背中から生えた翼は手足のように自由が利いた。あたしはそれを用いて手にした柄も刃もクリスタル色でできた剣を振るい、何度目か分からない血を浴びた。あれだけ嫌いだったはずの赤い色。それを目の前で自分の手で咲かせることに、あたしは今喜びを感じている。
 こんなところ壊れてしまえばいいと思っていた。こんな場所などエルゴの制裁にあって壊れてしまえばいいと思っていた。
 そしてその制裁を、あたしが今この手で下している。
「死になさいよっ!」
 召喚術を発動しようとしていた召喚師をまとめて二人横に薙いでぶった斬った。ぶし、と壊れたように噴き出す血と悲鳴と怒号にあたしは歓喜する。剣を振るう手に力を込め、遠くから投擲された槍を薙ぎ払った。
 ああなんてことだろうか。大嫌いな憎い憎いこの場所をこの手で壊せることがこんなに嬉しいなんて。
 空を切って飛んできた無数の矢と投擲ナイフ。あたしはそれをつまらないなぁと思ってその動きを空中で止めさせ、全てを逆向きに変えた。それから剣の一振りで全てがさっきと比べ物にならないスピードで各々の武器を放ったもののもとへ帰り、突っ込む。
 次々と咲く赤い花と悲鳴に、あたしはまた笑う。
「あたしの今までの苦しみはこんなもんじゃないわ! もっともっと苦しんで思い知りなさい!」
 剣を握っていない方の手を掲げて空へと向ける。あたしの掌の上で形成された真っ黒く濁った光の弾を無差別に下方に飛ばした。どぉんと地面がそこかしこで爆発する。また火の手が上がる。赤い色。それにあたしは笑う。
「いい気味…こんな場所、あたしが壊してやる」
 自分の口元が歪んでいるのを感じていた。あたしは笑っている。歓喜している。破壊の衝動に身を任せ、笑っている。
 塔の一番上へと加速して飛んだ。剣で空を指すようにして掲げ、さっきとは比べ物にならない大きさの真っ黒く濁った球を作り出す。ばちばちと静電気のような摩擦熱を放ちながらさらに大きく大きく膨らむそれに、あたしは笑う。
 こんな場所、壊れればいい。血のにおいしかしないこんな場所はあるだけ無駄だ。だから一番最初に壊してあげる。こんな場所ない方がいいんだから。
 そう思って剣を大きく振りかぶり振り下ろそうとしたとき、予想もしない光景がよぎった。
『これからは一緒に暮らそう』
 聞こえた声に、ぴたりと剣の動きが止まる。あたしは目を見開いて下方の塔を見つめる。憎い憎い場所を見つめる。
 彼が見える。大好きな彼が見える。あたしを見て照れ臭そうに笑っている、いつかの彼が。
『好き合ってるのに離れて暮らすなんて、なんか嫌だしさ』
 彼があたしを見て笑う。駄目かな、と笑う。
 いつかのあたしは首を振って、ううんと返した。嬉しい、と顔をほころばせて彼に笑っていた。
 それも、この塔の中でのこと。
「あ……」
 剣を握る手がかたかたと震えて、あたしの頭上に大きく大きく膨らんでいた黒い球が膨張するのをやめて動きを止めている。ただぱちんとときどき思い出したように紫色の粒子を散らせて、あたしの頭上で静止している。
(ソル)
『好きだよ。
 照れ臭そうに笑う彼があたしにキスして笑った。あたしは不意打ちのキスにちょっとむくれてずるいソルと返す。彼がまた笑ってとあたしを呼ぶ。あたしは彼の胸に頭を預けて彼の背中に腕を回し、ソル、と彼を呼ぶ。
 幸せだと思った。あのとき確かにあたしは、こんな場所に生まれて世界を憎んで憎んで悲しんで、だけどソルと出遭えてこの世界に感謝して感謝して感謝して、あたしは、世界を憎んで愛していた。ソルと出遭えたことに感謝していた。ソルを生んでくれたこの世界に感謝していた。こんな世界だけど、それでも。
「ソル……ソル…」
 彼の名前を呟いて、あたしは振り上げていた剣をぶらりと力なく下ろした。ぱちん、と音を立てて黒い球が消えていく。
(助けて…助けてソル)
 自分の肩を抱くようにしながらよろよろと塔の屋上に下り立つ。柵も何もない屋上は、死にたかったらここから飛び降りて死ねばいいと言っているかのように開放的だった。ただ下の階からここへと上がるための入り口だけがぽっかりと口を開けていた。
 クリスタル色の剣は一滴の血にも汚れていなかったけれど、あたしの身体は返り血で真っ赤だった。白い儀礼服だけにその色は余計に目立っていた。
「ソル…ソル……」
 ぎゅっと目を閉じて彼の名を呼ぶ。それで来てくれるわけでもないのに。
 だけど、声はした。
っ!」
 あたしは目を見開いて顔を上げる。彼がいた。淡い光に包まれて、今そこに現れたかのように立っていた。その背後には天使、いや聖母。あたしの中のあたしでないものが剣を振り上げようとするのを必死に留めてもう片方の手で自分の腕を掴んだ。自分の腕でないように奇怪な動きをしてそれでも剣を振り上げようとする腕を必死で押さえる。
 彼が「っ」とあたしを呼んでこっちに駆け寄ってくる。あたしはばさりと翼を動かして空に飛んで彼の手を逃れて「来ないでっ!」と声を荒げた。あんなに助けてと願っていたのに駄目だと頭が言っていた。あたしの心は助けてほしいと望んでいるのに、あたしの頭はそれをよしとはしなかった。
 理由はたくさんある。だけど一番の理由は、
「ソルまで殺しちゃうかもしれない…っ」
 目尻からするりと涙がこぼれて落ちた。彼が足を止めてあたしを見上げ、それでもあたしに手を伸ばして触れようとしてくる。その手から逃れるために、あたしはさらに空高くに舞い上がる。
 彼に触れたらどうなってしまうか分からない。殺してしまうかもしれない。それだけは、耐えられない。
「来ないで…どこか遠くへ、逃げて」
 本心でない言葉が漏れる。あたしはぼろぼろと涙をこぼして泣いていた。さっきまでここを壊すことに歓喜して歪んだ笑いを浮かべていたくせに、今はとにかく涙が出て仕方なかった。彼が顔を歪めて「泣くなよ」と言う。届かないと分かっていながらそれでも手を伸ばしてあたしに近付こうとしている。
「俺はお前の側にいたいんだ」
「駄目っ、駄目。殺しちゃうかもしれな、」
「お前がお前なら、俺を殺したりしないよ」
 少しもあたしを疑っていないその声に目を開く。彼があたしに向かって手を広げて、笑っている。さっき見た笑顔と同じだ。少し照れ臭そうに、それでも笑っている。
「例え魔王を宿していようと関係ない。俺がって呼んでお前が答えるなら、お前はだ。俺と幸せになろうって決めただ。そうだろ?」
「ソ、ル…」
 手の中の剣が、まるで掌に張り付くようにして離れなかった剣がするりと落ちて塔の屋上に突き立った。来いよ、と彼が笑っている。あたしは返り血で真っ赤でここで何をしていたのかなんて分かりきっているのに、それでも笑っている。他でもないあたしに向かって。
(幸せに…)
 いつか、木でできた温もり溢れる家に住んで、ひっそりとでいいからそれでも二人で暮らして、血のにおいのしない場所で、笑っていこうと。笑っていようと。一緒にいようと。生きようと。
「一緒に生きよう、
 彼がそう言う。あたしの視界はさらに滲む。
 あたしは墜落するように彼に向かって飛び立って、抱きついた。彼が勢いに負けて「ぅわ」と声を漏らして背中から倒れ込み、あたしはその胸に顔を埋めて「ソルぅ」と彼を呼ぶ。声が滲んでいる。彼にも血の色が移ってしまうと思ったけれど、彼が邪魔な翼をものともせずに背中に腕を回してきたので離れるに離れられなくなった。
。ようやく掴まえた」
「う、うぅー」
 じわじわと滲みっぱなしの視界であたしは彼にこくこくと頷く。彼が笑って「ありがとうプラーマ」と言った。あたしは視線だけ上げて向こうの方にいる聖母を見る。彼はプラーマなんてものが召喚できたのかと思いながらも、あたしの中の魔王が暴れないようにと努めながら聖母を見やる。彼女はただ慈愛に満ちた微笑みを浮かべてこっちを見ていた。
『私にできるのはここまでです。後はあなたたちの手で』
「…ああ」
 そう言うと聖母はきらきらとした光の粒子となって空気中に消えてなくなった。還ったのだ。あるべき場所へ。
 ソルがあたしを抱き締めて、額にキスをした。あたしは彼へと視線を戻す。まだ涙で視界は滲んでいた。だけど彼はいつもと変わらずにあたしに接している。「どこか痛くないか?」なんて言うから思わず首を振って、それからあたしはまた彼の胸に顔を埋めて息を吐き出す。
(本当に…あたしはあたしのままでいられるかな)
 彼が好きだ。それは今もそう。あたしは彼に恋している。そしてきっとこれから先も彼にしか恋できないだろうと思う。
 あたしの感覚は、じわじわとあたしでないものに支配されてきている。そんな気がする。
(駄目…気をしっかり持って。ソルがいるじゃない。あたしは一人じゃない)
 あたしは顔を上げてソルを見つめ、なんとか、笑ってみせた。
「ソル」
「何だ」
「大好きよ」
 彼が驚いたように瞬きして、破顔して笑う。「俺だって」とキスしてくれる彼に、あたしは笑う。心から笑う。ちゃんとあたしはあたしが思っているように笑える。
 だから大丈夫だ、と思う。
 例えこの身に悪魔が宿っていようと、いつか、心も身体もその悪魔に食われるのだとしても。