好きな人がいた。だけどそれは腹違いの兄妹ってやつで、彼女は俺と同じ父親を持つ、それでも一人の人だった。
 兄妹で恋をするのはいけないことだと、知っていた。何となく知っていた。その意味は知らなかった。
 この派閥内でそういうものにこだわる奴はいなかったし、むしろ受け継がせる力は純血で大きいに越したことはないとそれをよしとする傾向の方が強かった。
 俺の父親がいい例だ。何人もの女性に無差別に子供を産ませて、出来のよかった子供だけを召喚師へと育て上げ、使えない子供は暗殺者に、それすら叶わないものは早々に見放されて親子ともども捨てられた。
 兄妹だと分かっていた。だけどだから何だ、と思った。
 好きだった。彼女も俺が好きだと言ってくれた。だんだんと一緒にいる時間が多くなってきて体温を感じようと側にいることも多くなってきて、触れたいと思って求めることも多くなってきて、彼女はその全てを拒もうとはしなかった。
 ただ、外に出たいと、それだけを願っていた。
 この場所は彼女にとって毒だった。彼女は病弱とまではいかないものの、確実にこの場所のせいで身体を悪くしていた。出逢った頃はあんなに快活だったにも関わらず、今では召喚術で少し無理をすると発作が出て倒れてしまう。
 だけど彼女は特別出来がよくて、今でもときどき任務と称したものに狩り出される。そうして帰ってくると大抵発作が出ていて、俺はそんな彼女をベッドに寝かしつけてよくなるまで世話をしてやる。ごめんねソル、と彼女が熱に浮かされた顔で申し訳なさそうに謝るから、俺は彼女に任務を課した誰かを怨みながらいいんだよとキスを落とす。
 彼女のためにできることをしたいと願った。
 好きだった。大好きだった。愛していた。ただそれだけだった。
 だからこそ今、ここから脱出する方法を考えている。
 ここから逃げてどこか遠くで二人で暮らす。そうすれば彼女の身体はだんだんよくなるだろうし、こんな血にまみれたところで暮らすようなこともなくなる。
 逃げなければ。早く、ここから。
「……………レヴァディーンか」
 目の前に大きく殴り書きしてある自分のその文字に短く笑ってすっと一本下線を引く。
 俺では召喚できない。例え契約方法が分かったとしても、素質が足りない。俺ではできない。だけど彼女にならできる。
 肩越しにベッドを振り返れば、彼女は目を閉じて安定した呼吸を繰り返していた。それにほっと息を吐いて顔を戻し、古文書に視線を落とす。
 さっぱり分からない、というわけじゃない。何となく前文は理解した。けれどレヴァディーンを召喚するにはそれなりの体力と魔力と、犠牲が必要だ。
「……何を持って、生贄とするか…」
 悪魔を滅する宿命を持つ天使の中でも、特に攻撃に特化した竜の姿をとる天使。そんな天使を呼び出すには少なからず望みが必要だ。望みというより強い思い。ここから逃げたいと、それだけではきっと足りないだろう。だから何か別にも考えなくてはいけない。レヴァディーンが応えてくれるに値する望みを。
(…………望み…)
 きし、と椅子の背もたれに体重を預ける。そうして目を閉じる。机の上のランプがじじじと揺れる微かな音だけが耳に入る。あとは彼女の静かな寝息。その他はただ静寂。冷たい石造りの部屋から滲み出ているような、静寂のみ。
(…俺にはある。望み)
 薄く目を開けて、椅子から立ち上がる。ずっと文字を追いかけていた目のせいで少し足元がふらつて、ベッドのふちに崩れるように膝をついた。眠っている彼女。その頬に指を滑らせて、束の間目を閉じる。
 指先から伝わる体温。耳に届く呼吸の音。微かに香る彼女のにおい。
(いつか二人だけで暮らして、が憧れてるベランダのある家に住んで、それから…)
 ここから出たらどうしたいかと訊いたら、彼女は真っ先に言った。血のにおいのしない場所に行きたいと。
 それはとても悲しいことだと思った。彼女は血のにおいが染み付いた場所へしか行ったことがないのだ。血のにおいがしなくとも、最終的には血で溢れた場所に立っている。彼女はよく任務に狩り出される。そしてそれは大抵無色の派閥にとって邪魔者を始末するための、殺しの任務。
 彼女はただ悲しそうだった。嫌だと言うことなんてできやしなかった。ただただ命令に従い、とても悲しそうだった。とてもとても。
 血のにおいのしない場所へ。そう言った彼女は悲しそうだった。
 俺は彼女の願いを叶えてやりたい。控えめすぎるその願いを。ここにいる限り永遠に叶うことのないその願いを叶えてやりたい。彼女の好きな場所へ連れていって好きなことをさせてやりたい。彼女は確かに召喚師としてとても力があるけれど、心は、その分弱い。
(出たいんだ。ここから。そうして逃げたい。二人で)
 幸せになりたいなんて贅沢は言わない。だからせめて、彼女が曇りなく笑える場所まで行きたい。彼女が笑えているならそれでいい。俺は笑えなくても、俺は不幸でも。
 だけどそう言ったらきっと、彼女は首を振って二人でなきゃやだって言うんだろう。
(……贅沢かな。これは)
 思って、目を開ける。彼女の頬にぺたりと掌を当てて、ポケットに突っ込んでいるサモナイト石の一つに触れて「リプシー」と口にする。ぽん、と音を立てて現れた紫色の聖精はこっちを見上げて首を傾げた。
『なぁに』
の状態を見てほしい」
 もう慣れたのだろうその言葉に、リプシーはにっこり笑って『はーい』と答えるとくるくると光の粒子を撒き散らしながら彼女の上で回転した。それから小さな手でぺたりと彼女の額に触れる。あたたかい光が一瞬だけ浮かび、消える。
『だいじょーぶ。たいしたことない』
「…そうか」
 ほっとして肩の力を抜いた。これももう何度やったか分からない仕種だ。そうしてリプシーとのこのやり取りも、もう何度やったか分からない。
 リプシーがくすくすと笑って『しんぱいしすぎ』と言う。俺はそっぽを向いて「うるさい」とだけ返す。心配なものは仕方ない。彼女が意識を手離すたびにリプシーを召喚して彼女の状態を調べてる俺も俺だけど、心配なんだから、仕方ない。
 どうしようもなく好きだから。心配にもなるし、不安にもなる。
「…わざわざ悪かったな」
『ぼくのしごと。あやまることじゃない』
 門が開いて向こう側へと還っていくリプシーがにっこり笑ってそう言った。
 送還の光を遠く見つめながら、とけるように消えていった光の粒子に感謝の意を示して頭を下げた。ぼふ、とベッドのふちに頭がぶつかる。
「…
 眠りに落ちている彼女の名を呼ぶ。深く息を吐き出す。つけっぱなしのランプの灯りを思って机を振り返るも、立ち上がる気が起きない。
(嫌な予感がするんだ。ずっと水面下で動いていた何かが…現れるような。そんな感じがする)
 じじ、と不安定に部屋を照らしていた光が、俺の予感を後押しするようにじゅっと音を立てて消えた。部屋の光源がなくなり、天窓のようで牢獄のようなはめ殺しの窓の外からの月明かりだけが薄く射し込んでいる。
「……
 もしも離ればなれになることがあったらどうしようか。そう呟いて、目を閉じる。

 浮かぶのは夢見る光景。彼女が白いワンピースにカーディガンを羽織って楽しそうにくるくると踊っている。すっかり元気になって血色もよく、顔色も随分といい。そしてとても幸せそうだった。笑顔。健康そうな肌の色。
 それは俺が望む彼女の幸せで、俺が目指すもので、それが叶ったらなら俺に残るものは。
(………気休め…なのかこれは)
 胸の内に渦巻く不安。戸惑い。
 このまま何事もなくいけばいい。そう思いながらも、きっとそうはならないと、俺は予感していた。