ばさ、と布が落ちる音で目が覚めた。 まだ若干ぼやけた視界のまま音の原因を探して自然と視線がさまよい、落ちている着物を見つける。そばにあるすらりとした足も。そのまま視線を上に持っていくと、バスタオルを腰に巻いただけの格好のの背中が見えた。風呂でもすませたのか男にしては細い肢体からはほんのりと石鹸の香りがして、長い黒髪は濡れたまま背中に流されてぽたりと雫を落としている。 傷跡のない背中に唯一ある傷。俺が引っ掻いた痕。 朝っぱらから煽ってんのかこの野郎。 布団に手をついて、起きようとして、失敗した。ぼさっと枕に突っ伏した俺に気付いたが長髪を首辺りで緩く一つにしながら寄ってくる。 「腰平気?」 何も言わずに突っ伏したままでいると、はは、と笑った声のあと優しく頭を撫でられた。肩甲骨辺りまで伸びた自分の髪がさわさわと背中をくすぐる。 畳が僅かに軋む音がして、風呂に入ったせいでいつもより高い温度が背中に触れて、寝起きの身体の方が醒めた。悪い意味で。「お風呂入れてあげようか? お湯残ってるんだ」耳元で笑った声が、吐息が、肌を疼かせる。 相変わらず艶と色香のある声で人のこと誘惑してきやがる。ずりィ。 何も言わず手を突き出した俺に、イエスだと受け取ったが俺の腕を取って立たせた。裸を隠すこともせず開き直ることには慣れたが、身体を舐める視線の熱さにはまだ慣れない。 「…なんだよ」 言いたいことがあるなら言えと睨んでも「別に?」とすっとぼけられるだけで答えやしない。 それでもやることはやる。石鹸で泡立てたタオルで足の爪先から首まで全部きれいにしてくれる。髪も洗ってくれる。何もしないでいい。楽だ。目を閉じて湯船に浸かってるだけで勝手にきれいになる。 なんて怠惰、と自分を嘲笑うと、唇にやわらかい感触。薄目を開けると湯煙を乗っけたように艶のある睫毛があって、キスだと気付く。 触れるだけですぐに離れた唇が卑怯だと思うくらいにきれいに笑っている。 こつん、と額に額をぶつけられて、濡れた前髪がはりついて邪魔をする視界を細める。 相変わらず。何でもパーツ整ってて、何させても様になって、ムカつくくらい、きれいな顔だ。 「総悟さぁ、色っぽくなったよね」 「ハァ?」 しみじみとした口調で何を言うかと思えば。 それをお前に言われたくはない、と思った。二十代半ばに突入して相も変わらずモテまくって、無駄に俺に嫉妬の炎を燃やさせるお前が、それを、言うのか。それとも何か、嫌味か。確かに俺もモテてた口だよ。真選組だった頃は。今は幕府に仇なす人斬り沖田総悟だ。罪人を想って慕っている女なんてのはそういない。その意味で言っても俺はもうモテるとかいう現象とは関係ないし、今はその方が都合がいい。 問題は俺がどうこうというよりお前がどうこうってことだ。お前に色目を使う女が多すぎて、そろそろ女の一人や二人闇討ちしちまうかもしれないくらい我慢の限界がきている。 俺の胸の内を知ってか知らずか、はきれいな顔で微笑んで俺の手の甲に唇を寄せている。 ……あの頃。まだ世界に白詛なんていう病気が蔓延する前の、俺がまだ真選組だった頃の、平和な時代。死に絶える貧乏人か、金を叩いて地球を捨てる奴か、治安の緩みを利用するろくでもない連中か、尻尾巻いて逃げ出すのが性に合わない奴らかに別れる前。 小さな問題はあれど、それなりに平和で、これからも同じような日々と時間を繰り返すのだろうと疑っていなかった頃。胸をきゅうっと締めつけて切なくさせる夜とセックスを繰り返して、これはこれでいいのかもしれないと、を金で買ってることに満足していた頃。 考えもしなかった。が俺のために死のウイルスが蔓延する地球に残ると決めたことも。アイツが誰かを抱かずに俺だけを抱く未来が来ることも。 ちゅう、と肌を吸った音に官能ってやつが刺激された。身体の芯から生まれた衝動に片目を瞑って耐える。 なんだよ、朝っぱらから。やっぱ煽ってるのか。 睨みつける俺にくすりと笑って「髪が伸びたせいかな。すごくソソられるんだ」平気でそんなことを言って甘い口付けをあちこちに繰り返す見慣れた裸体に目を眇める。…駄目だな、ぼやけてきた。俺はまだ眠いし、腰は痛いし、どんだけ煽られても今日は無理だ。あんまり色ボケてると土方の野郎がうるさい。 腕を突っぱねてキスを遮った俺に、相手は残念と眉尻を下げただけであっさり引き下がった。 そういうところがまた気に入らない。 どうしても俺が抱きたいっていうんなら無理強いするくらいしてみせろよ。それくらいこだわってみせろよ。俺ばっかりいつもいつもねだったり縋ったり嫉妬したりで、本当に、腹が立つ。そのおきれいな顔を一度くらい俺のために歪めてみせろ。そうでないと、いい加減不公平だ。 ダルい腰を叩きながら刀片手に指定の集会場、というかただの廃屋に顔を出すと、誠組と桂一派が顔を揃えていた。そこへ単独行動、というかと二人行動のみしてきた俺達が加わって、過激攘夷派の筆頭、幕府に揃って仇なす輩が一同に顔を揃えたことになる。 今日はこのメンバーが同盟を結ぶっていうそれなりに大事な日らしい。 俺としちゃ土方の野郎は気に入らねェし、エリザベスとかいうあのバケモノも気に入らねェが、ヘマして幕府にとっ捕まった近藤さんのためだ。あの人には恩がある。まだ返せてねェ。このまま処刑になんざ持ち込まれちゃたまらない。近藤さん救出のためには、気に入らない野郎とも手を組む必要がある。 「揃ったようだな」 代表して土方が立ち上がり、わざわざ用意したのか、文を広げて朗読し始める。…アホくさい。形なんざどうでもいいだろうに。 胡座をかいて頬杖をつき、隣に視線を投げる。はいたって普通の外向けのすまし顔で日本茶をすすっている。自分が過激攘夷派の一員になっていることに戸惑っている様子もない。たまには惑えばいいのに。 最も、は戦えないし、刀なんて握れない。頭は少しはいいかもしれないが策士なんかしたこともないから無謀だし、ほとんど役に立たない。俺のそばにいるだけだ。…本当にそれだけだ。 それでも、どうしようもなく追い込まれて気合いで乗り切らないとならないとき、が遠くからでも俺のことを応援すれば、やる気は出る。やべェなと思ったときでも、丸腰のが俺のために戦場に一歩踏み込んだのを見たら、嫌でも身体は動く。 俺専用の活力剤というか、起爆剤というか。の立ち位置はそんな感じだ。 「で、総悟」 「あ?」 いつの間にか挨拶の口上は終わっていたらしい。じろりと視線を投げると土方の野郎が「幕府の牢っつうのはどういう感じだったんだ。この中で実際見たのはお前だけだ。こっちでもう一度奪還作戦を練るから参考までに教えろ」命令口調にちっと舌打ちしてすっくと立ち上がりかけ、まだ身体に上手く力が入らなくてぐらついた。ぼす、とにしがみつく形で何とか転ばずにすむ。…すげェカッコ悪ぃ。 それもこれものせいだ。昨日のあのもう一回のせいだ、絶対。あれで腰がおかしくなった。 「あー、悪い」 「大丈夫?」 腰をなぞる手にぞわっとして、振り払うようにして今度こそ立ち上がり、呆れ顔をしている土方のところまでずんずん歩いて行く。「寝起きかよ」「うるせェ」眠いのもあるが身体がすこぶるダルい。これが終わったら寝る。俺は寝る。 土方の言うとおり、一度、個人的に幕府の牢屋を襲撃したが、案外と中が広くて迷いかけて途中で断念した。どうせすし詰めで牢の中にいるんだろうと勝手に想像してたが、隊舎とは格が違う牢屋だった。恐らく地下に何層にも分かれている。短時間で、追手のことを考えるなら、一人で何度も突っ込める場所ではないし、深くまで潜って戻れなかったら自滅だ。 俺が一度突っ込んだから警備は厳しくなってるだろうが、それでも桂一派と誠組の決起一発目の作戦として突っ込むというのなら、止める義理はない。 あの辺りの情報はさすがに流れてこない。かといって幕府関係の人間に近づくのは得策じゃない。元真選組ともともと追われている桂一派とだけあってほぼ全員顔は割れているのだ。そういう役をこなせるとしたら…。 横目で確認すると、はのんびりマイペースにお茶菓子のまんじゅうを食べていた。 細長い指で摘まれたかわいいサイズの花のまんじゅうが、控えめに開けられた口の中に何度かに分かれて消えていく。 指についた餡をぺろりと舐める舌の動きと、眉目秀麗の伏し目がちの瞳に、その存在全部に心が奪われて、今自分が何をしているのかもどこにいるのかも忘れて無意識に唾を飲み込んだ。 図ったようなタイミングでさらりと肩を滑り落ちた女顔負けの黒い髪が光を受けて艶を放つ。 キスが、したい。唇が腫れぼったくなるくらいに。深い緑色を潜ませる黒い瞳と目を合わせたままずっとキスしていたい。その視線一つで火傷するくらいに熱くなる身体で心逝くまでキスを。 「おい総悟」 「、」 呼ばれて、びくんと身体が跳ねた。「あ?」動揺を悟られないように顰め面で顔を向けたつもりだが、土方は呆れ顔で俺を見ていた。「お前大丈夫か」「…うるせ」盛大にそっぽを向いて腕を組む。 一瞬で全部忘れてしまった。今の状況もこの場所のことも全部忘れて妄想に耽るとは。 (そんなの、俺が俺に言いてェよ) 知っていることは伝え、下手くそだったが憶えている限りの図面を描く。確かこんなだった…気はするが、あくまで俺の視点で見た話で、情報を統括するような暇も時間もなかったから間違っている可能性もある。そのことを説明して、やっとお役御免での隣に戻る。 「おかえり」 こっちを見上げる瞳に無言で胡座をかいて座布団の上に座り込み、垂れてきた長い髪を背中に払う。お前のせいで危うく失態を晒すところだったと涼しい顔に毒づきたい。 隣にいる人間と、俺と、何がこうも違うんだろう。 同じ人間で同じ男なのに、決定的に何かが違う。身体を構成する細胞一つ一つが違うって言ってもいいくらいに全然違う。俺にはみたいな色香なんてないし、誘ってるのかと思うような艶のある仕種を自然にやってのけることもできない。 (別に、みたいになりたいとかじゃない。俺はただ、コイツに翻弄される自分をもう少しでも御したくて) 八つ当たり気味にもしゃっと一口でまんじゅうを食ってやった。とくに美味くはない。その辺の団子屋の味だ。「総悟」「ん」口がいっぱいで喋れないのでなんだよと顔を向けるとおしぼりで口元を拭われた。ナチュラルにそういうことをされると照れが遅れてやってくる。ぷいっと思いきり顔を逸らして湯のみを掴み、ずぞぞ、と日本茶をすする。 (おい、どうすんだ。こっち見てる野郎が何人かいるぞ。なんだあれって顔してるぞ) 睨み上げたところではやわらかい大人の微笑を浮かべているだけで、他人の視線なんか意に介さない。 …俺の度胸が足りないってことかと一人唇を噛んで日本茶をすする。 ようやく集会が解散になったので、ダルい身体を引きずるようにして現在の居住区に戻り、コンクリート打ちっぱなしの建物の四階へ。 かろうじて施設が生きているからガスも水道も電気も問題ない。 その辺から適当に家具を集めてきて、休憩所なんだろう畳の和室を寝室みたいに改造して暮らし始めて、そろそろ三ヶ月になる。 好きな相手と過ごす時間というのは、たとえ逃亡生活でも、どこか甘かった。 寝ても覚めてもシュガースティックでもかじってるみたいなほんのりとした甘さがあって、相手より先に目が覚めてその寝顔を拝めるだけで口の中が甘くなる。笑いかけられると思考がぎこちなくなる。手を取られると必要以上に体温を意識して、口の中の甘さが一段階増して、キスされると頭の中の全てがストップして、もう一段階甘くなる。 「ん…ッ」 顔を上向かせられたと思ったら舌を捩じ込むキスをされて、中途半端に寝転がった姿勢のまま抵抗しようと手首を掴んだ。力なら俺の方がある、と引き剥がしたものの、手を引き剥がしに両手を使ったら顔は掴めないわけだ。離せない。 くちゅ、とわざと粘着質な音を響かせて口内を刺激してくる舌の感触に、あっという間に身体が昂っていく。 荒っぽい方法に出るなら突き飛ばすなりなんなりできる、が。俺はそこまでしてこの舌を引き離したいのだろうか? 昼間一瞬だったといえど欲情した自分の囁く声がする。 たとえ数瞬でも、迷っている間に腰の辺りがどんどん熱くなる。あとは腹の奥の方。 このまま続けていたら俺がマズいことになるだけだと、やっと突き放して、唾液の伝っている口元を着物の袖で拭う。「人が、寝ようってときに」「うん、ごめん。どうしてもキスがしたくて」ふわりと笑った顔に言葉に詰まってからそっぽを向き、布団を掴んで頭まで被った。 心臓がいっそ止まれと思うくらいうるさい。このまま破裂しそうだ。 「総悟。髪を解かないとあとになるよ」 布団を掴んでいる手に触れた指を無意識に意識する。ゆるりと頭を撫でた手が長い髪を結っている紐を解いてさらっていく。 朝思ったことは撤回する。無理強いなんてされたら俺は蹴れないで流されてそのまま抱かれるだろう。突然キスなんて仕掛けられたら甘い色香に酔わされてあっという間にふらふらだ。 今までどおりでいい。俺がねだったり縋ったり嫉妬して、手を繋いだりキスをしたりする方向でいい。そうでないと、俺が、もたない。 (くそ) 燃えてるのかと思うほど熱い顔を掌で覆う。 眠ると宣言したからには寝たいのに、布団の向こうでがどうしているのかが気になってなかなか寝つけず、そんな自分がすこぶる馬鹿だと思った。 |