高校三年になろうかというある春の夜に、ただ一人の家族だった姉が死んだ。過労だった。
 もともと身体がそう強くはないのに、両親が死んでからというもの、自分と俺を食わしていくために働き続けていた。そんな無理を何年も続けていた。
 俺も自分の食費や携帯代くらいは払おうと部活なんかには入らずバイトをしてはいたが、まだ未成年で、社会人じゃない。姉のように働くことはできなかったし、高校生というものを捨てればそれも可能だったが、他ならぬ姉が反対した。それは高校を卒業してからにしなさい、と。
 姉にとっては、高校生活は人生で最後の遊べる時間だと捉えていたのだろう。実際、俺もそうだと理解していた。
 高校を出たら働くつもりだったけど、その前に、姉に限界がきてしまった。

「………無理しすぎだ姉さん。それで死んでちゃ、意味ないだろ」

 思わずぼやいて、目の前の物言わぬ墓石を束の間眺め、止めていた手を動かす。
 沖田の墓石に買ってきた花を添え、水をやり、辛い物好きの姉がとくに愛用していたタバスコと、生きていたらきっと喜んでいただろうデスソースを供える。
 線香の香りは否が応でも気持ちを湿っぽくさせるから嫌いだ。
 姉は残り一年、俺が高校を卒業できるようにと貯めた金を遺してくれていたが……それはすべて姉の葬儀代につぎ込んだ。
 早々に死んでいった両親に代わり俺を育ててくれた姉は、誰にでも優しく、友と呼べる人も多い。その最後の別れを味気ないものですませるほど俺は薄情にはなれなかった。俺のためにと遺した金がなくなろうと、最期くらいは華やかに送ってやりたかった。

「高校は辞めてきたよ。無駄に金を払う余裕、ないし」

 寒風が吹く沖田家の墓の前で膝をつき、今は両親と姉の骨がある場所を撫でる。
 墓石に温度はない。かけた水の冷たさばかりが肌に沁みる。
 他に誰の姿もないのをいいことに、ひっそりと泣いた。
 頼れるような親戚はない。高校生、姉が言ったとおりに馬鹿もしてきたが、親友と呼べるような奴もいない。
 俺はこの世に一人きりになってしまった。
 姉を見送るために使ったから金はもうないに等しい。高校は辞めたし、家賃や光熱費の引き落としが滞るのも時間の問題だろう。……早々に逃げる準備をしないとならない。まずはブランド物とか売れる物はすべて売り飛ばして金を作って、口座も空っぽに。それから。

(今年で18……。その歳でホームレスとか、ほんと、笑えねぇ)

 だが、嘆くことだけはしないと決めていた。
 この涙は姉への涙であって、未来を憂いて流したものではない。そうでなければ過労死までして働き続けた姉に申し訳が立たない。
 ホームレスだろうがなんだろうが生きていってやるさ。生き汚く、意地汚く。
 捨てる神あれば拾う神あり、という言葉がある。
 事実、俺を取り巻く場所にいた神とやらは俺から姉を取り上げ俺を捨て置いたが、次に現れた神は俺を拾うことを選んだ。
 家出人だと間違われないよう(実際それは事実なわけだが)リュックは背中に背負えるもの一つにし、踏み倒すつもりの家賃や光熱費その他のことを考え、居所がバレそうな携帯は処分した。おかげでできることといえば氏名の問われないこと…コンビニで雑誌を立ち読みするとか、古本屋に行くとか。無駄にある時間をどう潰すかが今の課題だ。
 ホームレスな生活を始めて、各地を転々とし始めて、これで一ヶ月になる。
 これから陽射しは本格的にあたたかくなり、春が来るだろう。寒さに凍えることはこの先はあまり考えなくていい。凍死はしないよう寝袋だけはいいものを購入したし、この先も、これと場所さえあれば寝て起きるのはどうにかなる。
 昼間、することがあるわけでもなく、携帯で暇も潰せない俺はとある公園の芝生に寝転んでリュックを枕にして日向ぼっこをしていた。
 そこへやってきたのが、俺を拾うことになる神だ。

「ふう」

 わりと近いところで他人の息遣いがして視線を投げると、コンビニ弁当を膝に置いてじっと見つめているイケメンが一人。
 白い肌にはトラブルが一つもなく、俯けた視線は睫毛の長さが目につき、染めたことがないような黒髪は濡鴉のように艶やかだ。左目の下の泣きぼくろがその憂いた顔を一段と彩っている。
 遠目から見れば女とも見まがうような整った顔立ち。
 そんなイケメンが、うまくないのか、半分ほど手をつけただけであとは箸を置いて弁当に蓋をする。もったいねぇ。
 じっと見ていると、視線に気付いたらしい相手が顔を上げた。イケメンの背後でひらりと桜の花びらが舞う。イケメンっていうのは自然の花びらさえ味方につけるらしい。

「これ、食べる? もういらないんだ」
「……いいのかよ」
「食べかけでよければ、どうぞ」

 はい、と躊躇なく差し出された弁当を迷わず掴んでがっついて食った。梅干し。白い飯。残されていたかぼちゃの煮つけとすき焼きと。腐ってない飯だ。うまい。
 そんな俺を観察するように眺めていたイケメンは、物のよさそうなカーディガンが汚れることも厭わず芝生に寝転んだ。「おいしい?」「…別に」こんだけがっついて食っといてなんだけど、コンビニ弁当の味だ。久しぶりにまともなものを食ったからうまく感じるだけ。
 弁当を空にした俺に、イケメンは手にしていたお茶のボトルも転がしてきた。「どうぞ」「………」転がってきたボトルを掴んで久しぶりの茶を存分に飲む。ずっと公園の錆っぽい水ばかり飲んでた。なんの変哲もない茶だがうまい。
 イケメンはそのまま眠りそうなくらい無防備な姿を晒していたが、散歩だろう、誰かの足音が聞こえてくると同時にポケットからマスクを引っぱり出し、サングラスまでする。
 コイツ、有名人なのか? そんなことを思いつつ俺は茶のボトルを空にした。
 カップルが手を繋いでくっつきながら通り過ぎる(桜を見ながらのデートだろう。昼間から鬱陶しい)のを横目に見ていると、イケメンが吐息してサングラスを上げた。周囲に誰もいないことを確認するとマスクも外す。
 それで、俺が空にしたボトルと弁当の容器をビニール袋に入れながら「キミ、家がないの?」と何気ない日常会話みたいな感じで訊ねられたときには息が詰まった。「はぁ?」どうにか声を絞り出す俺に、イケメンは公園を見下ろす場所にある高級マンションを指して「俺はあそこに住んでるんだけど。最近キミがこの公園にいるの、知ってるんだ」………その若さで高級マンション住まいかよ。容姿にも環境にも恵まれたイケメンとかクソ食らえ。
 思うだけ思ってイケメンから顔を逸らす。

「だったら? アンタに何か関係あるのかよ」

 それとも脅すつもりか。警察に連絡するぞ、って?
 一回その手口でヤらせろと言ってきたクソ親父がいてボコボコにしてやったけど。イケメンでも性根は腐ってるとかか?
 サラサラと黒い髪を揺らしたイケメンは小首を傾げて「料理、できる?」と訊いてくる。
 ……会話が飛躍しすぎだろう。なんの話だ。
 俺は仕事で忙しい姉に代わって家事全般をしてた。料理は普通のものが普通に作れるレベルだ。得意とも言えないが、苦手、でもない。
 なら料理ができるって答えてもおかしくはないだろうと思い、浅く頷く。すると今度は「じゃあ家事は?」と訊いてくる。「できる…けど」なんなんだ、さっきから。
 イケメンはその面を最大限活かした微笑を浮かべると(舞い散る桜というオプションつきで)、こちらへと手を差し伸べてくる。

「俺は家事も炊事もできなくてね。だけど家政婦さんを雇うといつも面倒なことになるから、家政夫さんを探していたんだ。キミ、なってみる気、ある?」

 どうやらこのイケメンは俺をスカウトにきたらしい。最近はこの公園に通っていたし、暇そうにしている俺をマンションのバルコニー辺りから眺めてたんだろう。
 ………今の情報を整理するに、だ。
 コイツは一人暮らしで、身の回りの世話をする女以外の人手を探していた。それで暇そうな俺に弁当とお茶片手に打診にきた。
 俺に家がない、金もないだろうということには気付かれている。
 仕事の話はありがたいが、足元を見られるかもしれない。いざ行ってみたらヤバい組織の人間とか、東京ではありそうな話だ。
 イケメンの些細な変化も見逃すまいとその面を凝視しながら、慎重に、「住み込みか?」それくらいでないとやる気はないぞという意思を示すと、相手はあっさり頷いた。「住んでいい。暮らすのに必要なものは買ってあげよう。お給料も出すよ」「…………」答えない俺に、イケメンがさらに首を傾げている。何か不満なのか…ということではなく、どうかな、とこちらの反応を待っている。

(高級マンションに住み込みで家政夫の仕事。しかも給料が出るだと? そんな、馬鹿な話、ありえるのか)

 ぼんやりと頭の中に姉が浮かんだ。捨てる神あれば拾う神ありよ、そーちゃん。あの人の口癖だった。
 ………これで堕ちるなら、どこまでだって堕ちてやる。どうにでもなれだ。
 俺が「やる」とぼやくと、相手は淡く微笑んだ。マスク、サングラスをし直すと「じゃあおいで」と立ち上がる、その足が長い。顔だけじゃなくすべての造形美に恵まれてるらしい。
 俺だって高校のときはそれなりにモテた方だが、この野郎には及ばないな。そんなことを思いながらその手が誘うままに高級マンションへと歩みを進めるのだった。