オルドレイクを失った無色の派閥は、新たな内紛に奔走され、あたし達を追うような手駒も暇も割けなかったようだ。おかげで逃げるときはソルを連れて飛び立って遠い場所へ行く、それだけで、追っ手というものはいなかった。
 あたしがこの身に魔王を宿してからもう何週間も経つ。

 あたし達二人は今、あの塔のある場所から遠く離れた辺境の村に住んでいる。

「ソル?」
 きょろりと辺りを見回してみる。ここで待ってるからと言っていたはずの彼の姿がなくて、あたしはひどく焦って思わず背中の翼が飛び出しかけて慌てて押し込んで、「ソル?」ともう一度彼を呼ぶ。必要なものは買ったから後は帰るだけなのに、彼の姿が見当たらない。
 そう思っていたら、隣の建物の影から彼がひょっこり顔を出して「ちょっと来い」とあたしを手招きした。あたしは彼を見つけたことにほっとしながら言われた通りにそっちへ行って、彼が伸ばした手が首に回ったのできょとんとする。彼が少し笑って「ほら」と手を離す。あたしは自分の首に視線を落とした。ぎりぎり視界で確認できる位置に一つのペンダント。
「これ…?」
「さっきそこの露店で抑制石を見つけたからさ。とりあえずそんな形にしてみたんだけど…」
 彼が首を捻って「効果ありそうか?」と半信半疑っぽく口にする。あたしは束の間目を閉じてざっと自分の中を振り返り、うーんと困った笑いを浮かべる。
「…分かんない」
「だよなぁ」
 彼が息を吐いてあたしの手を引き、「まぁいいか。行こう」と帰路を取る。あたしはそんな彼の斜め後ろを歩き、蒼い空の下、血の臭いのしない空気を吸う。

 自由だ、と思う。
 この自由の代わりに差し出した代償はとても大きい。あたしも彼も何かしらの代償を強いられた。
 あたしの場合はこの肉体。彼の場合は心。
 想像でしかないけど、きっと彼はものすごく心を消費している。他でもないあたしのために。
 彼の目元はクマが目立つようになってきている。それだけ必死になってあたしの中の魔王をどうにかするための方法を探してくれているのだろうけど、あたしにはそれが少しだけ辛い。
 彼の横顔をちらりと見て、あたしは思う。本当にこのままでいいのかどうかと考える。
 今は大丈夫だ。あたしの中の魔王は大人しい。だけどあたしのふとした感情の起伏で魔王の力も強くなる。つまりは不安定だ。あたしは心を殺すことなどできない。だからいつ魔王があたしの中で暴れ回るのか分からない。
 あたしは怯えている。ただ怖くて怖くて、怖くて。

 彼の手をぎゅっと握った。彼があたしを見て、それからその口元に笑みを浮かべてあたしの頭を撫でる。
「ソル」
「何だ」
「あたし、怖いよ」
 彼といればあたしは確かに安定していられる。だけどもし彼でさえも駄目になる日が来たなら、あたしは一体どうなってしまうのだろう。
 彼は少しだけ困ったような顔をした後、それでもいつものように笑ってあたしの額にキスをする。
「俺がいる。必ず俺がお前を助ける。だから胸張って、負けるな」
 あたしは、ただ頷くしかない。彼の言葉を信じて頷くしか。
 いつかそういう日がくるのだろうか。あの塔の暗い部屋の中ではなく焦がれ続けた蒼い空の下で、二人して笑える日は、くるのだろうか。
 魔王をこの身に宿して、それでもまだ生きているなんて。あたしはあたしの意識があるなんて。運がいいのか、悪いのか。
「…ソル」
「うん?」
 彼が首を傾げる。あたしはそんな彼を見つめて、口元だけで笑う。
「この先あたしがどうなっても…一緒に、いてくれる?」
 彼はふっと笑って「答えるまでもないだろ」と言ってあたしの頭をぐしゃぐしゃと撫でた。髪がくしゃくしゃになる、と思いながら瞑った目を開ければ、彼はやっぱり笑っていた。その目元にはクマがあるしなんだか少しだけ頬もこけてしまったような気がするけど、それでも蒼い空の下、とてもきれいに笑っていた。
「ずっと一緒だ。これからもこの先も、生きている限り」
「…うん」
 じんわりと胸に広がる温かい波紋に、あたしは目を閉じる。大丈夫、と自分に言い聞かせる。彼がいるのだ。あたしは一人ではないのだ。だから大丈夫。大丈夫。例え魔王がいたってきっと平気だ。彼が諦めないのなら私も諦めない。彼が頑張るのなら、あたしも頑張る。それだけだ。
 蒼い空の下、いつかに夢見たような木の温もりのある古い家へ、あたし達は帰った。
 手を繋いでどうしようもないことを囁き合って、ずっと一緒だと、囁き合って。