凍えるような寒さというのはきっとこういうことを言うに違いない。
 今にも雪が舞い出しそうなほどに空を覆った鉛色の雲。吐き出す息は白く濁り、空気は吸うことを躊躇うような冷たさを伴っている。おまけに今日は風がある。ったく、ふざけるなよと言いたくなるくらいに冬模様だ。
 容赦なく肌を吹きつける北風に自然と猫背気味になりながら歩き、マフラーに口元を埋めながら、ひらりと視界を舞った白いものに気付いて視線を上げた。
 気付けば雪が舞い出していた。どーりで寒いわけだ。
 もう今年も終わりの頃だ。行き過ぎるもの全てが早足に思えてくる。かくいう自分もこの寒さに身震いして足早になる一人なわけだが。
 早く店に行こう。中はあたたまっているはずだ。そう思い鉛色の重い空から視線を外した自分の口元、灰色のマフラーに埋めた唇は端が持ち上がっている。…らしくもない。これから行く場所に期待を抱いてるなんて。
 どうせまたいつも同じ、金の分だけ働いて、しまいだ。それ以外もそれ以上もそれ以下も、あるわけがない。
 そう、俺は期待なんかしない、と強い決意を持って顔を上げたとき、見たくもないものが目に入った。
 ……今日は運がない。この寒さといい。店に行く前からのこの仕打ちといい。
 右手側に木造の長屋が続く寒空の下、足早に歩みを進める人間天人が多い中、一人で立ち尽くした。何度も目撃した光景だ。知っている。それなのに、心ってヤツが見開いた視界に飛び込んだその景色に悲鳴を上げていた。胸が軋むほどに。
 確かに首に巻いたはずのマフラーがぱらりと図ったタイミングで外れ、土埃の地面へと軽い音を立てて落下する。
 目の前には見慣れた道がある。左手には川が走っていて、小洒落た赤い小さな橋が川に両断された土地を繋いでいた。
 小洒落た赤い橋。等間隔で提灯を灯して、橋を渡ってしか行けないひっそりと上品な屋敷へと手招くようにして灯りを落としている。その小洒落た赤い橋に赤い傘が一つ咲いている。その下には男と女が一人ずつ。
 お互いの身体が近い。距離的に接吻だ。間違いない。そう断言できる自分が悲しくて寂しい。
 カラ、と下駄の音が響き、赤い傘が赤い橋を渡って行き、女の姿が長屋の影へと消えた。
 食い入るように橋の中央に立つ男を見つめる。その表情をつぶさに観察する。俺に向けるものと何が違うか、何か違うのか、と縋るような思いで睨めつける。
 上品な着物を程よく着崩した相手は、感情の読めない顔で女を見送っていた。それも一分程度のことだ。ふあ、と欠伸をこぼすと気怠そうに首に手をやってごきっと鳴らし、そこで視線を巡らせて、ようやく俺の存在に気がつく。
「総悟」
 長い指がすっと俺の足元を指した。言われずとも理解していた。落ちていたマフラーをひったくるようにして取り上げ、適当に首にぐるぐる巻いて大股でざくざく土を蹴って歩き、が、その勢いも赤い橋を一歩踏んだ頃にはどこかへ行っていた。
 未だにこの橋を渡るときに自分の中で軽い葛藤がある。
 俺はなぜこんなところへ来てる。男娼が商売してる店に出入りしてる。それも気の迷いという言葉で片付けられる一度や二度じゃない。もう五度も出入りした。これで六度目。六回もこの橋を越えてあの店に出入りしている。一時の気の迷い、なんて言葉じゃあすまされない。
「総悟」
「…なんでィ」
「制服、着てくるなって言ったよ。目立ちすぎる」
 ふぁさ、と肩に軽い羽織りがかかった。橋に固定していた視線を上げると、この寒いのに裸足で下駄を履いている足元が見え、今日は明るい萌黄色の着物を着たが若干ダルそうな目でこっちを見ていた。上着の羽織りを俺に寄越したくせに寒さを感じさせる顔も見せない。感情を見せない。会ったときからそうだった。感情全てが商売用であるかのように、素のっていうのはずっとこんな顔をしている。
 あんたの口からなるべくたくさんの言葉が聞きたいからわざと制服で来てるんだよ。そんなふうに言ったらどんな顔をするのか、興味はあるが、何も反応がなかったときの方がよほど恐ろしく思え、そのことについては何も言わず口をつぐむ。
 がカラリと下駄を引きずりながら店に戻るために俺に背中を向けた。
 …無防備だ。斬りつけることも蹴り上げることも簡単な背中。その背中に、肩にかけられた羽織りをぐっと握っただけで、特に何もせずに提灯の灯る赤い橋を渡り終えた俺は、相当らしくないに違いない。
 無防備な背中を向けられたことにどこかホッとしてもいる。頬が緩んでいる。そんな自分が分からなくて唇を噛んだ。
 弱いところを見せられている。それを隙だらけとか油断大敵と笑う俺じゃなく、弱さを見せられて、警戒されていない、嫌われてはいないとか思ってホッとする自分が、分からない。
 目の前では店の引き戸が開けられ、暖かい空気が溢れ出し、「いらっしゃいませ」と頭を垂れたがいる。
 その顔がどんな表情をしているかなんて、確かめるまでもない。
 六度目の訪問ともなれば、その店のメニューやサービスその他も把握できてくる。

「うん?」
 指名で個室プランを選んだ俺には特に変わらない。新しい羽織りを着て俺のために日本茶を淹れている。「隣はどうにかなんねェのか」ぴっと横の壁を親指で指した俺に、は小さく笑っただけだ。ということは、どうにもならないということらしい。あんあん鳴きやがって、隣にいる奴の身にもなれって話だ。これだから雌ってのは。
 顔を顰めている俺に、湯のみを二つ持ったが「こちらにおいで」と鳴き声のうるさい部屋から一番離れた場所を目で示した。その方が得策だ、と俺も従って、二人用の小さなこたつに足を突っ込んで座る。は俺から見て左手側に座った。正面に座ることはしない。俺も、その方が気楽でいい。
 手渡された湯のみの茶をすすって一息吐く。
 凍えていた身体が息をし始めたようだ。茶も文句なくいいもので上品だ。淹れ方も心得ている。
 春夏秋冬黒い髪を結ってポニテにしているは、文句なくイケメンだ。湯のみ一つすする姿も様になるくらいには容姿が整っている。あまり喋らないというところもこの男の魅力の一つになっているらしく、この店では毎月指名度トップ3内に入る人気者だ。そんなだから、この男を指名しようと思うと、事前に予約するか、かなりの高額を払って他の客からぶんどって個室に押し込むか、どちらかしかない。ちなみに俺は後者である。
 給料注ぎ込むくらいの勢いの額を使ってるんだ。もっと何かしないと金がもったいないってもんだ。そう頭では分かっている。が。
(…サディスティック星の王子じゃなかったのか、俺は)
 自嘲気味に自分を笑って、湯のみを呷って茶を全部飲み干した。空になった湯のみを突き出して「おかわり」と言う俺に、どこか気怠そうに立ち上がったが俺の手から湯のみをさらっていった。
 あのダルそうな動作。…ひょっとしたらあの赤い傘の女を抱いたあとなのかもしれない。精魂尽きてる、とか。
 静かな動作で衣擦れの音しかしない部屋は、隣の部屋の嬌声が聞こえすぎた。それが頭の中で勝手に変換され、赤い傘の女をが抱いているのを思い浮かべ、ばっばとその想像を振り払う。
 おい盛るのもいい加減にしろよてめェらと普段ならバズーカ片手に乗り込むところだが、この店を利用している手前、派手なことはできない。
 あーくそと隣の部屋にイラッとしていると、湯のみを持ったが戻ってきた。差し出された湯のみを受け取ろうとして、そこですっと顔を寄せたに反射的に仰け反った。それでも近いものは近い。
 整った顔の睫毛に控えめな照明の光が乗っかっているように艷やかだ。そう血色がいいとも言えない唇は男にしては程よい弾力を宿しているようにも見える。おまけに肌は白くトラブルもなく、女顔負けのさらりとした黒髪だ。それらを目の前にして心拍数の上がらない人間などいるはずがない。
「気にしない」
 は隣の部屋のことをそうとだけ言って、また俺の左手側に腰を下ろした。
 この手の商売を続けてきたは慣れっこなんだろうが、さすがの俺も気にしないの言葉で片付けられるほどデキてもいない。
「…あんたは慣れっこ、ってか」
 ぼそっとぼやいて新しく淹れられた茶を飲む。口元だけで笑ったが俺を見て目を細める。「総悟はいくつだっけ?」「何がでィ」「歳だよ」「…18」「まだ未成年じゃないか。いけない子だね、こんな夜の店に通いつめて」淡く笑った顔に見惚れてからはっとして逸らした。気休めに湯のみの茶をすする。は面白いものでも見つけたみたいな顔で俺のことを観察している。
 わざわざ真選組の制服を着てやってくるんだ、調べれば俺が誰かってことくらいすぐ分かったはずだ。だが調べなかった。それは、にとって俺が一人の客にしか過ぎないという事実を否応なく示している。
 なんで俺ばっかりが。俺ばかりがのことを気にしてるんだ。
 くそ、と唇を噛む。今日で何度も噛んでいるせいか、茶の中に鉄錆の味がした。顔を顰めて湯のみを離すと、縁にじんわりと赤い色が滲んでいる。
「総悟」
 この寒さと噛みすぎで唇が切れたか。めんどくせェ、舐めときゃ治るだろ、と思ったところで名前を呼ばれてほぼ反射で目を向けた。ら、こたつの机に手をついて身を乗り出したがいて、顔を寄せられて、ぺろり、と唇を舐められた。一瞬の出来事に頭が追いつかない。
 流れる動作でこたつの上に置いてある紅色の蓋の塗り薬を取ったが、蓋を外し、人差し指で薬をすくって俺の唇に当てた。その辺りでようやく思考が現実に追いついて、視線が泳ぐ。
 じっと唇の傷を見つめている端正な顔立ち。薬を塗り込んでくる指が、熱い。
 いや。それよりも、くわえたくなる。食べてしまいたくなる。やめてくれこんな拷問。俺はSであってMじゃない。
 いや、でも、にこんなふうに触れられたのは初めてなんだ。悪くない。さっきのだってキス同然だろ。ほら、悪くない。
 いや待て、俺はMじゃないぞ。攻める側だ。こんなふうに遊ばれて悪くないってなんだ、ふざけんなよ。
 自分の中で二人くらいが葛藤していると、唇をなぞった指が離れた。さっきまで触れていた指が薬の蓋を閉めている。
(ああ、またとない機会だったのに。素直に食っときゃよかった。もったいない)
 そこから先は特に何もなかった。が外に漏らさないという確約があるわけでもないので仕事の話もそれなりにしかできないし、で特に話すこともなさそうで、たまに俺の話に相槌を打つ程度で、自分から振ってくることはない。また茶を淹れてもらって茶菓子ももらい、せんべいをバリボリ食べたり小奇麗な饅頭をつまむ程度。
 いつもそうだ。は女相手には繕った笑顔を浮かべるが、相手が男なら話は別なのだ。この店に来る客の九割は女。男はたった一割。なら、一割を捨てて九割を取った方が賢い。誰が見てもそうだ。だからは女には笑って男には笑わない。男の客なんて来ても来なくてもどちらでもいいと思っているから。
 ここは女が満足できる店であっても男が満足できる店ではない。男として満足したいなら吉原に行った方がよほど早いだろう。
「…はなんかねェのかよ。いつも俺ばっか喋ってら」
 ぼそっとぼやくとが首を傾げた。さらりとした黒髪が肩を滑って落ちる。「俺の話?」「ん」顎を引くようにして頷く。は悩むように宙に視線を泳がせた。
 たっぷり一分ほど口をつぐんでいたろうか。形のいい唇をうっすら開いたかと思うと、はこう言った。
「俺、趣味とかないんだよ。だから、適当な話も思い浮かばない」
「はァ? じゃあ女に指名されたときはどうしてるんでィ」
「聞き役。総悟にこうしてるのと同じさ。話を聞いて頷いてやれば、相手は満足する。それで、抱いてくれと言われたら、抱く」
 それだけ、と動いた唇がうっすらと笑う。
 もなかなかに悪党な男だ。男女関係をそれだけと言い切る。仕事柄話を聞くだけ、求められたら抱くだけ。まるで相手に興味がないみたいな言い方だ。
 …一瞬だけでも思ってしまったことに唇を噛んで、ぴりっとした痛みに顔を顰めた。そうだった。傷があるんだった。噛んだらまた血が滲む。
 俺がもし求めたらは応えるのか。そんな分かりきった答え、耳にするまでもない。
 ……だけど。これでバッサリと切って捨てられたら、楽に、なれるかもしれない。ここに通うことをやめられるかもしれない。タチの悪い麻薬みたいなという存在を自分から切り離せるかもしれない。それならそれでいい。そうだ。俺はMじゃない。ここは最後ビシッと決めてやろう。自分から離れてやろう。それが俺ってもんだ。
 ぺろりと唇を舐めた。やっぱり血が滲んでいた。「」「うん?」「抱いてくれと言われたら抱くっつったな」「…それが?」俺が何を言いたいのか分からないらしく、首を傾げた相手に、生唾を飲み下して、全力で素振りでもしたあとみたいにバクバクと鼓動している心臓で、言ってやった。サディスティック星の王子らしく命令口調で。
「俺も客だ。抱けよ」
「……総悟を? 俺が…?」
 ますます首を傾げたが俺を眺めている。その目を睨みつける。負けてやるか。SのようでいてMばっちりの発言をしたわけだが負けてやるか。
 いいか、俺はサドの王子とまで言われる黒さに甘いマスクのさわやか美少年を組み合わせた沖田総悟様だ。たかだか男娼一人に手を焼くほど落ちぶれちゃいない。
 と、思ってる矢先にがふっと吹き出して笑った。くつくつと声を殺した笑いをこぼしながら顔を逸らす。睨みつけてやっていたがまだ笑っている。おい、いい加減にしろっての。声を上げようとして、すっと細くなった瞳に下から上まで舐めるような視線を受けて意味もなく背筋が騒いだ。ふぅん、とこぼした声に艶を感じる。気のせいでもなくその唇は弧を描いて笑っている。
「今日で六回目…。気紛れでココへ通ってたわけじゃないってことか」
 萌黄色の着物の袖が揺れる。伸びた手が俺の頬を一つ撫でた。身体を舐めるような視線。
 今日で六度目。なんだ。憶えてるんじゃないか。俺のことなんて興味ないのだとばかり思ってたのに。
 自分から抱けよと爆弾発言をしたわりには俺の覚悟は甘かったらしい。ちっとも言葉が出てこない。肌を撫でる手に何も言えない。舐めるような視線にも何も言えない。襟元にかかった手に何もできない。
 ただ、身体が熱い。
 俺は何を望んでここへ通いつめていたのか。に何を思って金を落とし続けたのか。今更ながらに理解する。
 女ではなく、ただ俺を見てほしかったのだ。
 肌を滑った手が離れた。「やりにくい」とこぼしてゆるりと立ち上がったが敷かれている布団の上で腰を下ろし、動けないままの俺に首を傾げた。さらりと結われた黒髪が揺れる。「総悟」と呼ばれると反射で身体が反応した。来い、と言われていることは理解していた。のろりと立ち上がって、ふらふらと布団に寄っていって膝をつく。さっそく上着を脱がされた。何も言えない。何もできない。ベストを取られて、白いシャツが見えて、それも全開にされて、鎖骨にキスされた。その辺りでようやく唇が動いた。切れたせいでまだ痛んでいる。
は、男も抱けるんだな」
「仕事だからね。好き嫌いしてたらやっていけない」
 その言葉には軽く絶望した。分かってはいたがそれでも心ってヤツがギシギシと軋んだ。義務的に、事務的に抱く。俺はそれでいいのか。いや、よくない。それじゃあ駄目だ。そう思うのに肌をなぞる舌に意識が乱された。誰かに舐められたのなんて初めてだった。生ぬるい。器用に舌先で突起を弄ばれて片目を瞑る。妙な感覚、だ。
「それに、総悟の顔は結構好みだ。声も好きな部類。なら、お前にその気があるなら、まぁいいかってね」
 の何気なく言ったろうその言葉が心に刺さった。
 これ以上取り繕ってなんになる。今強がってなんになる。今素直にならないでいたら、これ以上との距離は埋まらない。
 腕を回しての頭を抱き締めた。思いきり自分の胸に顔を押しつけさせて「あんたが好きだ」と吐き出す。「好きなんでさァ」と喘ぐように言葉を吐き出して、サド星からマゾ星に落下した自分を感じた。もう戻れない。俺の住む星は今日からここだ。
 ゆるりと伸びた手が俺の頭を撫でる。「苦しいよ総悟」と苦笑いの声に腕の力を緩めた。途端に肩を押されて体重をかけられて押し倒され、橙の提灯に照らされるイケメン顔を見上げる形になる。ムカつくくらい整った顔しやがって、ずりィ。
「俺のこと好きなんだ。知らなかった」
「…ここに通うのに、それ以上の理由なんてねェ」
「じゃあ、こうされたくて、仕方なかった?」
 つつつ、と長い指が胸から順番に下へと下りていく。むず痒い。カチャン、とベルトに手がかかる。払いのけられない。そんな俺に薄く笑ったが乳首を食んだ。抑えたつもりが小さく身体が跳ねる。
 女は何度か抱いて経験もあるが、当然、受けになるのは初めてだった。噛んだ唇にまた血が滲む。
「初めてなんだろ。優しく抱いて、犯してあげるよ」
 笑った声が耳をくすぐっていく。
 ベルトが外れる。チャックが下げられる。は本気だ。好きだと吐露した俺を抱こうとしている。
 初めてであって初めてでない刺激。男の指による刺激を受けながら息をこぼして目を閉じる。
 後悔は、しない。それにどれだけの苦痛と快感が伴おうとも。
 結局のところ俺がに望んでいたことは、最初から最後まで同じモノだったのだから。
(とびっきりの夜遊びを、ね)