「霊界サプレスの魔王を召喚する儀式を執り行う。お前は、その指導者となれ」

 その言葉が扉越しに聞こえた瞬間、身体中の全てが音を立てて崩れ落ちたような錯覚に陥った。そこから先の会話が右から左へただすり抜けていったくらいに、それは俺の中で大きな衝撃となって余韻を残していた。
(何だって…? 父上は、何を言って……)
 そして耳に入った彼女の言葉にもまたショックを受けた。

「お父様の、仰せのままに」

 そう言うしかないというのは分かっていた。だけどとても受け入れられることじゃない。俺がもしそう言い渡されていたとしたら、確かに彼女と同じことを言う。だけど納得できない。そう言うしかないと分かっているのに。
(使えないと判断した者は、自分の子供であろうと容赦なく処分する。それが父上だ。だけど…)
 かつ、と踏み出された足音ではっとして腕に抱えていたグリムゥに意識を飛ばして「頼む」と唇の動きだけで告げる。半透明で小さな竜の姿をしているグリムゥがこっくり頷いて、一瞬でその場から部屋へとテレポートした。
 いつもの部屋。俺と彼女が一緒にいる部屋。けれど今は彼女のいない、部屋。
「嘘だろ…」
 呟いて、膝をつく。全身から力が抜けていた。俺の腕からするりと離れたグリムゥがこっちを見ている。金色に光る両目がじっとこちらを見つめている。
(ああ…還りたいのか)
 ポケットに手を突っ込んでグリムゥと契約しているサモナイト石に触れ、「送還」と呟く。グリムゥを囲うように白い魔方陣が現れ、その半透明な身体を円筒形の光の柱で満たしていく。
 きらきらとした光の粒子。「ありがとう」と呟くと、グリムゥはこっくり頷いてすぅととけるように消えた。
 ポケットから手を抜く。ぶらりと力なく床に投げ出して、視線だけ上げて部屋の扉を振り返る。
(迎えに、行かないと)
 力の入らない身体と精神を切り離して、ただ事務的に立ち上がった。自分の身体を動かす術など心得ていた。ただ切り替えればいい。心だけを別の場所へ。自分の身体を遠くから見るイメージ。俺はただ階段を上がって彼女のいるあの尖塔の部屋まで行けばいい。
 そう、何より誰より衝撃を受けているのは彼女のはずなのだ。俺は彼女の側にいないといけない。そうして一刻も早くここから逃げ出さないといけない。
 そうしてただただ事務的に階段を上がって尖塔への道を行きとうとう部屋の扉の前まで辿り着いて、深呼吸してそのドアノブに手をかけて引き開ける。
 彼女は倒れていた。赤い光の射す部屋で、血に染まっているようなその部屋で床に倒れ伏していた。一瞬で今までの思考が吹っ飛んで彼女の側に駆け寄って膝をつく。
…っ」
 手を伸ばして癖で彼女の額に触れて熱がないかを確認して、ぞっとした。昨日の夜とは比較にならないくらいに熱い。その手を握ってみれば、いつもは冷たいのに今はものすごく熱い。脈も速い。発作だ。
「リプシー!」
 詠唱をすっ飛ばして叫ぶように呼べば、ぽんと音を立てて現れた紫色の聖精。言われるまでもなく彼女の方を見て丸い目をさらに丸くし、いつもは笑っている陽気な顔が真面目一色になり、口元を引き結んでくるくると彼女の上を旋廻した。あたたかい光の粒子が降り注ぐも、彼女の熱は治まらず脈も速いまま。
『ぼくじゃちからがたりないよ』
 耳を下げて困ったような顔をしながらそう言うリプシーに、思わずイラっとして「聖精なんだろ、何とかしろっ」と声を荒げてしまった。怒鳴られてさらにしゅんと小さくなるリプシーにはっとして口を押さえて緩く首を振る。俺が冷静さを失ってどうする、と自分に言い聞かせる。
(考えろ。考えるんだ。俺に召喚できる奴でリプシー以外に癒しの力を使えるのは…)
『…ぼくひとりではだめだけど。あとなんにんか、いるならできる』
 その声に顔を上げてリプシーを見る。まだ小さくなって耳を下げて自信なさげにしながら、俯き加減にそう言う。
 俺は「ほんとだな」と返しながらも新たにリプシーを呼び出すためにポケットに手を突っ込んで契約していないサモナイト石を取り出して、それからこいつに八つ当たりしたんだということを思い出して頭を下げた。冷静になれ、と自分に言い聞かせる。
「…怒鳴って悪かった。お前が悪いわけじゃないのに」
『ううん。ぼくにちからがもっとあればよかっただけ』
 首を振って笑ってみせるリプシーに、俺は少しだけ笑う。確かにそうであればよかった。だけどそうじゃないのだから、もう仮定の話をしても仕方ない。
「俺の呼びかけに応えてくれ…頼む」
 紫色のサモナイト石を握り締めて、もう片方の手には彼女の手を握り締めて、俺は祈った。契約は必ずしも成功するものではない。俺は召喚術が得意な方ではないから、がたまに言うコツというものもまだ分からない。
 だからただ祈る。この声に応えてくれる誰かに。
(彼女を助けたい。助けたいんだ。だけど俺には力がない。彼女を助けられるだけの力が)
「頼む…」
 ただ祈った。心の底から、誰か助けてくれ、と。
 赤い光が差し込むだけの部屋に、違う色の光が生まれる。薄目を開けて顔を上げてみれば、全てを包み込むような微笑みを浮かべた聖母が、そこにいた。
「あ……」
 口から無意味に言葉が漏れて、光を放つサモナイト石が手から滑り落ちてことんと音を立てる。
『私を呼びましたね、人の仔よ』
 静かな言葉に、俺はこくこくと馬鹿みたいに頷いてに視線を落とす。リプシーがきゃっきゃと聖母の周りをくるくる回って『プラーマさまだ!』とはしゃいだ声を上げた。聖母プラーマが微笑みを深くしてリプシーをその手で撫でて、それからその腕を伸ばしての額へと当てる。数瞬後、リプシーのときとは比べ物にならないくらいあたたかく溢れる光が彼女を包み込んだ。握っている手の体温が正常なものへと戻っていくのを感じる。
「………」
 彼女の顔がだんだんと安らかな眠りのものへと移行していく。安堵してはぁと息を吐いて肩の力を抜けば、リプシーがこっちへ来てくるくる俺の周りを回って『プラーマさますごい!』と歓声を上げた。俺もそれは思っていたことなので素直に心の中で肯定した。リプシーではどうにもできなかったものを、こうも簡単に癒してしまうとは。聖母っていうはすごい。
 けれどその聖母は少し苦い顔をして彼女を見下ろしていた。俺が眉を顰めて「どうかしたのか」と訊けば、聖母はこっちに視線を向けて静かに言った。
『彼女の精神状態は、今非常に不安定です。私の癒しで身体の状態は平常へと戻せますが、心を癒すことはできません』
「…分かってる」
 そう返してから、彼女の身体をそっと抱き起こした。何事もなかったかのように眠る彼女の額に口付けを落としてぎゅっと抱き締める。
「俺が…支える。一人にしたりしない。彼女と一緒に生きるって決めた。だから…大丈夫だ」
 ゆっくりと、少し癖のある彼女の髪を撫でる。ソルとおんなじだから、自分の癖毛は結構好きなのと笑っていた彼女。だけど髪の色はちょっと違うから残念、と眉尻を下げて少しさみしそうに笑っていた彼女。
 全部全部、俺が支えていくと決めた。零れ落ちる全てを俺が受け止めていくと決めた。
(大丈夫。大丈夫だ)
 リプシーが聖母の隣に並んで『がんばって』と言った。俺は少しだけ笑う。聖母が微笑んでいる。全ての者を癒す、その存在通りに微笑んでいる。
『ソル・セルボルト』
 フルネームで呼ばれてどきりとした。色んな意味で心臓に悪かった。セルボルトという家名。彼女と同じ家名。無色の派閥内で力のある一派の家名。色んな悪名を背負うこの家名。
 それでも聖母は微笑んで俺を見ている。
『貴方と契約を交わします。必要なときはいつでも私を呼びなさい』
「あ…、ありがとう」
 思わずそう返したら、聖母はくすりと微笑んだ。俺は手にした聖母プラーマのサモナイト石とポケットに突っ込んであるリプシーのサモナイト石に触れ、「送還」と呟く。聖母とリプシーを取り巻くように現れた魔法陣が白い光を発し、二人を光の粒子へと還していく。
 キン、と高い音を立ててその場から掻き消えた二人。しばらく呆然と、手の中の聖母プラーマと契約されたサモナイト石を見下ろす。
(俺が、契約した……のか)
 思って、ぼんやりしていたところからポケットに石を突っ込んで彼女を抱き上げた。癒してもらったとはいえ目を覚ますまでは安静がいいだろう。早くベッドに運んでやらないと。
 いつかに夢見た光景。彼女が楽しそうにくるくると踊っていて、すっかり元気になって血色もよくて、発作なんか起こる心配はもうなくて、ただただそこには笑顔と幸せだけがあって。
 そんな日を夢見ていた。そんな日は来るはずだと思っていた。誰よりも力があるせいで誰よりも苦しんでいる彼女こそ幸せになるべきだし、その権利もあるしそうなれるはずだと思っていた。
 それなのに、現実はそうじゃない。

 霊界サプレスの魔王を召喚する儀式を執り行う。お前は、その指導者となれ

 悪魔のような父親の言葉が甦り、俺は歯噛みしながら彼女を抱く手に力を込めて、ただ階段を下りる。
 それはつまり、彼女に生贄になれと言っているのと同じこと。
 大きな召喚で指導者たるものは、必ずそこで大きな役割を果たす。サプレスの魔王を召喚するというのならば、それは呼び出すだけでは済むまい。オルドレイク・セルボルトは狂っている。この世界を壊し新しい世界を創ろうと画策している。そこにいるのが自分達でなくともいいと思っている。ただ新しい世界を創造しようと目論んでいる。
 そして、を、その生贄に捧げようとしている。
(…させるかよ)
 具体的に何をどうとか、そんなことは分からない。だけどこれだけは、俺の中で決まっている。
を殺させはしない。絶対に)