幸福論

 そーちゃん、と懐かしい声に呼ばれて足を止めると、ぼんやりとした江戸の景色の中に姉上が立っていた。陽炎のようにゆらゆらと揺れる姉上があまりに頼りなくて思わず駆け寄ると、あたたかい掌が俺の頭を撫でた。向けられるやわらかい微笑。その懐かしさに涙が滲みそうになって唇を噛む。
 姉上に言いたいと思っていたことがたくさんある。
 俺、好きな人ができたんだよ。好きなんて表現じゃ生ぬるいくらい、憎いくらい想う相手ができたんだ。苛々させられることも多いけど、本当に好きだから、結局全部許してるんだ。俺がいるのに誰かのこと誘惑したりとか、抱いたりとか、殺してやりたいって思うようなことをする奴なんだけど。それでも好きなんだ。そんな自分が甘いって思う。
 あと、真選組をやめたんだ。近藤さんがヘマして捕まって。そんな幕府ならいらないってみんなで離反してさ。
 ゆらゆら頼りない姉は一生懸命喋る俺ににこにこ笑顔で問いかける。
 ねぇそーちゃん、今、幸せ? と。
 少し考えて、幸せだよ、と返した。あの頃と様変わりした江戸には死の病が横行しているし、幕府には追われるし、近藤さんはまだ取り戻せていないけど。アイツがそばにいるから。
 総悟、と呼ぶ声にぱっと顔を向けると長い髪が視界を舞った。
 姉上が知っている俺は18までの俺で、そこで止まっている。髪なんて長くないし人斬りの姿だって知らない。
 赤い着物に白い袴、伸ばした髪を結わえた姿でさっきまでそばにいたはずの姉を探すけど、見つからなかった。ついさっきまで天人と人が往来していた江戸の風景は荒廃したコンクリートジャングルと母屋の廃れた景色に変わっている。
 ぼんやりしていた姉上と違い、相変わらず綺麗な微笑を浮かべてこっちに手を差し伸べる姿に、躊躇って、視線はまだ姉を捜す。
 行くよ。短く一言でゆるりと歩き出した後ろ姿に気持ちが焦った。
 さっきまでいた姉を見つけたい。アイツに置いていかれたくない。
 まだ姉を探したい。アイツを追いかけたい。
 迷った足に、とん、と誰かに背中を押されて一歩二歩踏み出して振り返る。ぼんやりした手がすうっと空気に溶けて消えた。
 おいきなさいという姉の声が頭の中にじんわりと広がった気がして、それで全てが伝わった気がして、走る。
 遠くなっていく背中にがむしゃらに腕を伸ばしてその手を捕まえようとして、
 ぱし、という音で意識が醒めた。
 ぼやけた視界で瞬いて目を凝らすと、不思議そうにこっちを見下ろすがいた。外から淡く夜の人工的な光が射し込んで相変わらずの綺麗な顔を幻想的に彩っている。
「総悟?」
「…、」
 声を出そうとして咳き込むと、困ったように眉尻を下げたがしゃがみ込んで俺の前髪を長い指で緩く払う。「別に、手握ってなくてもどこにも行かないけど」と言われて、握っていたらしい手の感触を確かめ、離した。
 夢のままに遠ざかる背中に、届いたんだ。じゃあ、よかった。
 懐かしい姉の声と笑顔を思い出してぼんやりしていると、口に体温計を突っ込まれた。額からタオルを取り上げた手が指先で肌を撫でてくる。「…なんだよ」ガラガラの声を絞り出す俺に曖昧に笑った唇は何も言わなかった。ただの風邪だっていうのに、変な顔してる。
 ヘマをして川に落ちて、濡れたまま幕府の連中を誅して、帰ってきた頃には風邪を引いていた。これで丸一日寝てるがあまりよくなってない。
 目を開けてるのも億劫で、ぼんやりしてる意識で瞼を下ろす。冷たいタオルで火照った顔を拭われる。額にのせられたタオルも冷たい。熱いからちょうどいい。
「何か食べないと。食べれそうなものない?」
 気遣わしげな声に、冷たいもの、が思い浮かんだ。とにかく身体が熱いから冷やしたい。「あいす」ぼやいた俺に「分かった」とこぼした声が衣擦れの音を立てて遠ざかる。伸ばした手は届かず、中途半端に空気を掴んで布団の上に落ちた。
(手なんか握ってなくても、どこも行かないって、言ったくせに)
 夜の闇の中に遠ざかる背中を霞む視界で睨みつけ、諦めた。
 俺のために買い出しに出る相手に何を思ってるんだか。馬鹿みてェ。
 …そう思っても、夢の中でも遠ざかっていった背中がチクチクと意識を刺してくる。
 気付いたら意識を落としてたらしく、口からぽろりと落ちた体温計を億劫な手つきでつまんでかざす。睨みつけて、38.2という数字に呆れて目を閉じた。一日寝てたっていうのにあまり下がってない。せめて37度台になればもう少し動けるものを。
「…、?」
 ガラガラの声で呼んでみるが、返事はない。
 指先を動かすだけでもダルい身体で億劫な手を伸ばして布団を掴み、引き剥がして、のろりと起き上がる。打ち捨てられた民家の二階を陣取って暮らし始めて半年。すっかり見慣れた狭くて埃っぽい部屋にアイツの姿はない。
(たかがアイス買ってくるだけだろう。何してんだアイツ)
 枕元に置いてあった刀を掴んで、袴を穿くのも面倒で、白っぽい浴衣のまま引きずるような足で部屋を出て、一階へ。誰の気配もない闇に沈んだ台所と居間を霞んだ視界で睨みつけ、草履を履いて外に出る。
 ふらふらと夢遊病者みたいに頼りない足取りと意識で歩きながらアイツを捜した。
 出せる限りの声での名を呼んで、一番可能性のある近場のスーパーを捜したが見つからなかった。
 じわり、と背中に嫌な汗をかく。
 まるであのときみたいだ。
 白詛による死人がわっと出た江戸で、無事を確認しようと走っていった先の店ががらんどうだった。休みなのかと思って長屋のの部屋に行っても出てこないし、扉を蹴破っても中にいなかった。その現実に背中に嫌な汗をかいた。まさか俺の知らないところで白詛にかかって死んでんじゃ、と最悪の想像すらした。
 大好きだった姉がいってしまったように、アイツもいってしまうんじゃないか。
 この世界は俺からまた好きな人を奪っていくんじゃないか。大事な人を攫っていくんじゃないか。
 焦って捜して、捜して、とにかく捜して、間延びした総悟と呼ぶ声が聞こえた気がして隊舎の門戸をバズーカで吹き飛ばしたらアイツがいた。いたっていつも通りにお綺麗なままで気怠そうに顔を上げた。ただの入れ違いだった。そう分かって泣きそうなほど安堵した。

 ガラガラの声で呼んで、角を曲がって、飛び出してきたバイクのブオンブオンと耳にうるさい音に立ち止まる。柄を握って鞘を払い落とし、無造作に構えて、うるさいバイクで俺を囲んでいるチンピラ共を睨みつける。
 問答無用でバイクを粉々にして、チンピラらしく逃げていった阿呆を追うだけの気力もなく、鞘を掴んで刀を押し込み、再び歩き出す。
 ただでさえ赤ゲージの体力がもう底を尽こうとしている。このまま単独で捜したところで見つからない。頼るのは癪だが、仕方がない。
 誠組が寝床にしている隠れ家に行くと、見慣れた下駄を見つけた。の下駄だ。
「ありがとう土方。これで総悟がよくなるといいんだけど」
「ったく世話が焼ける。あんま馬鹿しないようお前からも言い聞かせろよ」
 聞こえた声にのろりと顔を上げると、光の漏れる襖戸が開いて、捜していた姿が暗い廊下の中に立った。土方に向かってひらりと手を振り、玄関であるこっちに顔を向けると驚いたようにビニール袋を落とした。中からアイスのカップや冷えピタの箱が転がる。
(ああ、なんだ。いた。よかった)
 力尽きた身体でがくんと膝をついて石畳に膝頭を打ちつける。熱でぼやけた身体はその痛みの半分ほどしか伝えてこない。「総悟っ? なんで」慌てたように駆け寄ってくるを睨むだけの気力もなく、ぽた、と音を立てて石畳に落ちた雫を眺める。…目から汗が出てやがる。
 ムカつくな。本当、ムカつくな。なんで俺がこんなに必死にならないといけないんだよ。風邪で38度熱があるんだぞ。もっと俺を大事にしろよ。どこにも行かないって自分で言ったんだろ。だったらそれを守って、そばに、いろよ。
 次に気がついたときは昼だった。どうやらまた気を失ったらしい。
 そんな自分に呆れて息を吐いて、手を伸ばす。捜していた体温はすぐそばでうたた寝していた。布団も被らないで、俺の横で『銃器の扱い方』なんて本を読みながら目が覚めるのを待ってたんだろうか。もしかしたら寝ないで俺の面倒でも看ていたのかもしれない、っていうのは自惚れか。
 伸ばした手で表情を隠す黒い髪を払い、頬に手を添える。少しはマシなダルさになった身体で起き上がり、布団に手をついて、無防備に寝こけている綺麗な顔を見つめてから唇を寄せた。
 ぱらぱらと顔にかかる髪が随分長くなった。これでそろそろ五年だろうか。
 最初は幕府に追われるようになった身で散髪屋なんて行けねェしという理由で髪をそのままにしていた。でも、髪が伸びた俺を見て、長い方が好き、似合ってると歯が浮くような台詞を繰り返すに、それで少しでもアイツにとっての俺の魅力というのが増すのなら、と髪を伸ばし続けて、もう五年目。
 馬鹿みたいだろ。もう五年も一緒にいる。呆れるくらい時間を重ねた。呆れるくらい肌も重ねた。
 それでも、足りないんだな。
「なァ」
 まだ掠れている声ではは起きなかった。形のいい唇を食んで、舌でなぞって、口をくっつけてキスをして、閉じている唇に舌を捩じ込む。
 普段いいようにされてる分今やり返してやろうかと思ったが、そんなときに目を覚ました相手は黒曜の瞳で俺を見つめて目を細くした。頭の後ろと背中に回った手が俺が離れるのを拒み、それまで受け身でしかなかった舌が明確な意思を持って俺の舌を絡め取っていく。
 心逝くまでキスをして、飲み込めない唾液が落ちるのも構わず、唇が腫れぼったくなるまで奪い合う。息が詰まるのも構わず、風邪がうつるかもなんてことも忘れて、昨日の夜に感じた不安と後悔と切なさと、色々な感情をぶつけて砕きながら、噛み締めながら、どうしようもなく好きなんだなと実感する。
(五年も一緒にいたら飽きるんじゃないかと思ったのに、全然違うんだ。もっと一緒にいたいんだ。片時も離れたくないんだ。姉上、これはなんだろう。怖いよ。俺はどこまでに溺れていくんだろう)
 とん、と軽く叩かれた襖戸に一瞥もくれなかった俺と、一瞬気にするように黒曜の瞳をそっちに向けた。俺を見ろ、と髪を引っぱると諦めたように瞳を緩くして俺の髪を長い指で梳く。何度も何度も。
 髪を愛でる指に愛しいと言われている気がして視界が滲んだ。
 カラリ、と開いた襖戸の向こうから昼食っぽいものが載った盆を持った山崎が「失礼しまーわぁっ!?」バシン、と戸を閉じて一人騒がしく「あ、あああの、食事を、ここに置いときますねっ」と足音荒く逃げていく。
 ちゅう、と舌を吸った唇が離れた。そのまま額やら鼻の頭やら頬やらに口付けてくる相手に片目を瞑る。舌も唇もじんじんしてる。
「馬鹿だなぁ総悟。寝てればよかったのに」
 それが昨日のことを言われてるんだと気付いて無言で髪を引っぱった。「誰だよ。アイス買ってくるだけなのに、全然帰ってこなかった奴は」「それは、土方に風邪の治療品分けてもらってたからで…」「うるせェ」髪を引っぱって黙らせ、そっぽを向いて筋肉のない胸に頬を押しつける。
 昨日はあれだけ熱かった身体が今は花冷えの寒さを感じていた。ぶるりと震えた俺に布団を引き寄せ被せたの指がまた髪を梳く。
 障子戸の向こうからはチュンチュンと平和な鳥の声が聞こえていた。
 こうしていると、世界が滅びかけているなんてことが冗談みたいに思えてくる。それくらいぬくい。
 ……一度くらい、訊いてみたいと思っていた。
 風邪で弱っている今なら素直に訊けるかもしれない。蒸し返されたって風邪で弱ってたからだよと呆れた顔で一蹴すればいい。
 世界がやわらかいように感じる今を逃したら、もう機会がないかもしれない。

「うん?」
 俺の明るい茶髪で遊ぶ指を眺めながら、訊いてみた。「俺のこと好きか」と。
 さら、と髪をすくった指が止まる。
「そんなこと今頃訊くんだ」
 呆れたように笑った声はやわらかかった。やわらかく抱き締められて、やわらかく包まれて、「愛しいと思っているよ」という囁き声が夢のような甘さを孕んでいて、じわり、と滲んだ視界を閉ざした。
 瞼の裏でぼんやりとした姉が立っている。霞んでいる笑顔とぼやけている声は、それだけ姉が遠い存在になったことを示していた。
 そんな遠くの姉にでも分かるように、大きく手を振って、笑う。
(幸せだよ。姉上。怖いくらい、幸せだ)
 白詛は相変わらず沈静化しないし、近藤さんはまだ助けられてないし、幕府はしつこく追ってくるし、いいことより悪いことの方が多いんだけどさ。でも、と隣を見上げるとがいて、綺麗な顔に微笑を浮かべて俺の手を握る。その手を握り返したときにはもう姉上の姿はなくなっていたけど、それを捜すことは、もうしない。
 俺は、歩いていける。