身が軋むような冬。雪でも降り出しそうな灰色の空は、端の方から明け始めている。どうやら明け方近くらしい。
 ふらつく足取りで長屋の壁に肩をぶつけ、地味な出血の続く腕を押さえる。
 大した傷でもないと放っておいたが、野郎、何か塗ってやがったな。おかげで足元がおぼつかねェし視界は最悪だ。霞んでて先の方が見えやしない。ここはどの辺りだ。俺は今どこにいる?
 ああ、全く、最悪だ。まだ土方の野郎を殺してねェってのにこんなとこで無様に膝をついてちゃ、到底、副長の座になんて。
 膝を引きずりながら、それでも進んで、霞んでよく見えない視界を凝らす。
 ああ、でも。ここで死んだら。姉上のところへ行けるだろうか。…そんなこと考える時点で姉上に顔向けができない。でもなァ、このままじゃ俺死ぬっぽいよなァと動かなくなってきた身体に思い、自重を支えることも困難になって砂の地面に倒れ込んだ。
 ちらちらと舞うものが目について視線だけ持ち上げると、空から白いものが舞い始めていた。雪だ。
(もう、いいか。諦めても。いいかな。姉上)
 目を閉じ、動かない身体で抵抗を手放すと、燃えるような熱だけが分かることの全てになる。
 風のない無音の空気。寒さに凍えて動き出さない明け方の世界。降り出した雪。全てが俺を拒絶しているように感じた。このまま死ねと悪意を持って俺を取り囲んでいる気がした。
 こんなヘマをした俺が悪い。天人の使うもんに大した注意も向けなかった。自分の失態だ。誰を怨むでも呪うでもない。そういう運命だったんだ。受け入れて、死のう。
 深く息を吐き出した、そこへ、カラリ、と下駄の音。
 カラ、コロ、と下駄を引きずる足音がゆっくりと近付いてくる。
 億劫で仕方ない身体で瞼を押し上げると、ぼやけている視界の中にゆらりと立った誰かが見えた。屈んだ相手の肩から長い髪が滑り落ちる。
「生きて…る?」
 長い髪のくせに声は男だった。気怠そうにゆるりと伸びた手が頬に触れる。燃えるように熱い身体には心地のいい冷たい手だった。…どこか懐かしさを感じる手つきだった。なんでか分からないが、そう感じた。
 ほろりと涙が落ちるくらいにはその感覚は懐かしかった。身体が動けば衝動のままに触れたい温度だった。
 店の外に出ると、空が明け始めていた。
 空気が軋んでいるように感じる冬の朝。身が竦むようだと思いながら踏み出した足は裸足で、カラリ、と下駄を引きずる自分は寒さに帰宅を急ぐでもない。心と身体が分離してだいぶたつなぁ俺はと自分を嗤い、小洒落た赤い橋を渡る。
 吐き出す息がいやに白いと思っていたら、空から雪が降り出していた。寒いはずだ。
 自分の部屋がある長屋に向けていつものように歩みを進めて、カラン、と足が止まる。
 長屋の前に誰かが倒れていた。黒い洋服を着ている。ズボンだから男だろう。髪が明るい茶髪だ。顔は、ここからではよく見えない。
 カラリ、と下駄を引きずりながら近くまで行って、死んでるのか生きてるのか分からない相手に手を伸ばして頬に触れた。「生きて…る?」冬の空気に触れているのに燃えるように熱い肌だった。病気か、それとも、とその姿をざっと確認して、腕に怪我があるのを見つける。ここから何かよくないものが侵入したのだろう。それに侵されている。
 頬を撫でると、頼りなく揺れる赤い瞳と目が合った。
「……、」
 言い知れない、魔力、みたいなものを感じて、顔を寄せる。
 死にかけているように顔面蒼白で、その中で赤い瞳がとてもきれいだった。宝石みたいだ。
 何かを言いかけ、意味もなく空振った口で、名前も素性も知らない、死にかけていることだけが分かる相手に、衝動のまま、触れるだけのキスをした。大きく見開かれた瞳と目を合わせたまま顔を上げ、助けるために無事な方の腕を肩に回して気合いを入れて立ち上がる。
 男だ。だから重い。その男に、俺はどうして魔力を感じているんだろう。
 長屋の一室に戻り、布団の上に死にかけの子を寝かせた。天人のお客にもらった万能薬の青い液体に包帯を浸し、染み渡るまでの間に傷口を水で洗ってきれいにし、万能薬で消毒する。最後に青に染まった包帯を傷のある腕に巻いた。
 これで、これ以上の侵攻はないはずだけど、自信はない。何せもらいものだし。他の誰かで効力を試したわけでもないし。
 ゆらゆら揺れている赤い瞳が俺を捜しているようだった。桶を片付ける手を止めて「ここだよ」と枕元に行くと、彷徨っていた瞳が俺を捉え、安心したように緩くなり、閉じられる。…限界がきて眠ったようだ。
 そのままでは寝にくかろうと思い、親切心から、ぴったりめの洋服を脱がせていく。
「…君は、誰だい?」
 意識のない、死にかけている相手に呼びかけて、苦笑いをこぼす。そんなのきっとこの子だって同じだろうに。
 それなのになんだろう、この、胸が切なくなるような想いは。まるで水の中に放り込まれたように息がしにくい。苦しい。どうしてだろう。
 俺の着物を着せて、一つしかない布団に患者を優先して寝かせ、枕元に座布団を置いた。腰を下ろして片膝を抱え、眠っている横顔を眺める。
 …親切心から着替えさせたはずなのに、俺の身体はどうして火照っているんだろう。男相手に。
(不思議だ)
 こんなもの知らない。それなりに長いこと身体を売る商売をしてきたけど、こんなもの、俺は知らない。恋も愛も切り売りする商品だったから。商品だからこそ感情として扱っていなかったソレは、こういうものだと、本能が、直感が告げている。
 この子の目が覚めたら、まずは、名前を訊こう。何はともあれ、まずはそこからだ。

ここからまた始まる