あたしと彼とが出逢ったのは、今思えば必然だったのだと思う。
「なぁ、これどうやれば解ける?」
 難しい古文書の読解に挑戦している彼は、机にかじりつくように文面に顔を寄せて難しい顔をしている。あたしはソファに座って身体を丸くしながら「知らなーい」と適当に答えを返す。
 そもそも彼に解けないものがあたしに解けるはずもない。だってあたしの方が彼より馬鹿なのだ。悔しいけれど。
 彼はがりがりと羊皮紙に羽ペンの先を押し付けながら、「もっと真剣に考えろよ」と溜息をついて顔を上げるとこっちを振り返った。茶色の瞳が机の上にあるランプの光を反射してきれいに光っている。
「もしこれに本当にレヴァディーンとの契約方法が載ってて俺達が契約できたら、父上を越えられるんだぞ」
「……分かってる」
 だけどあたしはただ身体を小さくしてソファにちょこんと乗っているだけだった。動きはしなかった。彼はもう一度息を吐き出すとまた古文書の方へと視線を落として、参考書片手に机にかじりついて読解を再開する。
 あたしはその彼の横顔を見ている。
(…あの人を超える、か)
 暗い思いが芽生えて、あたしは抱えている膝に顔を埋めた。

 あたしや彼の父親、オルドレイク・セルボルト。現在の無色の派閥を統率している人物で、その魔力は強大。そしてその跡継ぎとしての子供は腐るほどいて、実際もう何人も使えないと分かれば切り捨てられてきている。そして切り捨てているのは他でもないあたしの父親。そう、あの人は、自分で自分の子供を捨てられる人なのだ。とても簡単に。
 あの人の精神は異常だ。異常すぎる。この一言に尽きる。
 あの人の子供でまともな心を維持しているものならば、あの人の異常さに恐れているだろう。あたしもソルもそうだ。あの人が恐ろしい。否、無色の派閥自体が、恐ろしい。
 できるなら抜け出したかった。この場所から。
 ここは暗くて冷たくて、いつも血のにおいが立ち込めている。
 今日も地下から悲鳴が上がっているのを聞いてしまった。誰のものかは知らない。だけど間違いなく人間の、悲鳴だった。
 無色において、裏切りは暗黙の死刑。少しでも裏切りの片鱗が見えたならば、即首が飛ぶか召喚術で跡形もなく消し飛んでいる。
 今日の悲鳴もその誰かのものだろうか。それとも、侵入者や金や蒼の派閥の誰かを捕らえて拷問でもしていたのだろうか。
 どちらにせよろくなことじゃない。そう思って私は目を伏せる。
(……どうしてあたし、ここに生まれたんだろう)
 ここは暗くて冷たくて、いつも血のにおいがして、とても正常な人間のいる場所なんかではなくて。父親は狂っているし、母親も狂っているし、この場所自体がすでに狂っている。
 そんな狂っている場所にいると、狂っていることこそが正常なのだと促されているようで、ときどき分からなくなる。何が正しくて何が間違っているのか。
 あたし達は間違っていない。ここから抜け出そうと考えているあたし達は、決して間違っていない。
 外に出れば分かる。外はとても優しい場所のはずだ。血のにおいなんかしないだろうし陽の光だってあるだろうし、きっととても温かい。
 どれだけそんな普通のことに、あたしが憧れているか。


 呼ばれて、思考に埋没していた自分を思って顔を上げた。いつの間にかソルが目の前に立ってこっちを見下ろしている。
「また考えごとか」
 その手が伸びてきてあたしの髪に触れた。ソルとは違うクリーム色の髪。少し癖があるからさらさらではないけれど、それはソルも同じだからそこだけはこの髪の気に入ってるところだったりする。
 あたしは彼の手を取って「悪い癖よね」と少し笑った。考えてもどうしようもないことを考えるだけ考えて、自分を追い詰める癖。彼は考えてもどうしようもないことは考えない。考えてどうにかできることを考えるのが彼だ。そんなところが、彼とあたしの大きな違い。
「あたし、なんか…不安定かも」
 ぺたり、と彼があたしの額に手を当てて少し顔を顰めて「いつもより熱い」と言った。あたしは顔を上げて、少し笑う。
「大丈夫」
「じゃないだろ。ほら寝ろ」
 彼があたしの脇に手をやって、簡単にひょいと持ち上げてみせた。それからそのまま猫を抱っこするようにあたしを抱き上げてベッドまで連れて行き、すとんと下ろす。下ろされたあたしは彼を見上げて、「もう寝るの?」と不満の声を出した。彼が頑なな態度で首を振って「微熱だ。いつもの発作かもしれないだろ。用心するに越したことない」と言ってばさりと布団をかぶせてくる。
 あたしはもぞもぞと布団の間から顔を出して、牢獄のようなはめ殺しの窓の向こうに滲むように浮かぶ月を見た。ここから見る景色はいつもそう、だいたい濁っているような感じ。晴れ間なんてあまり見ない。
「……ソルは部屋にいる?」
 もぞもぞと動いてベッドに横になりながら訊くと、彼は少し笑って古文書を指で叩いて「こいつの読解にもう少し挑戦してみる。いるから心配するな」と言ってあたしの頭をやんわりと撫でた。それからそのまま流れるような動作であたしの唇にキスを落とした。おやすみ、とでも言うように。
 あたしは目を閉じて、少しして離れた熱の感触に薄く目を開ける。彼はもう一度あたしの髪をやんわり撫でると机に向かっていって、古文書読解の続きを始めた。難しい顔をして参考書をぱらぱらとめくりながら、かりかりと控えめな羽ペンの音が部屋に響く。
 あたしは目を閉じて、大人しく眠ろうと思った。まだ唇に彼の熱の感触が残っていた。だけどそれも気付かぬうちに消えていて、あたしは眠りに落ちていった。