそれだけの部屋でのろのろと着替えをすませる。汚してしまったスカートを持ってようやく部屋を出たときには、扉の向こうにウサギさんが仁王立ちしていた。びっくりする。今までこんなことはなかったのに。
「何もたもたしてる。…ってなんだその足。血が出てる」
「あ。さっき転んじゃって」
「はぁ? 転ぶって、普段の運動足りてないんじゃないの。ほらおいで」
 最後の言葉がとても優しく響いて聞こえた。そう思ったら、突然視界が滲み始めて、呆気なく崩壊した。ぽろぽろ涙をこぼす私に手を差し伸べていた彼がぎょっとした顔をする。「おい、何泣いて…そんな痛いのか、擦り傷だぞ。ほら泣くな。すぐ治る」「ご、ごめんなさ…」洗う予定のスカートでぐいぐい涙を拭かれて私は笑った。彼は呆れ半分以上、残りを心配に割いた顔で私を見ていたのだ。
 乱暴なようで優しくて、とても器用なのに違うところでは不器用で、そんなあなたが。私は。

「痛いの、シロちゃん。膝が痛い。肩も痛いの。すごく打ったの」
「あーはいはい。手当てしてやるからもう大丈夫になるよ」
「…うん」

 彼の手に連れられて、私は歩く。広いお城の長い廊下を、物語の世界の中を、ちぐはぐな現実の中を、それでも歩く。
 目の前にある背中の持ち主が笑える日まで。もしくは、私の寿命がきて消えてしまうような、そんな日まで。あるいは、彼がルールとした白ウサギを殺すためのゲームが、役目を終える日まで。彼が満足にいくまで。私はこの不確かな世界の不確かな現実を噛み締め、手にできるものが一つもないままでも、どうにかやっていくのだろう。
 それでいい。
 白いウサギさんには一途に想う女の子がいる。それでいい。私はそんな白いウサギさんを一途に想い続ける。それでいい。
 彼の願いを、想いを、その道すじを邪魔したくない。だから私はこれでいい。
 同じくらいの掌の大きさをした彼の手を握ると、ちらりとこっちを振り返った赤い瞳。笑いかけたら呆れた顔をされた。「さっきまで泣いてたくせに」と言われて私はまた笑う。
 ぷいと前を向いてしまった彼が、少しだけ握り返してくれるその掌の感覚が。温度が。白ウサギという彼の存在が、私の全てだった。