その日は晴天だったが、着物を一枚余分に着ないといられないような寒の戻りだった。
 四月になったっていうのに、花冷えで朝から肌寒い。前日は春の陽気だったくせに因果なものだ。花見しようって日が寒いんだから。
 風でも吹こうものなら肩を縮こまらせて身を竦める、そんな寒さの中、くたびれたブルーシートの上で片膝を立てて刀を抱えて座っている俺と、隣で胡座をかいている。俺達の後ろには桜の木があり、はらり、はらりと薄桃色の花弁を散らせている。
 同盟を結んだ真組と桜一派の親睦を深めようと企画された花見の席。発案者は。まだ表面上だけと言える同盟関係と人間関係を見かねて、どうせならもっと仲良くなろうよってこんなことを考えたらしい。
 そんな馬鹿は、俺の隣で桜の花を散らした羽織りを半分脱いだ。暑いわけでもあるまいし、何してんだ、と半眼で睨む俺に脱いだ半分をかけて、何も反応する暇もないくらい自然な流れで肩を抱いてくる。
 俺より背ばっかり高いの肩に頬がぶつかった。…着物越しの体温があたたかい。
 昨日の春の温度なら、ぬくいなんて感じなかった。あたたかいものから離れがたいなんて思わずにすんだ。
 なんで今日はこんな寒いんだ。もう四月なのに。
「寒いね」
 ぱらぱらと花見をする奴らがいる、桜だけが咲き誇る寂れた風景を眺めたまま、言葉が淡い桃色の花弁と一緒に俺の上に落ちてくる。
 ん、とぼやいて返して、肩を抱かれたままでいる。ぬくい温度から離れるメリットがない。
 気温は低いが、風は小さい。はらり、はらり、風に攫われることなくマイペースに落ちてくる花弁が視界を緩やかに舞う。
 隣にいるイケメンに桜はよく似合っていた。きっと絵になるんだろう。様になるんだろう。そんなことを思いながら、前髪に引っかかった桜をふっと吹き飛ばす。
 俺はあまり桜が好きじゃない。
 一年に一度しか花開かないし、すぐに散る。雨風に弱い。強くない。そんな存在が、好きじゃない。
 と初めて花見に行った日はまだ江戸は機能していた。人口は減り始めていたが、夜桜祭りなんてものもまだあった。祭り好きの俺としては、花見と祭り、一度で二度おいしいこの行事を逃すわけがない。
 祭りの経験が乏しいというを連れて出かけた。今行かないと次があるかどうか分からない。あるもんはあるで楽しむに限る。
 奇病が流行り始めた頃の江戸はまだ活気を残していた。
 祭りのための赤提灯。客を呼び込む声。行き交う人の明るい表情。破格だとは分かっていてもつい財布の紐が緩む独特の空気。屋台から漂う焼きそばやたこ焼き、その他祭りものの匂いは、店で嗅ぐのとはまた違った高揚感をもたらし、気分を向上させる。
 ひと通りの祭りの屋台を遊び方の手本を見せながら練り歩いた。
 狙った獲物は手加減なく仕留める俺だが、サメ釣りとか運任せのものだけは手本にならないスカを引いた。ティッシュボックス一箱というシケた景品を手に、これならも問題なくできるとやらせたところ、奴は特賞のでっかいテディベアを引き当てやがった。どうやらこの世界の神様ってもんはイケメンに運も持たせるらしい。
 特賞祝いでカランカランとベルが鳴らされる。
 でも抱えないとならないでっかいテディベア。男にテディベアなんて妙な組み合わせだったが、イケメンに似合わないものはなかった。それが特大テディベアだろうと、アイツはものにしてみせた。
 このままじゃ祭りの先輩として顔が立たないと、射的の屋台に目をつけ、ここでいいモンを獲ろうとムキになった。結構スッたが狙ってたもんを撃ち落とし、景品の音楽用スピーカーの箱を脇に抱え、どうだ、と鼻高く振り返る。
 は桜の木の下にいた。俺が他の屋台から景品としてぶんどったもんと特大テディベアの番をしながら桜を見上げていた。
 何かを憂うような横顔。黒曜の瞳を細くして桜を見上げながら、きれいだと瞳を緩めるわけでもなく、すぐ近くにあるものを遠くに見ているような眼差し。
 ライトアップされた夜桜は光の強さに負けて白く色を薄れさせていて、その場所に立つも、強い光のせいでいつもより色素が薄い。
 はらり、はらり、白い花弁が落ちてアイツの髪を、肩を彩る。
 桜の花を散らした羽織りを引っかけ、女顔負けの長い黒髪、背もすらりと高く、おまけにイケメンなアイツはその存在だけで人目を惹いていた。にも関わらず誰一人にも目を向けず、ぼんやりした心地で桜を見上げている。そういう絵の中の存在のように。
 ライトアップされた夜の中に浮かび上がる風景。絵になる眉目秀麗と夜桜。足元に転がるのはこの場に不似合いな景品達。それがまたこの風景を絵のようだと錯覚させる。
 が、このまま光に溶けて消えてしまうんじゃないか。
 ふっとよぎった考えに恐ろしくなって光を遮る位置に飛び込むと、そんな俺に驚いた顔を向けたが困ったように笑う。どうしたんだ、総悟、と。上手い言葉が見つからず、代わりにさっき獲ったスピーカーの入った箱を突き出すと、瞬いたがまた微笑う。
 総悟、すごいね。微笑んで俺を称賛する言葉に、鼻高くそうだろィと胸を張ればよかったのに、俺はそうしなかった。いや、できなかった。そんな余裕がなかった。
 向かい合っているはずが、俺達の間には見えない壁があって、世界を隔てている。俺はこっちでお前はそっちってなぐあいに。目の前にいるのに、遠いと感じる。
 卑怯なくらい綺麗な顔が微笑みを浮かべ、明日の雨で散ってしまうだろう桜の花弁をまた一つ纏った。
 震えた唇をぐっと引き結んでからびしっと荷物を指し、帰るぞ、と言うと、はあっさり頷いた。祭りという賑やかな空気が好きでなかったのか、興味がなかったのか、もう堪能したということなのか、訊かなかった。あるいは荷物がいっぱいで帰らないことにはどうしようもないと納得したのかもしれない。
 俺は桜からを引き離したかった。
 すぐに散る、そんなものが似合ってしまうが、嫌だった。
「腹減った」
 わざと空気を壊す発言をすると、が苦笑いを浮かべる。「食べてきたよ」「寒いせいでエネルギー消費が激しいんだよ」適当に言い返すと唇だけで笑われた。「何も持ってないんだ」「…知ってる」「もうちょっとで土方達が来るから」本気で腹が減ってるわけではないので適当に流そうとしたら、唇に指が当たった。睨み上げると、卑怯な微笑みがすぐ近くにある。
「口寂しいなら、キスしようか」
 黙っててもイケメンなのに、言うことがこれだ。卑怯にもほどがある。おまけに今は舞い散る桜というオプション付きだ。眠さと寒さと桜に機嫌が降下気味な俺だってぼやっとしてしまう。
 何も言えずにいると、唇を離れた指は肌を滑って顎にかかり、顔を上向かせる。
 黒曜の瞳の中に深い緑がちらちらと揺れている。
 羽織りの下で肩を抱く腕にされるがまま、身体をくっつけ、唇もくっつける。空気が冷たいせいか温度がよく分かる、沁みるような、あたたかいキスだった。