がぐすと鼻をすすって「ソル」と俺を呼ぶ。俺は彼女の髪を撫でながら「大丈夫だよ」と返す。彼女の服前面はおろかその顔や髪にまでこびりついている血の色。彼女が嫌った血の色。一瞬生まれた思考のぐらつきを俺は切り捨てる。
 彼女を抱き起こして、華奢なその肩に手を置いて一つ深呼吸。不安そうな顔で目を擦る彼女に、俺は言う。
「逃げよう」
「え?」
「この塔の周りは包囲されてるだろうから、飛ぶしかない。それに父上が来る前に逃げないと、どうなるか…」
 分からない、と言いかけたとき、じゃりと靴音がした。冷たい射抜くような視線を背中に感じて無意識に息を呑む。彼女の視線が俺ではなく俺の後ろの誰かを捉え、その目が見開かれる。
 このタイミングでここに現れたのなら、それは言うまでもなく、
「お、とう、さま…」
 彼女の唇がそう呟いて、その瞳が人間らしくない色を帯び始める前に俺は彼女を抱き締めてその視界を遮った。彼女の翼が俺から逃れようともがく。それを必死で捕まえて、俺は肩越しに後ろを振り返った。
「よくぞ引き止めていたなソル。さぁ、それをわしに寄越しなさい」
 そこにいたのはやっぱり俺の父親で、狂気で狂った目でこっちを見てそれでも抑えきれない喜びに口元が引きつっていた。長いローブを引き摺ってこっちへ踏み出すその人に、俺はただぎゅっと彼女を抱く手に力を込める。
 狂っている目。新しい世界を創造しようと、そんな無謀なことを考える狂っている人。
「…お断りします」
 じり、と父親であるはずの人から後退る。その人が眉を顰めて「ソル」と諌めるように俺を呼ぶ。
 俺は強く目を閉じた。腕の中で微かに震えている彼女を抱き締める手に力を込め、瞼を押し上げる。

 いつかは愛されるだろうと思っていた。いつかは愛してくれるだろうと思っていた。けれどこの人にはそもそも愛という観念などなく、また愛を必要とする人でもなかった。
 欲しいのは結果。あの人が大事にするのは全ての結果。経過じゃない。
 あの人にとって、最終的な夢に到達するまでの全ては経過でしかないのだ。そこでどれだけの血が流れようと自分の子供を死なせようと関係ない。関係ないのだ。あの人には。
 そんな人から愛をもらったとしてもろくなものじゃなく、俺には、そんなものはもう必要ない。
 必要なものはもうこの腕の中にあり、それが、俺がここにいる理由。

「俺は、あなたの駒じゃない」
 言い捨てて、俺は強くオルドレイクを睨みつけた。
 あれはもう父親などではない。ただの他人だ。俺達をいいように利用して使えなくなったら捨てるひどい人間だ。割り切るのにひどく時間がかかってしまったけれど、結局はそういうことなのだ。
 あの人は他人。むしろそれ以上に遠い人。
 オルドレイクがさらに眉を顰めて「お前という奴は…」と呟くと出来の悪い機械でも見るみたいなどうしようもない目で俺を見た。その手がローブの内側へと伸びたのを見て構える。彼女を抱く手に力を込めることしかできなかったけれど、それでも、屈するものかと歯を食いしばる。
 引き抜かれた手に握られているのは、契約済みのサモナイト石。
「子供は素直に親の言う事をきいていればよいのだ」
 当たり前のように詠唱などすっ飛ばして現れたのは、闇夜の色をした武器が五つ。俺と彼女を方位するように上空からこちらに矛先を向けて停止している。
 禍々しい邪気に、かたかたと足が震えた。情けないと思う。それだけオルドレイクの魔力が桁外れで呼び出される召喚獣もまた桁外れなのだ。それをどうしようもないくらいに実感する。
「最後だ。それをこちらに渡しなさい」
 少しの慈悲もない声に、俺は強く頭を振って彼女を抱き締めた。
「それだけはできない」
「…ならばお前は死ね」
 少しの慈悲もない声。静止していた武器が空を切って同時に五つの方向から襲いかかる。目標は俺。俺だけを殺して彼女を奪う軌道。
(くそ)
 どうしようもなく悔しくて、でもできることは何もなくて、俺はただ強く目を閉じて彼女を抱き締めてその髪に顔を埋めた。血のにおいがしたけれど、微か、彼女のにおいもした。
 一秒、二秒、三秒。それだけ待っても、何の衝撃もない。
「……、?」
 恐る恐る目を開けてみれば、目の前が暗かった。それは彼女の背中から生えた翼のせいだった。それが俺と彼女を包み込むようにして広がっている。灰色の翼。彼女へと視線を落とせば、どこでもない一点を凝視するようにして動かない。
…?」
 呼んでも返事はなかった。ただ俺の服を掴んでいた彼女の腕がぶらりと垂れて、その手が拳を握る。
 ゆっくりと顔を上げた彼女が俺を見た。その目は金色に光っていた。彼女の瞳はこんな色じゃない。そう、だからこれは、
「……ソル」
 けれどその唇が紡いだ音は俺の名前で、彼女の声で。俺達二人を包み込むようにしていた翼が勢いよくばさりと左右に広げられ、五つの武器が弾かれるようにしてくるくると空を舞った。彼女がその一つ一つに見向きもせずに翼を振るい、その翼から放たれた羽根が武器の全てを貫通して破壊する。
 羽根の強度がどうとかそういう問題じゃない。これはもう、人の技ではないのだから。
 彼女の視線がゆらりとオルドレイクに固定され、その身体が俺から離れて一歩を踏み出す。
「ソルを、殺そうとしたわね…」
 彼女の手が伸びて、屋上に突き刺さっていたままだった剣が一人でに持ち上がって彼女の掌へと飛んでいった。その剣の柄を握り締めて、彼女がこつとさらに一歩を踏み出す。異様なその気配に、オルドレイクさえ一歩引いている。
「何を言うか。わしはお前のためを思って、」
「あたしのため? 笑わせないでよお父様」
 鼻でせせら笑い、彼女が剣を一振りする。その軌道上にいくつもの黒い球が現れ、その全てがさっき召喚されたダークブリンガーと同じ形同じ軌道でオルドレイクを取り囲んだ。彼女がさらに一歩を踏み出す。ここからでは彼女の表情は見えない。けれど、想像はできる。
「あたしのためを思うんなら、死ぬのはあなただわ」
 そうして息を吐く暇もなく五つの武器全てが弾けるようにしてオルドレイクに突っ込んだ。形容しがたい音と悲鳴、それから爆発音。いやどちらかというと破裂音。
 辺りに飛び散った肉片や服の切れ端、転がったオルドレイクの所有物だったサモナイト石。
 彼女が静かに剣を下ろし、その切っ先がかつんと床に当たる。灰色だった場所にまるでそういうペンキをぶちまけたかのように広がる赤黒い色。
 俺は一歩踏み出し二歩目を踏み出して、それから彼女に手を伸ばして背中から腕を回した。翼が邪魔だったけれどこの際無視して剣を握る手にそっと触れて掌を開かせれば、水晶のような色をした剣がからんと音を立てて落ちる。
 彼女が震えているのが分かる。
「あ……あたし…」

「あたしまた…こんな……」

 再度強く呼べば、彼女が肩越しに俺を振り返った。その唇にキスをして、俺は彼女に微笑む。心から。
 その瞳は金色だったけれど、彼女が彼女であることに変わりはないのだから。
「助けてくれた。ありがとう」
「…ソル……」
 彼女が呆然と俺を見つめ、それからほんの少しだけ口元を緩めて笑った。攻撃的なまでに明滅していた金の瞳の色が薄くなり、落ちている剣が、空気にとけるようにして消える。
 それでも彼女の背中の翼だけは健在で、大きく広がっていた。彼女の中にいる魔王を誇示するかのように。
「……逃げよう」
 オルドレイクが来る前に言った言葉をもう一度彼女に言う。彼女は俺を見て、しっかりと頷く。

 どこへ、なんて言葉はなかった。それは俺にも分からないことだった。ただ逃げて逃げて逃げ続けなければということだけは、痛いほどに分かっていた。