ぽた、と顔を打った雫にはたと我に返ると、眼下には長い階段の景色が続いていた。神社まで続く300の階段。100と200の地点がちょっとした踊り場になっていて、1段から始めて300段で赤い鳥居をくぐり神社に到達する一本道。
 水の音。ぽたぽたとうるさい水音に空を見上げると、泣き出していた。それも大泣きだ。さっきまで月すら見せていたくせにどうしてこう急に泣き出すかな。空は女みてェで苦手だ。いちいちご機嫌取りしなきゃ洗濯物だって干せやしねェ。
 濡れて顔にはりつく前髪を指で払いのけ、もう一度視線を眼下の階段先へと向ける。
 あっという間に石段を暗い色に濡らし始めた雨と、300から100段下った位置の踊り場に人形みたいにぐたっと転がっている男を眺めて、震える拳をぐっと強く握りしめた。
 突き飛ばした。俺が。ここから、100段、アイツは石の階段を転がって、あの場所で止まって、動かない。
「俺ァ悪くねェ」
 口にした言葉は拳ほどに震えていて、雨の音に負けていて、まるで自分に言い聞かせているようだった。
 打ちどころが悪ければ死んでいる。頭を何度も打ってれば確実に死んでるだろう。人間なんて脆いもんだ。
 100の階段を転がり落ちる間に頭をぶつける可能性はどのくらいだろう。
 足を踏み外したのが自分の失敗だと気付いて受け身を取ったとして、庇いきれるものだろうか。それでも防御の反応が遅れようものなら、予期せず突き飛ばされ階段を転がり落ちる破目になった場合の反応速度はどれほどのものか。とっさの防御は間に合うのか。残念ながら階段から突き飛ばされたことはないし、あったとして受け身を取る自信のある俺には縁のない話だ。
 階段を一歩下りるとばちゃっと足元で水が跳ねた。あっという間に水溜まりができ始めている。
 ばちゃ、ばちゃ、ばちゃ。鬱陶しい水を跳ねさせながら一歩一歩階段を下りながら、祈った。男が死んでいることを祈った。もう二度とこんな真似はしたくないしできない。だから一度で成功させる必要があった。
 俺はアイツに死んでほしかった。この世から消えてほしかった。
 それだけを思ってこの神社を最後の場所に選んだ。願かけしようなんて馬鹿な誘いにつられてついてきたアイツは馬鹿だ。どうしようもない。今度隊舎で受ける認定試験の願かけだなんて突拍子もない嘘をまるっと信じて、じゃあ本気で祈ると両手を合わせて賽銭箱の前でうんうん唸ってありもしない試験に受かるようにと祈る姿に、無性に泣きたくなった。
 ありもしない嘘を信じて、俺を疑うこともしなくて、金が必要だと言えば財布を預けてくるし、機嫌のいいときだけ構えば犬みたいに懐いてくる。
 はっきり言うなら残念な野郎だ。頭のネジがちょっと緩いっていうか、馬鹿っていうか、お気楽っていうか? そういう残念な野郎。
 最後の階段を下りると水溜まりに足を突っ込む形になった。ばちゃん、と大きく水が跳ねて転がって動かない男の顔を叩く。
 赤い色は、なかった。この強い雨で流されたというわけじゃない。最初から赤い色はこの場にない。出血はない。頭を打ったのかどうか、転がっていく姿を見ているだけでは分からなかった。
?」
 男の苗字を呼んでみたが、口の中でぼやくだけの小さな声になった。雨の音に負けている。「?」もう一度、今度は大きめに男の名を呼んだ。…答える声はない。
 死んだかどうか、を確かめるために雨に濡れた唇に掌を触れさせる。
 呼吸は、あった。弱いがまだ生きている。
 このまま放っておけばコイツは死んでくれるだろうか。雨に体温と呼吸を奪われて事故死してくれるだろうか。
 神社の階段から突き落とす。こんな面倒な方法を選んだのは、コイツを無理なく殺すためだ。
 刀の腕が確かな俺が殺そうと思えば、苦しまずバッサリ一息に殺してやれたが、それは必ず俺の手に感触として残す方法になる。たとえそのあと何人殺そうがその一太刀は俺の掌に感覚として焼きつく。そんなことは容易に想像できた。だから、事故死だと言い聞かせれば本当にそうだと思えてくる無理のない殺し方を考えた。それが神社の長い階段から突き落とすこと、だった。
 このまま放っておけばいい。死ぬから。死んでくれるから。俺はそれを望んでいるからこんなことしたんだろう。愛した男を突き飛ばした。かなりの確率で死ぬと分かっている場所から突き落とした。
 目に見える出血がなくとも、脳内出血を起こしてれば、血栓ができてれば、処置しなければ死ぬ。
 頼む。死んでくれ。そう祈るのが辛かった。願かけしようなんて嘘にころっと騙されてこんな場所までついてきて、俺のために祈っていたアイツに、俺は死ねと願っている。最低な話だ。こんなことはこれっきりにしたい。これでもう終わらせたい。二度目なんて、できる自信はない。
 弱い息を繰り返すと、の顔に手を当てたままうなだれる俺。
 近い場所で雷鳴が轟いていた。
 雨の冷たさしか感じられない肌に、ぺろ、と掌を舐めたぬるい感触に、身体が引きつった。
 目は開いてない。身動ぎの一つもしてない。どこをどう打ったのかも分からない。呼吸は弱い。雨で体温は下がっていく。意識はきっと痛みで曖昧だろう。俺がそばにいることなんて気付いてないに違いない。それでも俺がいることを身体が察知したのか、唇の間から覗いた舌が俺の掌を少しだけ舐めたのだ。無意識に、俺を求めて。
 たった、それだけのこと。
 たったそれだけのことで、俺は、あの息苦しい全力の愛を思い出していた。まっすぐ曝け出して何も遠慮しない、馬鹿で残念な思考回路のの、俺を愛して止まない声を。求めて伸ばされる腕を。突き放せば寂しそうにして、構ってやれば嬉しそうにする、あの豊かな表情を、思い出してしまっていた。
 水溜まりに拳を叩きつけた。「くっそおおおお!」と泣き顔の空に向かって叫び、唇を噛んで何度も何度も水溜まりに拳を叩きつける。石段を殴ることになろうがそれで拳が軋もうがどうだってよかった。愛よりも痛みで心をぐちゃぐちゃにしたかった。痛みで全て忘れたかった。それでもそーごと俺を呼ぶ声は消えず、すぐそばでは愛する男が人形のようにぐったりと転がって雨に打たれるがままになっている。

 冷たい手に触れて少し揺さぶる。起きろ、と。それでも反応は何もない。
 俺が呼べば嬉しそうに寄ってきてなんでも言うこと聞いたくせに、「なァ目ェ開けろ」と縋ってもぴくりともしない。
 まだ生きてるけど、このままいけば死ぬ。こんなに簡単に人は死ぬんだ。階段から突き落としたくらいで死ぬ。
(俺がやった。殺そうと思って。死んでほしいと思って)
 今頃になって全身に冷や汗が吹き出た。雨の冷たさ以外でガタガタとおかしなくらい震える手で携帯を取り出し、救急車を呼ぶ。
 自分がしてしまったことを後悔した。
 20年という俺の人生のプライドと、の全力の愛が天秤にかけられ、どちらが重いかで自分を選んだ。どちらが大切かでなくどちらに重きを置くかを選んだ。『俺は俺が大事だ。自分以外に大事なものなんてない』…それが間違いだった。

 おかしなくらい身体が震えて、雨でも消えない嗚咽と涙が死にかけているの上に落ちる。
 愛が鬱陶しいと思ったわけじゃない。愛が重いと思ったわけじゃない。ただ、他の何も顧みない、自分さえも顧みないまっすぐな気持ちが俺には眩しすぎたんだ。
 始めは、遊びだった。
 女遊びに飽き始めていたから、男遊びってものを始めた。とくに感慨もなかったし、男に足を開く側になるのはぜってェにごめんだと思ってたから、本当に遊びだった。M要素のある野郎を調教するくらいの遊び。適当に飽きたらこれもそのうち止める予定でいた。
 そこへアイツが現れた。。前々から真選組で活躍する俺のことを気にかけていたとかで、俺からしたら出会った日に好きだ付き合ってくれと言われた。当然蹴った。俺はそういう趣味はねェしこの先もその予定はねェ。いくら言っても相手は聞かず、鬱陶しかったので、男遊びは早々に区切りをつけた。
 遊びとしてはそれなりに収入源になりつつあった調教だが、が毎度毎度店を訪ねてきては好きだと鬱陶しいため、さすがの俺も辟易した、というわけだ。
 が、はしつこかった。女遊びに戻った俺を捜し出しては毎度のごとく好きだ付き合ってくれと言う。しまいには真選組の屯所までやって来て同じことを言うためさすがの俺もプッチンとキレて半殺しまで痛めつけたが、奴の諦めの悪さは半端無かった。
 松葉杖ついてでも次の日にはまた屯所にやって来て奴は同じ言葉を繰り返す。
『好きだ。付き合ってくれ』
 もう何百回も聞いた気がするその言葉に、半殺しにしても同じことを言う相手に、俺が折れた。
 遊びのつもりで、軽い財布のつもりで、仕方がないから『下僕としてなら聞き届けてやらァ』とぼやくと、明るい顔になった相手は両手を挙げて喜んだ。その手から松葉杖がすっこ抜けて地面を転がり、バランスを崩した相手は無様な感じで地面を転がったが、それでも嬉しそうに笑っていた。その姿に阿呆だなと心底呆れた。
 足を折って、腕の骨にもヒビが入って、片目には青あざができるほどの拳を見舞って、見えない部分にも俺がつけた生々しい傷があるっていうのに、そんなことなかったみたいに笑う、馬鹿で頭の悪い残念な野郎だと心底思った。
 始まりは、遊びだった。
 軽い財布のつもりで買い物に付き合わせ、使いっ走りのつもりでいろんなことを命令した。アイツは一つも嫌がることはなかった。まさに都合のいい下僕だった。
 一年目は、そのうち音を上げるだろうと高をくくっていた。
 無理難題を言いつけて隣町のさらに端まで買い物を命じた日にはさすがにこれでと思ったが、なんてことはない、馬鹿で残念な相手はいつものようにへらっと笑って行ってくると言っていつもどおりに出て行った。三日かかって隣町の言いつけたリサイクルショップを発見し、言いつけた古いブラウン管のテレビを背負って帰ってきた。
 すっかり俺の私物で溢れた自分の部屋にただいまと笑顔で帰ってきたアイツは泥や埃でボロクソになっていたが、笑顔の明度は変わらなかった。
 適当に思いついて適当に買ってこさせたただのテレビ。それを、今じゃもう中古でしか手に入らないヤツでな、昔使ってて、気に入ってんでィとない言い訳をさせる程度には罪悪感というヤツを覚えた。ボロクソになって褒めてって期待した顔をしている奴の頭を撫でてやるといっそう嬉しそうにする馬鹿に、居心地が悪くなったのを憶えている。
 二年目に入って少し焦り始めた。
 そのうち諦めると思っていたが、キスの一つもしてないのに、アイツは俺に真剣だった。まっすぐなままだった。何も応えないでいることが居心地が悪いと思うくらいにはまっすぐだった。
 理由をつけて、褒美としてなら。そんなことを考え始めたのはこの辺りからだ。
 キスくらいなら男相手にでもできるだろう。また適当に遠くへ買い出しに行かせて、帰ってきたら褒める。ボールを放り投げてくわえて帰ってきた犬によくやったと餌をやるアレだ。それなら不自然じゃない。そう思って隣町の古本屋に買い物に行かせた。それなりに昔の漫画、全三十五冊。は三日かかって帰ってきた。泥やら埃やらでボロクソになりながら、はい、と風呂敷で包んだ漫画全巻セットを手渡してくる。
 褒美をやるよ、とぼやいてキスしたその日、枷が外れた。俺と、の、性の枷が。
 その日からとの付き合いが遊びではなくなった。主人と下僕ではなくなった。
 まさかこの俺が、男相手にセックスする日が来るとは。それも股を開く方とか、天地が引っくり返ってもありえないと思っていた。
 人間ってェのは案外簡単に自分の天地が引っくり返る出来事に遭遇するものらしい。

「そーご」
「…なんでィ」
「痛い?」
「腰とケツがいてェよ誰かさんのせいで」

 へらへら笑っている顔が気に入らずわりと本気で殴っても相変わらず笑っていた。そのへらへら笑った顔にキレかけたが、たとえ半殺しにしても本望とばかりに笑ってるんだろうことは簡単に想像できたので、苛立ちは呑み込んだ。
 なんでこの野郎はこんなに馬鹿なのかと苛々しながら眠って、目が覚めた朝。先に起き出したんだろうが湯で絞ったタオルで俺の身体を拭っていた。やれとも言ってないし、俺が起きて風呂に入ればいらないことだっていうのに、なんか知らないが嬉しそうに唇を緩めながら俺の肌をきれいにしていた。
 ばっかじゃねェの、と思った。それから、冗談じゃない、と思った。
 息が苦しかった。この馬鹿のせいで。
 さんざんパシリに使って暴力だって振るったし機嫌の悪いときは何も悪くないお前に当たって発散した。早く俺のことなんか諦めてどっかに行けと思っていた。その辺りの女に惚れるか騙されるかして俺から離れていけと思っていた。バイバイそーごと手を振られたらもう二度と面見せんなと手を払ってやるつもりでいた。
 そうできるうちに、関係を断つことが、お互いにとって一番理想的な別れ方だと分かっていた。一時の気の迷い。それですませられるから。いなくなって清々した、それですませられるから。

「そーご? 起きた?」
「…何してんでィ」
「きれいにしておこうと思って」
「頼んでねェ」
「頼まれてない。俺の勝手」

 へらっと笑った顔に、何も言えず、苛立ちを覚えることもなく、口をつぐんで黙って起き上がる。風呂に入るとぼやいて八畳の部屋から小さな脱衣所で引っかけていただけの着物を落とし、小さな風呂場でシャワーの水を頭から浴びた。
 冗談じゃない、と思った。
 愛想尽かされて当然のことをしてきたし、それを狙っていた。あの野郎はそれでも俺を好きなままだった。どんなに最低な一面を見せても拒まない。ペット以下の扱いをしても寂しそうにはするがそれだけ。機嫌のいいときだけ構ってやれば弾けんばかりの笑顔で嬉しそうにする。
 そんな、愛を。俺は知らなかった。
 そんな愛が、苦しかった。まっすぐで、他のことはどうでもよくて、手放しで俺を選ぶ、その愛が、俺にはとても息苦しかった。
 土砂降りの雨の中救急車が到着し、赤いランプがくるくると回って景色を切り抜いて染め上げるのを眺めながら、白い車の中にストレッチャーに寝かせられたが収容されていくのを見送った。
 この雨だ。速度を上げるためにも乗る人間は少ない方がいいことは分かっていた。
「これで死んだら、恨むからな」
 遠ざかっていく赤いランプとサイレンの音にぼそっとぼやいて、雨に濡れながら走ってアイツのアパートに帰った。濡れた着物を脱ぎ捨てて適当に着替え、再び外に出てタクシーを掴まえて大江戸病院へ向かう。
 治療室に運び込まれたが出てくるまで、何もない廊下でぼんやりとこれまでの日々を思い出す。
 手繰り寄せるほど息がしづらくなった。
 最初に頭を撫でてやったとき、最初に手を繋いだとき、最初にキスしたとき、最初に抱き合ったとき、最初にセックスしたとき。どれも昨日のことのように鮮明に思い出せるのは、俺もそれだけ意識してアイツを見ていたってことだ。まっすぐでブレない愛の眩しさに目を細めながら、それに焼かれて燃え尽きる自分のプライドに怯えながら、それでも、最後には縋った。逝かないでくれ、と。……我ながら情けない話だ。
 きっと生きていける。俺だけを見つめるまっすぐな愛から解放されて、息苦しさから解放されて、楽に息ができるようになる。
 でも、その自由で気楽な息が軽すぎて、物足りないと思うようになる。
 覆い被さってくるぐらいの愛は鎖のようなものだ。程よく自由を奪い程よく重みがある。なくなってしまえばそれに慣れていた身体は軽さと自由に耐えられない。失った自由の感覚を取り戻すまでずっと、なくなった重みを気にして振り返る。
 のまっすぐでブレない愛を向けられる度に、俺は苦しくて苦しくて仕方がなかった。
 息苦しさから逃げたかった。自由になりたかった。愛の海に溺れさせる愛の鎖を断ち切って、愛の水から這い出して陸に上がるつもりでいた。
 かつての俺は確かにそこで息をしていたのに、俺はもう陸での息の仕方を忘れていたのだということを、陸に上がりかけて初めて気がついた。
 息苦しい愛の海でしか、俺はもう生きていけないのだ。
(…冗談じゃねェぜ全く。どうしてくれんでィ、。お前のせいだ。全部お前の)
 いつまでたっても消えない『治療中』のランプを見ながらソファに寝転がり、出てこないアイツを思いながら、目を閉じる。
 着替えただけの身体はまだ雨の冷たさで冷えていた。
(今すぐそこから出てきて、俺をあたためろ。馬鹿