いつもと違う儀礼用の正装に身を包んで、召喚儀式のために円形に広がって長い長い詠唱を開始している召喚師を無感情に見つめながら、あたしは中央の祭壇への道をゆっくりと歩く。
 十数名いる召喚師の口から漏れる呪文の言葉が耳を打ち、後はただ荒野に吹く乾いた風が耳元を掠める音だけが響く。あとここにいるのは、あたしと召喚師を見張るように少し離れた場所に立っている、軽装備の兵が何人か。それでここにいる人は全部。
 あの人はいない。あたしの父親であるオルドレイク・セルボルトも、あたしの愛しい人であるソルでさえも。
 あたしは束の間、目を閉じた。

 見えるのは夢見た光景。あたしもソルも蒼い空の下で心から笑って過ごせて、楽しいことがたくさんあって、悲しいこともあるけれどそれを二人で乗り越えて、血のにおいのしない場所でひっそりと暮らす。小さくてもいいから一軒屋に住むのだ。木でできた家。石のような冷たさなんかじゃなく、自然の温かさに溢れた家に。
 二人でいつかきっと。そう約束して、生きてきた日々。
 いつかこんな血のにおいばかりする場所から逃げ出して、二人だけで暮らせたなら。それを信じて生きてきた日々。二人でならきっとできると手を取り合っていたあの日々。二人でならきっと何でもできるなんて子供じみたことをそれでも信じていた、あの日々。
 信じていたかった。奪われるばかりではなく、搾取されるばかりではなく、この世界にはきっと報いがあるのだと。きっとあの人と一緒に救われるのだと。いつかきっと、と。

 瞼を押し上げる。見える景色は変わらない。あたしは中央の祭壇、その白い階段に足をかけている。響く呪文の声。幾人もの声。感じる視線。あたしは見張られている。逃げ出すことはできない。
 あたしは一人ではきっと何もできない。
(いくら召喚術ができても、いくら召喚獣が呼べても、結局はあたしの心がくじけてたら無理なことなんだ)
 乾いた風に血のにおいはしない。見上げる空は蒼い。あたしが望んだ空だ。こういう空の下でいつも暮らしていたいと思っていた。あんな鉛色の雲がいつも立ち込めるような場所でなくて、こういう場所にいたかった。
(…もう全部終わり)
 あたしは祭壇の中央に立つ。気持ち悪いくらいに白一色で作られた祭壇。そこに立って、あたしはただ空を見上げる。だんだんと濃くなるサプレスの気配に、じりじりと肌が焼かれるのを感じながら。
 ソルは、来ないだろう。だってあたしは彼を突き放した。そうしないと彼まであたしに引き摺られてこっち側に来てしまうと分かっていた。彼とあたしはいつも一緒だった。だからこそあたしは彼を突き放した。それはあたしにも大きな傷を与えた。だけどそれで彼があたしから離れるのならば、それでもいいと思った。
 彼なら、きっとあたし以外の人からも愛されるし、生きていける。彼は強い。あたしでなくても誰かがいる。だからきっと大丈夫。
 彼はあたしに絶望したはずだ。あたしは彼を突き放したのだから。
(ごめんねソル。ごめんねソル。ほんとは今もまだずっと大好きなのにね)
 開く門の気配。あたしは目を閉じる。見えるのは彼の色々な表情。あたしを心配して眉尻を下げている顔やちょっと喧嘩して言い争ったときの顔や、嬉しそうに笑っている顔。好きだよと言ってキスしてくれるときの唇の感触。発作で倒れたあたしを本気で心配して泣きそうな顔をしていたこともあった。今までの色々な彼が思い起こされてあたしの中を走馬灯のように駆け巡る。
っ」
(ほら、幻聴まで。あたしってばほんとにソルが好きで好きでたまらなかったんだなぁ)
っ!」
 二度目の呼ばれる声に、あたしはまさかと思って目を開けて振り返った。見れば警備の兵を振り払ってこっちへ来ようとしている彼が見える。幻、ではない。
 あたしの唇が動いて「ソル?」と彼を呼ぶ。自然と足が祭壇から離れそうになる。彼が兵に押さえつけられて地面に押し付けられても尚、視線をあたしから離さずに「戻れ!」と声を上げている。
「許さないからな! 一人で全部決めて勝手にさよならなんて俺は許さない! 俺はまだお前と一緒にいたいんだっ、!」
 彼が叫んでいる。どうにか拘束を逃れようと暴れている。警備兵が二人がかりで彼を押さえ込み、「黙れ」と言っているのが聞こえる。
 あたしの芯はぐらぐら揺れていた。揺れていた。
 甘かった。そうだ。彼があれくらいで、あたしから離れていくわけがなかった。
 あたしだって同じことがあったら、絶望して傷ついて、でもどれだけ辛くても、きっと最後には彼についていってしまう。
 そんな簡単なことにも気付けなかったなんて、あたしも馬鹿だ。大馬鹿者だ。
「ソル…」
 サプレスの気配が濃くなる。少しのハプニングにも全く動じない召喚師達は途切れさせることなく詠唱を続けている。あたしはぐっと強く目を閉じる。「っ」とあたしを呼ぶ声が聞こえる。呼んでくれる声が。望んでくれる声が。
 あたしは瞼を押し上げ、精一杯笑った。キィンと門の開く音。あたしの頭上に溢れる気配。勝手に涙が出てきた。それが頬を伝い顎を伝ってぽたりと祭壇に落ち、僅かな染みを作る。
「さようなら」
(ごめんねソルごめんねソルごめんねソル、ごめんね)
 光が溢れる。あたしの頭上から、あたしを照らす光。彼があたしを呼ぶ声が遠くなる。叫ぶような声が遠くなる。
(ほんとはもっとずっと一緒にいたかった。一緒に生きたかった。ずっとずっと一緒に、)
 あたしの上に何かがいる気配。あたしは目を閉じる。光の中、目を閉じる。
(死にたくない…)
 何かが、あたしの中に、空気のように取り巻く気配。
(死にたくない)
 と、声。
(死にたくないっ)
 ソル、と動いた唇が最後。あたしは全身の感覚を失って、ただ光で真っ白な瞼の裏の視界の中、自分という感覚が崩れていくのを感じた。