突き刺す甘さに

 カラリ、と音を鳴らして下駄を引きずるようにして歩く。この木の音色を響かせるためだけに履くよう義務付けられている下駄は裸足でいるには寒い。が、足袋に下駄はよほど寒いときにしかしないと決めているので、俺は今日も裸足で下駄を履いてカラカラと引きずって歩いている。
 いつも通りの夜だった。
 客の女相手に当たり障りない相槌を打って、苦労話になれば君はよくやっていると相手を慰め、手を握り、労り、笑いかける。自慢話になれば関心を装って頷き、君はすごいねと賞賛し、褒め称える。
 全てが遊び事の夜の世界で、夜の店で、今月も指名度トップ3内に入っている自分の名前と顔写真を看板の中に見つけ、視線を外す。
 俺はいつまでこの世界にいるつもりだろうか。
 確かに、ここにいれば楽だ。汗水垂らして働く必要なんてない。ただゆるりゆるりと相手の話に付き合って、出された金の分時間と意識を分け与えるだけの、簡単な仕事。幕府のお偉方の奥様が通ってくるんだからよほどのことがない限り潰されることもない。安泰だ。
 こんな場所なのに誰も彼もが笑っているのは、この時間をそうしようと決めているから。どんなに後ろ暗い事情があろうと浮気だろうと気にしない。ここは、そういう場所だ。金さえあれば仮初めの愛だって手に入る。
 こんな場所で手に入れた愛なんて、ろくなものじゃないのに。
「ふぅ」
 明け方になって、店じまいの段階になり、ヘルプがせっせと片付けやら掃除やらをしている中でグラスの水を呷って飲み干す。

 今日初めて店を訪れた子がおずおずと俺を指名した。ウチは一見さんお断りというわけでもないので、いつもの微笑みで迎え入れた。
 初めてだというのに個室プランを指す細い指を眺めて、その通りにした。
 口数少なく抱いてほしいと着物を脱ぐ姿に、もう驚くことも感じることもできない俺は、ただ微笑んで、細い肢体に手を伸ばす。
 別にね、いいんだ。仕事だから。こんな場所でこんなふうに自分を捧げるなんて馬鹿な娘だなと思うくらいで、喘ぎ声にも、口付けを求める小さな唇にも、同情を覚えたくらいで。
 それもそろそろおしまいにしたいなと思うのは、あの子のせいだろう。
 沖田総悟。真選組で隊長をやってるらしい未成年は、相変わらず制服のままこの店にやってきては俺を指名して個室に押し込む。
 初めて抱いてからもう二桁は通っているし、前じゃなくて後ろでも感じるような身体になってきた。開発しちゃってるなぁと他人ごとのように思う、そんな自分に呆れながら、求められるまま唇を重ねて喘ぐ声を口の中で受け止め、犯す。そんな夜をもう何度も続けてきた。

「ふぅ」
 コン、と音を立ててグラスをカウンターに置く。この店のマスターでもある親父さんがグラスを磨きながら「どうした。らしくないな」と強面のわりに自信のないような小さな声を投げてくるので、薄く笑って返す。「疲れてるのかな」「今日はそんなに抱いたのか?」「そうでもないけど…」空のグラスに気を遣ったように新しい水が注がれる。コップをつまんで透明な液体を揺らしながら、ゆらゆら揺れる自分の顔を見つめる。
 そんなにこの顔がいいかな。そりゃあ、イケメンだと自負はしてるけど、こんな顔捜せばそれなりに世に溢れているんじゃないだろうか。まぁ、言うほど世の中のことなんて知らないし、人の顔なんて知らないんだけど。
 ゆらゆら、コップの中の水を揺らして一口含む。冷たい。胃に水が落ちる感触を味わいながら唇を離す。
 俺はいつまでこの仕事を続けるのだろう。
 たとえば、この仕事を辞めたとして、次はどこへ行く? 当てなんてない。
 楽な方向に考えるなら、指名度が落ちてヘルプになるまで仕事を続けた方が楽だ。楽に稼げて楽に生きていける。夜の世界で緩やかに腐っていける。そのことに疑問を持つのはもうやめてきたのに、俺は今更そのことを蒸し返して、どうしたいっていうんだろう。
 頭の中でチラチラと総悟の赤い瞳が揺れている。
 総悟に頼れば、真選組に関係するどこかに居場所をもらえる可能性はある。あれでも隊長だって言ってたし、実力もあるらしい。こんなところに通うイケナイ未成年ではあるけど。
「ふぅ」
 本日三度目の溜息を吐いて一気に水を飲み干してグラスを置く。「じゃあ、もう寝るよ。おやすみなさい」「ああ。しっかり休めよ」気遣わしげにかかる声に小さく笑って片手を振って着物の羽織りを肩に引っかけ、裸足の足元に下駄を履いた格好で寒空の下に出る。明け始めた空の薄紫色。俺は陽が昇る頃に眠って陽が沈む頃に動き出す夜型の人間だ。この生活がもう五年続いてる。すっかり習慣になったから朝になると眠くなる。
 ふあ、と欠伸をこぼしつつ下駄をカラコロ鳴らしながら長屋の家に向かい、小洒落た赤い橋の中央で足を止める。
 向こう側に見慣れた童顔が立っていた。今日は制服ではなく赤い着物に白い袴姿だ。珍しい。いつも夜に仕事帰りに制服で寄っていくのが常だったのに。
「総悟?」
 カラ、と下駄を鳴らしながら寄っていくと、赤い瞳に睨み上げられた。俺が疑問をぶつける前に「今日は仕事が休みなんでィ」と自分がここにいる理由を説明して手首を掴んでくる。その手はすっかり冷たかった。どのくらい待ってたのか知らないけど、俺がぼんやり水のグラスを傾けてる間もこの寒空の下に佇んでいたに違いない。
 はぁ、と息を吐いて手首を握る手を剥がし、冷たい掌を両手で包む。「いつから待ってたんだい」「…三十分前」「嘘をつけ」「…一時間、だったかも」「それも嘘だな。髪が濡れてる。雨が降ったのは二時間は前だよ」しっとり濡れている明るい茶髪に唇を寄せるとばっと距離を取られた。逃げた手でぐっと拳を握って「うるせェな俺の勝手だろィ」と睨みつけてくる赤い瞳に呆れてしまう。
 そりゃあ、風邪を引くのはお前の自由だけど、それを俺のせいにされても困るよ。その風邪がお前の仕事に響いたって俺は責任持てないし。
 全く、手がかかるな。それとも俺に手をかけてほしくてこんなことをしているのかな、この子は。
 すっと手を差し伸べると警戒するように赤い瞳が細くなる。
「うちにおいで。そのままでは風邪を引くし、着物を着替えよう」
 そう言うと、手負いの獣みたいに今にも唸り声を上げそうだった総悟の瞳が攻撃性をなくした。「…の家?」掠れ声に浅く頷いて長屋の一画を指す俺に、じっとそっちを眺めたあと、おずおずと俺の手に指をかけてくる。冷たいその手を握って何の変哲もない長屋の『』と札の下げてある部屋の扉に鍵を押し込んで解錠し、総悟を上げた。すっかり冷たくなっている身体に眉根を寄せて「湯浴みを用意しようか」と言う俺に総悟は緩く頭を振る。
 じゃあ、何か。湯でなくても身体があたたまる行為をご所望なのかな、この子は。
 着替えの着物を用意しながら、衣擦れの音を聞く。「総悟、まだ用意が」脱ぐのが早いと指摘しようとして、背中側から抱きついてくる剥き出しの肌色の腕が俺の腕に絡んだ。ばさ、と手から滑り落ちた着物から視線をずらす。「俺が、ここまでやってんだから、さっさと」細く小さな声で俺の着物に縋る指に目を細くする。
 やっぱり、そっちがいいんだ。
(別にいいけど)
 絡んでくる腕が震えていたので、指を絡め、手を取り、ここにおいでと布団に招いて膝の間に裸の総悟を抱え込む。羽織りを被せた上から抱き締めて、震えている唇にキスを施す。
 最初から熱くて情熱的なものを。嫌でも身体があたたまるくらいの愛撫を君に。
 これは仕事じゃない。金はもらわない。
(でも、まぁ、総悟なら、いいか)
 いつも通りでいて微妙に変化を続けた日常が終わりを告げたのは、唐突なことだった。
 江戸を中心として突如広まった殺人ウイルス。感染経路不明、発生源も不明、予防法・治療法の確立されていないその病から逃れるには地球を捨て逃げるしかない。そんな話を唐突に聞かされて、慌てたように長屋に飛んで帰る同僚の中で、俺は一人突っ立っていた。「用意をしないか。艦の出発まで五時間しかない」背中を押す手に我に返る。
 この人は、あっさりと地球を捨てて生き延びる道を選んだらしい。
 そりゃあ、俺達の商売はどこへ行ったってついて回る性のものだ。俺はこの店の顔のうちの一人でもあるから連れていこうって言うんだろう。俺の意思なんて訊ねない。誰だって死にたくはない。生きたいだろう。だから、俺が艦に乗ること前提で話を進めている。
 見慣れすぎて飽きてきていた店内を眺め、背中を押されるまま店の外へ。「いいか、四時間後に集合だぞ」と背中にかかるマスターの声にひらひらと手を振って返す。
 それが別れだとは言わなかった。言ったところでどうともならない。
 俺は宇宙に行ってまでこの仕事を続けたくはないし、天人相手に今まで通りやっていく自信もない。やっぱり俺は地球人だし、人外には、反応できるかどうか自信がない。
(それに、やっぱり)
 真選組の隊舎ってどこにあるっけ、と江戸を彷徨って、暇そうで親切そうな女子その他に声をかけて情報収集しながら隊舎に辿り着いて門戸を叩く。が、誰も出てこなかったので、「ごめんください、失礼します」と断ってからとんと地面を蹴って門戸の端に手をかけ気合いでよじ登り、向こう側に着地する。ガランとしている敷地に制服姿は見られない。…みんな白詛とかいう病気のために外に駆り出されているんだろうか。
「総悟ー」
 間延びした声で呼んでみたけど、やっぱり誰も出てこない。
 勝手に上がらせてもらい、誰かの帰りを待つ。門戸の見える畳の部屋でのらりくらりとマイペースに。
 三十分は座って待っていたけど、一時間になると眠たくなってきて、ゴロンと畳の床に転がった。驚くほどいつも通りな自分にひっそりと笑う。
 殺人ウイルス。うん、そんなものもあるかもしれない。何せ天人なんて存在が空飛ぶ船に乗ってやってくる時代だ。何が起こったって不思議じゃない。
「そーごー。そーごー」
 呼んでいたらそのうち来やしないかと、間延びした声で、赤い瞳と明るい茶色の毛並みのウサギの名前を呼ぶ。
「そーごー。俺はここだよー」
 あいつはここに残る。地球に残る。殺人ウイルスに恐れおののいて尻尾巻いて逃げるなんてことはしない。
 だから、俺もここに残る。
 死にたくはないよ。でも、あいつのいなくなった場所で息をしていくほど、何も思うことがないわけじゃないんだよ。きっと名残惜しくなる。それが想像できるから、少し怖いくらいの日常の中に残ることを選ぶ。
 うん。我ながら、馬鹿だなぁ。
「そーごー」
 間延びした声で総悟の名を呼び続けていると、ドカーン、と木製の門戸が吹っ飛んだ。突然の爆風、突然の爆発。顔を腕で庇ってから目を向けると、バズーカ片手に門戸を吹っ飛ばしたのは総悟だった。俺を見つけると泣きそうな顔でバスーカを投げ捨てて敷地を駆け抜け、あろうことか、俺の上にダイブした。おかげで潰れた声が出て地味に骨が軋んだ。頭も打った。痛い。重い。
「なん、なんでこんなとこにいんだよッ。捜したのにいねェから、もう殺られちまったのかと…っ!」
 ああ、そうか。入れ違いか。それは悪いことをした。俺がここでのんびりしてる間必死になって俺の店や家周辺を捜してたのか。
 震えている総悟を緩く抱き締めて「ごめん」とこぼし、明るい茶髪に顔を埋める。
 …今気付いたけど、人が見てるなぁ。総悟と同じ制服姿なところを見るに、同僚かな。いいのかなこんなとこ見せて。今更離れても遅いか。じゃあ、まぁいいかな。あとで睨まれてもそれは総悟のせいってことで。
 落ち着け、大丈夫、とゆるりゆるり、総悟の背中を撫でる。何度もそうしているうちにバズーカでの粉塵も治まり、視界も良好になり、ずっと乗っかられたままが辛くて総悟の背中を抱きながら起き上がった。まだ震えてる総悟の背中を撫でながら視線だけ投げる。おお、人が増えてる。同じ制服。みんな真選組の人か。総悟がやったとはいえ、隊舎から煙が上がってたら様子を見に来るのは普通、か。
「誰だアンタ」
 当たり前の問いかけに、とりあえず笑っておく。
といいます。初めまして」
 短い黒髪の男の一声にさらりとした笑顔を浮かべると、総悟がきっと顔を上げて男の方を振り返って「俺の男に手ェ出した奴は殺すからな!!」と俺達の関係を大声で盛大に暴露した。
 …もうちょっと、言い方ってやつはなかったのかな総悟。引いてるよみんな。
 再びくっついてきた総悟の背中を掌で撫でる。だいぶ落ち着きはしている。「誰、あれ」「土方」「へぇ」名前だけ言われても役職にイコールできない俺は、遠巻きにこっちを眺める面々に、なんていうかもう笑って誤魔化すしかない。
 ああ、前途多難だ。