目を覚ましたとき、全てが夢であったらいいと思っていた。魔王召喚の儀式だとかそのための生贄だとか新世界の創生だとか、そんな馬鹿みたいな話は全部夢であって、あたしはソルと一緒にどうやってここを抜け出すのかをまた考えている、そんな日常が待っていると信じた。
 そして目を開けた。いつもの部屋の天井が見えた。そしてあたしを覗き込むように、ソルがいた。
「覚めたか」
 ほっとしたように息を吐いてあたしの髪を撫でる彼。あたしはぼうっとしていた。まだ夢心地だった。一体どこが夢でどれが現実なのかと彷徨っていた。
「ねぇソル」
「何だ。飯か?」
「違う。ご飯はいい。そうじゃなくて、あたし、あの人に呼ばれて」
 言いかけて、唇を塞がれた。無論彼の唇で。だからあたしは目を閉じた。それならば、彼が言わせないとするならば、あたしがついさっき夢だと信じたかった出来事はみんな、現実。
(…そう。あたし、生贄になるんだ)
 あたしはきっと特にすることもなく儀式当日を迎えるのだろう。だって大事な生贄だ。むしろ護衛でもつけて身の安全を計るくらいのことするかもしれない。あたしは謹んで辞退するけれど。
 生贄だ。恐らく当日までは何不自由なく過ごせるだろう。予想でしかないけれど。
 だけどあたしは別に豪勢な食事やふかふかのベッドなんていらなかった。ただ今まで通りに、ソルがそばにいてくれるならそれだけでよかった。
 だからあたしはあえて、上にそう申請した。やっぱり護衛の話やある程度までの望みを叶えるという言葉があったけれど、辞退した。今まで通りでいいですからと。護衛は、見えない部分でだけでいいとも言った。むしろいらないと言いたかったけれど、それは上が許さなかった。

 どんどんどんどん、時間が削られていく。

 あたしは覚悟を決めていた。彼を巻き込むわけにはいかないと思っていたからだ。だから覚悟を決めていた。彼と離ればなれになる覚悟を。
 どの道残された時間は、あたしにとってそういうものであるとも理解していた。
 だからこそあの人も何も言わない。あたしがすべきことはこの世界に別れを告げることなのだ。全てにさようならをする。そうして何の心残りもなく召喚儀式のための肉体と成り果てる。
 迷いや躊躇いや戸惑いがあれば、その感情があれば、召喚儀式の妨げになる可能性がある。だからあたしに与えられた時間はそれらを排除する時間。
 あたしは知っている。ここがどんなに人間が生きるにふさわしくない場所かを。
 あたしは知っている。世界にはソルみたいな人だっているんだってことを。あたしが知っている世界なんて狭くて小さくてそして血に溢れたものだけど、そればっかりが世界じゃないってことを、あたしだって理解してる。ただあまり見たことがないから夢物語にしか思えないだけで、現実には存在しているってことを知ってる。
 あたしは儀式の生贄となる。この世界を壊す者となる。あたしは死ぬだろう。あたしの意識は死ぬだろう。
「ねぇソル」
「何だ?」
「あたしのこと好き?」
 だから訊いた。あたしの今までが嘘でなかったことを証明したくて。あたしの今までが決してあたしの勘違いではなかったことを証明したくて。
 彼は、少しクマのできた目元でいつものように笑った。
「ああ。好きだよ」
「あたしも、ソルが好きよ」
 目を閉じる。彼の胸に顔を埋める。あたしの頭を撫でた手が離れて腰に回される。あたしを片腕で抱き締めながら、もう片腕は机の上の羊皮紙に向けられている。彼は納得していない。今もペンを走らせ、あたしが生贄になることについての是非を問うている。そんなの無駄な抵抗だとあたしだって分かっていた。彼だって分かっている。だけどきっと、何もせずにはいられないから、そこまでしてくれるのだ。無意味だと分かっていることでさえ。
(あたしは、この人に会えて、本当に良かった)
 満足だった。あたしは満足だった。だから瞼を押し上げた。
 もう、時間はない。
(さよならをしなくちゃ。全てに)