「もういいよソル」
 何度目か分からない、魔王召喚に対する議論の文を叩きつけるようにしてペンで羊皮紙に文字を綴っていたとき。誰よりも一番損をする立場にある彼女がそう言って俺の手に掌を重ねた。
 ペンの握りすぎでできたペンだこ。彼女は俺の手の中からペンを取り上げるとかたんと机に置いて、机の上の羊皮紙を取り上げるとぐしゃぐしゃと丸めてぽとんと床に落とした。その顔はただただ疲れたように悲しそうで、俺は彼女にもういいよと言われたことが信じられなくて、言葉が出なかった。
「もういいの、ソル」
 静かにそう繰り返して、がゆっくりと俺の首に腕を回して抱き締めてくる。その背中に腕を回してぎゅうと抱き締め返して「」と彼女を呼んだ。が「ソル」と俺を呼び返す。
 ただただ悲しくて、自分の無力が許せなかった。だけど謝ることだけはしなかった。俺は諦めたくなかった。彼女を生贄に差し出すなんてことは、認めたくなかった。

 あれから魔王召喚のための準備は着々と進んでいる。それなのに俺ができることはとても少なかった。
 逃げるためのレヴァディーンを呼び出すことは、俺の召喚技術では無謀だった。暴走召喚を起こしかねないから、無理なランクの召喚獣への接触は無色でも用心している。レヴァディーンは最高位の霊竜だ。リプシーやグリムゥを召喚するのが精一杯な俺にはとてもじゃないが手が出せない。
 だけどはこの頃体調が不安定で、発作が出ることも度々だった。聖母プラーマを召喚する度、彼女はただ悲しそうに微笑んでを治して還っていく。それを繰り返す毎日だった。とてもじゃないが、彼女にレヴァディーンを召喚しろなんて言えない。言えるわけもなかった。
 だから何度も何度も抗議の文を書いた。それをどこにいるか知れない父親に送りつけた。だけど無意味だった。どれだけ論理的に書こうが損益的に書こうが、あの人の夢である新世界の想像の前には塵のようなものだった。
 父親の意見は変わらず、彼女が生贄候補なのも変わらず、無常に時間だけが流れていって。
 もう時間もないのに、俺は、何もできないでいる。


 ただ彼女を失いたくない思いで繋ぎ止めるように名前を呼ぶ。彼女が俺の頭を撫でて「ソル」と俺を呼ぶ。彼女が俺をあやすようにぽんぽんと背中を叩いて、「ソルに逢えてよかった」と呟いた。まるで別れを惜しむようなその物言いに思わず顔を上げる。彼女は俺を見ていない。その目はどこか遠くを見ている。
「幸せじゃなかったけど、それでもソルに逢えたから。一緒にいられたから。今までたくさん、たくさんのことをしてもらって…いっぱい笑えた。だからもう充分」
「やめろ…」
「ありがとうソル。ありがとう。あたし、きっと、」
「やめろってば!」
 叫ぶように彼女の言葉を遮ってがたんと席を立ち、胸に押し付けるようにして強く抱き締めた。俺の胸に顔を埋めながら、それでも彼女の声は聞こえた。
「あたし、幸せ、だった」
 彼女が閉じた瞼を押し上げてこっちを見る。俺はといえば、怯んだように心が震えていた。彼女は覚悟している。この先の言葉を言う覚悟を持っている。俺はそれを望んでいないし受け止めたくもないし聞きたくもないのに、彼女はもうその言葉を言う覚悟を決めている。
 彼女の唇が、動く。
「さようなら」
 ぐらりと目の前が揺れた。聞きたくない分かりたくない知りたくない。拒絶の反応ばかりが身体の中で巻き起こって制御ができなくなる。
 彼女が静かに俺の腕からすり抜けて、俺を置いて部屋の扉の方へ向かった。俺は呆然と、ただ立ち尽くす。知らない聞いてない俺は何も聞いてない。拒絶ばかりが心を埋める。
 がちゃり、と扉の開く音。そしてぱたんと閉まる音。
 頭が動かない。
(さよなら…? さよならって何だ。どうして。どうして……)
…」
 呆然と呟いて、その場に崩れ落ちる。石の床は冷たかった。ついた膝から全ての体温が奪われていくかのようだった。
 寒い、と思って腕をさする。まるで胸に穴でも空いてしまったかのよう。
 好きな人に別れを告げられるのは、こういう気持ちになるのかと、ぼんやり思って。それからのろのろと視線を上げて部屋の扉を降り返って、気配を探って、扉の向こうに誰もいないのが分かって。
 彼女は俺を置いて出て行ったのだ。もう決めてしまったのだ。諦めてしまったのだ。それを俺に伝えた。ただそれだけ。なら俺は、俺のすべきことは、一体。
(一緒に生きようって…幸せになろうって……)
 じわりと視界が滲んだ。もう外側から開かれることがない扉が滲んで見える。
 ああ俺は泣いてるのか。そう思ったら嗚咽が溢れてきて、涙が頬を伝った。ただ絶望感だけが胸を占めていた。穴が空いたかのように寒い心に、俺の身体は震えが止まらない。
 魔王召喚の儀式は明日。明日全てが終わるのだ。
 明日、彼女は、消える。