男料理とたくさんの酒を持ってやって来た真組と桂一派は、朝からさっそく酒瓶を開けた。一本、また一本と焼酎の空き瓶、ビールの缶が増えていくのを眺めつつ、グラスの中の透明な液体をゆらゆらと揺らす。
 酒に強いわけでもないし、弱いわけでもない。仕事や付き合いで飲んできたけど、酒に呑まれたことはまだない。
 二日酔いっていうのはどんな感じなのだろう。そもそも、どうしたらそんなになるまで飲めるのだろう。男料理のお好み焼きを食べつつ、すでに酔い潰れたちょんまげの人を見て考えてみる。無理に飲んだところでおいしくもないだろうし…俺は酒に酔ってふわふわした気持ちになるってことがない人間なのかもしれない。それはそれで、寂しいな。
 グラスを揺らしているだけの俺を隣の総悟が睨み上げてきた。遊んでないで飲めよ、と言いたそうだ。
 今日は起きてからずっとこんな感じで機嫌が悪そうだ。総悟はどうやら花見が好きではないらしい。
 まだ江戸が機能していた頃、夜桜祭りに連れて行ってもらったことがある。そこで祭りってものについてひと通り教わったけど……そういえば、あのときも、おしまいの方はこんな感じで機嫌が悪そうだった。
「総悟は、桜が嫌いなの?」
「…別に」
 ぼそぼそした声でぼやいたあと、総悟は閉口して、桜の木を睨み上げた。さっきよりも眉間に皺を刻んでいる。「すぐに散るだろ」「うん」「雨風にも弱い。一年に一回、春にしか咲かない」「うん」はらり、はらり。淡い花弁がゆっくりと落ちて、総悟の髪にくっついた。「でも、きれいだ」俺がそう言うと総悟は閉口した。そう思ってはいるみたいだ。じゃあ、どうして嫌なんだろうか。
 男料理の大雑把な大きさの具材が入ったちらし寿司をお椀にすくった。総悟にあげて、自分にも注ぐ。お好み焼きも食べたし、しゃもじ一杯、味見程度に。
 花見という席に上機嫌な人の声。その中で置いていかれている俺と総悟。
「桜のように生きたい」
 昔、そう言っていた女がいた。
「ハァ?」
「桜のように、咲くときはいっせいに、精一杯。散るときは潔く。そう言った人がいたんだ」
「……女の話なんて聞きたくねェ」
 機嫌の悪さに拍車のかかった低い声と、俺を睨む赤い瞳。ギリギリと力を込めてこっちを睨む瞳に笑いかけて総悟の手を取るとあたたかいことがよく分かる。今日は冷えたから、とくに。
「聞いてほしいんだ。総悟に。どうしても」
 お願い、と囁いて手の甲に唇を押しつける。
 総悟は不機嫌そうだったけど、俺のお願いを蹴ることはしなかった。
 総悟は俺には甘い。惚れた弱み、っていうやつだろう。その弱みにつけこむようで悪いなと思うけれど、総悟には、聞いてほしいと思っていた。桜を見る度に思い出す情景を。そして、受け入れてほしいと願っていた。
 総悟の長い茶髪に指を絡める。そうやって触れていないと今は少し不安だった。桜がきれいで、とてもきれいで、きれいに散っていくから、不安だった。
 無礼講の花見の場は酒の回った男達で盛り上がっている。普段は堅い土方がエリザベスと談笑している。泣き上戸、怒り上戸、そういった人達以外はみんなこの場を楽しんでいるのに、総悟も、俺も、そういう気分にはなれないでいる。もったいない話だ。
「俺は、夜の店に勤めていただろう。夜を一緒に過ごす仕事をしてた」
「…知ってる」
「ある日、若い子が俺を買った。個室のプランを指定して、ずっとこうしたかったって、俺に抱かれた。そこまではわりとよくある話で、聞いてほしいのはこの先」
「…で?」
 明らかに苛々している低い声での催促に苦笑いがこぼれる。
 本当に俺のことが好きだからの反応。総悟はプライドが高くて天邪鬼で、なかなか人に自分を見せない分、こだわったらまっすぐだ。過ぎたこと、もうどうしようもない過去にでも心を焦がして嫉妬の炎を燃やす。心が狭い、と言ったら身も蓋もないけれど、愛されているということがよく分かるから、俺はいいと思う。
 総悟がきちんとここにいる、ということを、口付けている手と髪を絡める指で意識しながら、言葉にする。あの情景を。
「その子、わざわざ茶葉を差し入れしてくれたんだ。おすすめなんです、ぜひ飲んでほしくて、って。そんなふうに言われると、その時間に出すお茶はその茶葉を使ったものになる。
 …何か、入っていたんだろう。睡眠剤のようなものが。事がすんで気が緩んだ途端、俺は布団の中で意識を飛ばした。気がついたのは、閉店時間を大幅にすぎても俺が来ないことを不審に思ったヘルプに起こされて、だった」
 ねぇ、その子、なんでそんなことをしたんだと思う? そう訊ねても総悟は唇を引き結んだまま口を開かなかった。眉間の皺はさっきより一段と険しく、俺を睨めつける赤い目は物騒な光を灯し始めている。
 本当に、もったいないくらい、俺のことが好きな子なんだ。総悟の俺に対しての頑なさを見る度にそう思う。
「その子の姿は部屋になかった。でも、外廊下に続く障子戸が少しだけ開いていたんだ。ということは、その子はそこから外へ出た可能性が高い。入り口から普通に出たなら店の中だし、誰も気がつかないってことはないはずだから。そのことに気がついた俺は、適当な着物に袖を通して帯を締めて、障子戸を、開けた」

 引き開けた先は、庭だった。塀に囲まれ外と区切られた庭はそう広くはなかったけど、それなりの日本庭園の形はしていた。とくに立派なのは桜の木だ。ここに店を構えたのはあの一本桜があったからだとマスターが言っていた、その木は花が咲いていた。七分咲きくらいにはなるだろうか。
 夜でも桜が様になるよう、淡い光でライトアップされた庭の桜木。
 そこにだらりとぶら下がる人の影。
 ヒイッ、と悲鳴を上げてみっともなく転んだヘルプは、動揺でおかしな動きで部屋を飛び出して人を呼びに行った。
 桜木で首を吊っていたのはさっき抱いた子だった。一緒に桜木を眺めて『桜のように生きたい』と語ったあの子だった。
 こういう仕事だ。逆恨みされることはあったし、手紙を送りつけられることはわりと頻繁。包丁やカミソリを送られたこともあるし、『私だけを愛して』といった脅迫文にも慣れていた。『あなたを殺します』とか『愛してくれないなら死にます』といった言葉に動揺する心はとうになくしていたし、実際そういった行動に出る人はいなかった。
 知る限りでその子が初めてだった。桜のように生きたいと語り、精一杯に咲いて潔く散りたいと言った、その言葉を再現してみせたのは。
 咲いたのは、俺に抱かれた夜。
 散ったのは、その命。
 俺に確実に見つけてもらうため、薬を盛って眠らせ、閉店時間になってもやってこない俺を誰かが起こしにくると算段し、自分を見つけやすい状況を作り、首を吊った。
 たまらなく俺が好きだから。その想いに耐え切れなかったから。
 さすがにあのときは放心した。俺を愛しているが故にその子は死んだのだということは、机に残されたたった一文の書き置き、『好きです』という、たったそれだけの言葉から、痛いほどに滲んでいた。

「俺への想いでそこまでしたのはその子が初めてだった。……俺が殺したようなものだ。さすがに堪えたよ。ついさっきまであたたかかった人間が、冷たくなっているんだ。俺のせいで」
 総悟の肌に唇をこすりつける。
 あたたかい人の温度に安心する。
 人の心を惑わす仕事だと理解していたつもりだ。俺は割り切っていた。『これは仕事だ』と。だけど、お客として来る人間がきちんと『これは夢だ』と理解していたかというとそうとは言えない。金がなければ買えない夢でも、現実にしたくて通い詰めた人も少なくない。そう知っている。
 俺は、最低な仕事をしていたんだ。
 総悟は生きている、ということを体温で確かめて一人安堵する俺はズルいんだろうな。
 最低だった自分の行いを反省しつつ、せめて総悟のことは大事にしなくちゃと思っていると、突然、わし、と頭を掴まれた。そのまま無理矢理総悟の胸に顔を押しつけるようにされて困惑する。「そーご?」こもった声で呼びかけても総悟は何も言わない。黙ってもう片手が俺の手を握った。自然と指を絡めている。握り返される手には意志がある。
「安心しろィ。俺なんか何人殺してきたか分かりゃしねェくらい汚れてんだ。人斬りだからな。…あと、が誰か殺してたとして、驚かねェし。それから、俺は確かにお前のこと好きだけど、好きすぎて死ぬってことはない。そんなの悔しいからな」
 饒舌な総悟がだから安心しろとくしゃくしゃと不器用に頭を撫でる。
 …そういえば、そうだったな。俺はそういうことに疎いけれど、総悟は違うんだ。人を斬ることにもう躊躇いはないんだ。自分のせいで誰かが死ぬということを知っているんだ。俺よりもずっとたくさん。
(そうか。そうだった)
 引きずっている情景を克服しようと思い切ってみたけれど、よかった。総悟は受け止めてくれた。
 俺は人殺し。総悟も人殺し。…うん。やっとそう思えそうだ。それでも生きていくということを自分の意志で選べそうだ。
「そーごは、どうして、桜が嫌いなんだい」
 俺は話したんだし今度は総悟の番だとこもった声で問うと、沈黙が返ってきた。相変わらず頭はくしゃくしゃと撫でられているけど。「…似合いすぎる」「え?」「お前に似合いすぎて怖い。そのまま一緒に散りそうで……だから、嫌だ」ぼそぼそとした声に笑ったら頭を叩かれた。痛い。
(一緒に散りそう、って。俺はそんなに儚い人間ではないよ。夜の店で強かに生きてきた、それだけの)
 ワイワイガヤガヤ。擬音で表現するとそんな感じに賑わっている空気の中、着物に埋まっていた顔を上げる。総悟はまだ俺を睨む目つきだったけど、眉間の皺は随分少なくなった。
「そーご」
「なんだよ」
「俺達二人とも、桜に先入観みたいなものがある。それをなくそう。桜を見る度に憂鬱になるなんて嫌だろう? 花見を楽しめるようになりたいじゃないか」
「…どうやって?」
 言いながら、気がついているんだろう、総悟の目が辺りを窺っていた。自分から俺を抱き寄せたくせに今頃人の目を気にしている。そんな総悟をかわいいと思い、いじめたいな、と思う。
「イイコト、しよう?」
 囁いた俺に、赤い瞳が完全に逃げた。俺の手を握る力が惑ったように緩くなる。
 お互いの桜に対するイメージを克服するため、桜を見ながら外でプレイ。なかなか刺激的だ。幕府に追われる身であることを考えると避けた方がいいことなんだろうけど、今日くらいは、無礼講ということで。
 ゆるりと立ち上がって手を引くと、総悟は抵抗なく俺に続いた。照れているのか俯いた視線の総悟を横目にエリザベスと盛り上がる土方に片手を振る。「土方ぁ」「あん? なんだ」「俺と総悟は離脱するので、あとはヨロシク」結構飲んでるのか、酒で顔を赤くしている土方は深くツッコまずに「あー勝手にしろ」と手を振った。
 真組と桂一派で賑やかな花見の席を離れると、あとはポツポツと花見をしている家族や集団がいるだけの、寂しい桜木広場が広がる。本来ならここに屋台が立ち並ぶところなんだろうけど、白詛の影響で、江戸は変わってしまったから。
 人のいない小さめの桜木と、適当に茂みのある場所を見つけた。総悟の手を離して羽織りを脱ぎ、地面の上に敷く。半分のスペースを残して羽織りの上に座って、手を差し伸べると、総悟の手がそろりと俺に触れる。
「嫌だ?」
 総悟の指一本一本を味わうようにゆっくりと自分の指を絡め、微笑んで問うと、ふるふる首を振られた。総悟の赤い瞳から最後の迷いが消える。
 ざわりと冷たい風が吹いた。総悟の長い髪が揺れて、桜吹雪が舞った。そういうドラマのワンシーンみたいに。
 泣き出しそうだと思うほど潤んだ瞳と物言いたげな顔と、キスをして、指を絡めて、抱き合って、淡い桃色の花弁が舞う中、お互いを求めて、俺達は肌を重ねる。