別れを告げる声は無い

 起きたら腰が死んでた。あと声も死んでた。
 寝てる間にきれいにされたらしい身体で、這うようにして起き上がり、座ることには成功するが、とうてい立てそうにない。立てたとして歩いたら絶対転ぶだろう。腰がふやけてて力の入れぐあいが全然分からない。
 くそォとお綺麗な顔を思い浮かべて毒づきながら、這って襖戸を開けて廊下に這い出ると、気に入らない野郎と遭遇した。土方である。這ってる俺を見下ろすと呆れ顔で「今頃お目覚めか」とタバコの煙を吐きかけてきやがった。咳き込んでから睨み上げる。てめェ、憶えてろ。殺す。
 他に人間がいないらしく、普段は誠組と桂一派を収容してそれなりにうるさい隠れ家は今は静まり返っていた。
「…は」
 啼きすぎて枯れてる声を絞り出した俺に、土方はタバコを吸いつつ答えた。「捜索に出てる。お前が動けない分な」「は? なんの」「魘魅。今回の白詛をバラ撒いた犯人と思わしき野郎だ」「……15年前の、星崩しの生き残りってヤツか」「そんなようなもんだ」ふー、と紫煙を吐き出した土方が俺を一瞥する、その顔を睨みつける。
 なんでなんか行かせた。捜索ってことは走り回って捜してるわけだろう。そんな体力仕事アイツにできるはずがない。聞き込みって面から言えばあのイケメンは効果抜群の人材かもしれないが。
 俺に無遠慮に観察するような目を向けていた土方がタバコの煙を吐き出す。
「昨日は随分よがってたじゃねぇか。丸聞こえだったぞ」
「、」
 言われて、かーっと顔に熱が上がった。
 たかが三味線弾くくらいで男の注目集めやがって。それがすごくムカついたから酔った勢いで誘惑したはいいが、その後はにいいように弄ばれた。声を堪えられたのは最初の快楽までで、その次からは堪えることなんか忘れて気持ちがいいのに任せていた。場所も、状況も、全部忘れて。いいように黒曜の瞳に染められて、声に促されるまま従って、何もかも曝け出していた。
 床板に手をついて上半身を引きずって起こす。意地でも立とうと思ったがやはり腰に力が入らない。
 タバコの煙を吐き出した土方が「じゃあな。俺はお前の様子見に来ただけだ。大人しくしとけよ」と廊下を歩いて行く姿を睨みつけることしかできない。身体が動いたら真っ二つに斬ってやるのに。
 唇を噛んで柱のあるところまで這っていき、掴みながら何とか立ち上がってみたが、全然駄目だ。離した途端崩れ落ちるに違いない。
 諦めてその場にへたり込み、感覚がぼやけている腰を撫でると、昨日この場所を掴んで離さなかった手を思い出した。ぱっと手を離して廊下の端から端に顔を向け、本当に誰もいないらしい隠れ家の中で廊下に転がる。
 別に、立てないだけで、すごく痛いとかじゃない。じんじん熱いのには慣れたし、声が掠れているのもそのうち治る。
「…飯くらい寄越せよ……」
 役に立たない土方を毒づきながら、結局また這っていくしかなかった。
 昨日の宴会場に残っていた枝豆をつまみ、水を飲み、たくあんを噛む。
 魘魅。その名は知っている。可能性の話として土方から聞いたという、から話をされた。15年前に攘夷戦争を終わらせるために幕府が投入したという傭兵部隊。その部隊が用いたという怪しげな呪術が白詛の症状に酷似しているという。
 ばり、ぼり、とたくあんを噛みながら障子戸を開けると、庭にある桜の木からうぐいすの声がしていた。その向こうで電柱が倒れている。目につく民家の屋根は年の経過を表すように瓦が落ちて崩れ、ひどい家は壁も崩れて半壊状態。世界は確実に死にに向かっているのに、俺は一人こんなところでたくあんなんかかじっている。
 枝豆で腹が膨れるまで食べて、水の瓶を掴んで這って部屋に戻り、布団の上に転がる。性のにおいが染みついた布団は転がってるだけでも落ち着かないが、何もない場所で転がっているのは腰が辛いから仕方がない。
(生臭い)
 埋めた枕からも性のにおいがして、自然と舌が出て舐めていた。ざらっとした布地の味だけでアイツの味なんかしなかった。それで、自然とそんなことをしている自分に気付いて枕を放り投げて襖戸にぶつける。
 くそ。いいようにされて、ムカつく。自分が。こんなとこでまでいいようにされて、本当に、ムカつく。
「ただいま」
 陽が沈んだ頃にと過激攘夷党の連中は帰ってきたが、かけられた声に顔も向けてやらなかった。ふわりと香った飯の匂いには惹かれたが、意地でも布団を被ったまま顔を出さない。
 苦笑いのようなものをこぼした気配のあと、襖戸の閉まる音がして、畳が軋む。
「総悟」
 寝てるの? とやわらかい声が布団の上から降ってくる。
 本当に寝ているとは思っていないんだろうが、俺の機嫌が悪いということは察しているようだ。苦笑いのままカチャンと盆か何かを置いて「ここ、ご飯置いておくから」じゃあまた明日、とあっさり出て行こうとする、その軽さが気に入らなくて布団を蹴飛ばした。だいぶ動くようになった身体で着物の裾を掴む。
 半日はその綺麗な顔を見ていなかったし、声も聞いていなかった。…本音は、それが少しだけ寂しかった。
 俺の目線に合わせるように膝をつくすまし顔を睨み上げ、びしっと夕飯を指す。「食わせろ」と。
 枝豆の残りと海藻類の入った味噌汁。山菜が散らしてある白い飯。少しではあるが鶏肉のソテーもあった。その全てを俺の口まで甲斐甲斐しく運んだは嫌な顔一つ浮かべない。相手に尽くすことを当然とする職業が長かったせいか板についている。
 黙って俺の食事を世話したが、食後の湯のみを唇に当てた。ほどよい熱さのお茶を一口すすって、もういいとの手から湯のみを攫う。
 ああ、馬鹿馬鹿しい。飯を食うのも茶を飲むのも自分でやった方が遥かに早い。
 ずずと茶をすする俺を眺めていたが欠伸をこぼして畳の上に寝転がった。魘魅の捜索という慣れない体力仕事に疲れているらしい。さっきまで普通に俺の世話をしていたが、今は眠そうにまどろんでいる黒曜の瞳を睨みつけ、訊ねる。「魘魅ってのは見つかったのか」「いいや」と否定したがまた一つ眠そうに欠伸をする。「色んな年代、職業の人に訊いて回ったのだけど、掠りもしなくて」まぁそうだろうな。そんな簡単に見つかる相手なら土方辺りがとっくに見つけているはずだ。
 とん、と腰を叩いてぐあいを確認しながら「明日は俺も出る」と言うと黒曜の瞳が俺を見つめた。
「身体は?」
「おかげでズタボロだよ」
「うん、ごめん」
「ちっとも悪いと思ってねェだろ」
「まぁね。昨日のは誘って煽った総悟が悪いし」
 ころん、と仰向けに転がった相手を睨めつける。眠そうにまどろんだ目を閉じて「でも、ごめんね。少しやりすぎたね」とこぼす声にとんと腰を叩いて、ち、と一つ舌打ちしてから腕を伸ばして着物の襟元を掴んだ。を引きずって布団の方に引き寄せ、場所を半分譲ってやる。
 疲れてんだからちゃんと布団で寝ろ。畳の上なんかじゃ疲れが取れない。
 ぱち、と瞬いた黒曜の中に深い緑色が見え隠れする。「一緒に寝ていいの?」「眠るだけだぞ。他のことするな」「はは」笑ったが布団の中に入る。一人用の布団に二人入れば当然狭い。嫌でも身体はくっつくし、体温は近くなる。
 一人でいたときと違いとくとくと少し早く鼓動する心臓を恨めしく思いながら、寝返りを打ってに背中を向けた。…ずっと顔見て緩まないでいる自信がない。顔を見てるだけで緩む自分なんて嫌だからこうする。
 結局、どんなに恨み事を集めてみても、気持ちがよかったのは事実だし、酷いことの一つもされてないのは真実だ。俺はただよがっていただけ。荒々しく犯す熱さえ嬉しくて悦んでいただけ。
「総悟」
「…なんだよ」
「抱き締めてもいい? 他には何もしないから」
 甘い誘いに唇を噛んだ。じわり、と身体の中で熱が生まれる。「…絶対何もするなよ?」「しない」じゃあ、別に、とぼそぼそと許可を出すと、笑った気配のあとに緩く背中側から抱かれた。片腕だけの、逃げたければ逃げられる抱擁で。
 背中にくっつく体温に意識が安堵でまどろんで、目を閉じる。
「そーご」
「…うるさい。寝ろ」
「愛しているよ」
 眠そうな声でも、愛の言葉というのは恐ろしいほどの破壊力があった。バーンと頭の中の何かが弾け飛ぶ。
 ぱくぱくと無意味に口を空振らせる俺はからは見えていないことだろう。
 怖かった。愛の言葉がじゃない。そんな陳腐な台詞でも全て忘れて溺れそうになっている自分が、怖かった。
 翌日。多少は動くようになった身体でいつもの赤い着物に白い袴を身につけ、長い髪を結って、項の噛まれた痕が気になってぐるぐるとマフラーを巻いて首を隠した。刀を持って隠れ家を出て、が潰した辺りから魘魅の捜索を開始する。
 やはりというか聞き込みという対人作業に効果抜群のイケメンぐあいを発揮するを半眼で睨みつつ、仕方がないから俺もそれなりに仕事をする。
 適当なところで昼を取り、聞き込みを再開するが、包帯ぐるぐる巻いて嵩つけたいかにも怪しい野郎を見たという人間はまだいない。
 繰り返しの作業にさっそく飽きてきた。俺はもともとこういうのは得意じゃない。
 ふわ、と欠伸をこぼしつつまだ若干ダルい腰を叩く。
 近藤さんは取り戻した。あとは世界さえどうにかできれば、幕府なんざ鬱陶しいだけの蝿だ。白詛さえなくなればあとは平和に生きていける。と、江戸で、生きていける。
 …今回の件が片付いたら、あの人に言うんだ。のこと、全部話して、認めてもらうんだ。
 俺はアイツに沖田の苗字をあげたい。
 仕事柄、本名を捨てて忘れたアイツには下の名前しかない。本人はとくに気にしてもないようだが、外で名乗るときに下の名前しかないっていうのは格好がつかない。だから、俺の苗字をやるから、そう名乗ればいい。名実ともに家族になれるし、名前から俺のものになるんだ。考えただけで気分がいい。
 この件が全部片付いたなら。
「陽が暮れてきたなぁ…」
 疲れたように足を止めたにつられて立ち止まった。川の向こうの廃屋が立ち並ぶ景色の中に橙色の太陽が沈み始めている。「…ここまでだな」ここから隠れ家まで戻らないとならないことを考えると、今日はここまで。潮時だ。
「帰ろうか」
「ん」
 道を戻りながら、に手を握られ、仕方がないから指を絡めてやって、繋ぎながら、全てが明るい方向に向かった未来を夢想する。
 土方の野郎を打ち倒して俺が副長の座に就いて、近藤さんにとの関係を認めてもらい、祝ってもらう。沖田の苗字をやって、沖田って名乗るようになったの、髪を切る。もう二度と俺以外を誘惑しないようにという戒めと祈りを込めて。それから。何をしよう。江戸に人が戻ってくるようになれば全てが元通りだ。また何でもできる町になるだろう。
 そうしたら、と何をしようか。
「なァ」
「うん」
は何がしたい? 白詛がなくなって、元通りになった江戸で」
「そうだなぁ。…正直、考えたこともない。五年もこの町に住んだし、それに慣れてしまったし」
 欲のない返答に呆れていると、カラリと下駄を鳴らして足を止めたが「それに」と笑って唇を寄せてきた。ちょん、と触れるだけのキス。「俺は、総悟がいればそれでいいのかも」なんて卑怯なことを微笑んで告げる相手に、繋いでない方の手でぐっと拳を握り締めてそっぽを向いた。なんだよその殺し文句。…卑怯だ。「考えろよ、したいこと」「うーん」苦笑いをこぼした相手がカラリと下駄を鳴らして歩みを再開する。その隣に並びながら、影の中で揺れている自分のポニーテールを眺める。
 五年。長いようで、振り返ってみれば、あっという間だった。
 さらに五年、十年、二十年、もっともっと、俺はコイツと一緒にいるんだ。生きていくんだ。そのために今魘魅の野郎を捜してる。白詛の呪いを解くために。その脅威を葬るために。
 揺れるポニーテールをつまんで目の前に持ってくる。
 俺の髪は、そうだな。あまりに長いとウザったいから切るが。が気に入ってるなら、ある程度の長さを維持してやろう。
 …たとえば、だけど。は中年になったらどんな感じになるんだろう。この綺麗な顔だ、老けたら相当酷いに違いない、いっそそうだったら余計な嫉妬もしなくていいともやもや想像を巡らせ、その隣にいる自分は一体どんなことになっているのかと眉根を寄せて本気で考えてみる。ちっとも具体像は帯びなかったが、そんな想像をするくらいには、二人で一緒にいる未来を疑っていなかった。

 ……そんな日など未来永劫訪れないということを、このときの俺はまだ予想もしていなかったし、可能性として考えてもいなかった。当たり前に続くのだと思っていた。一つが上手くいった、なら次も上手くいくし、そうしたら結果的に全てが丸くなって収まるんだと確証のないことを信じていた。
 握った手がこの先もずっと一緒にあるものなんだと、信じて、疑っていなかったんだ。