「シーンク」
 ぴょこんと教室に顔を出す。そうすると眼鏡をかけて文庫本の方に視線を落としていたシンクが顔を上げて私を見た。「ああ終わったの」とぼやく声に、もう誰も残っていない教室に入って「ごめんね、委員会長引いた」と言いながら彼のそばへ行く。
 ぱんと眼鏡をケースにしまった彼が文庫本を鞄に突っ込んで席を立った。「いいよ別に」と言って歩き出すシンク。
 ものすごく、遅くなった。予定では六時には終わるはずだったのにもう七時だ。さすがに怒ってるかなと思って窺うように彼を見たけれど、ぱちんと教室の電気を消して鍵を手にして私を振り返って「何してんの閉めるよ。閉じ込められたいの」なんて言うから慌てて教室から出た。
 かちんと扉を施錠したシンクに「あの、ごめんね?」と謝れば、顔を上げた彼が「別にいいよ。って二回目なんだけど」と言うから眉尻を下げる。それはそうなんだけど。
 かつと一歩踏み出して階段へと向かう彼についていきながら、どうやら怒ってないようだと思ってほっとした。
 鍵を返すために職員室に寄る。私は外で待っていた。途中で「ああシンク、明日のことなんだが」と彼が先生に呼び止められる声を聞く。
 実はシンクは生徒会長なのだ。次期、だけど。今の三年生が引退したら彼が生徒会長になる。ものすごくめんどくさいと彼は押しつけられたそれを嫌がっていたけど、私はちょっと嬉しかった。
 だから今日も、生徒会なんてめんどくさいって思ったけどちゃんと出てきたのだ。そして次期も生徒会に入る気でいる。書記でも何でもいいから。だってそうしたら彼と一緒にいられる時間が増えるのだから。
(生徒会長かぁ)
 なんとなく生徒会長になった彼を思い浮かべる。別に今までと変わらない。ただバッジが一つ足されるだけだ、会長のそれが。
 そうするとその彼の彼女である私からしたら、やっぱり嬉しい。なんだか彼がえらい人になったみたいじゃないか。
 そんなことを考えていたら「失礼しました」と言って彼が職員室から出てきた。はぁと息を吐いて「今から生徒会長引き継ぎの話されちゃったよ」とぼやくから笑う。「頼られてるんだよ」と言えばそっぽを向いた彼が「面倒ごと押しつけられただけだと思うけどね」と言って私の手を引っぱって歩き出した。面倒ごと。まぁそう言えばそうなんだろうけど。
「夕飯。どっか寄る?」
「え」
 帰り道。手を繋いで歩きながら、そんなことを言われた。私はぱぁと自分の表情が明るくなるのを自覚した。「うん行く!」と、元気よく返事してしまう。そうすると彼の横顔が少し笑みを浮かべて笑う。握られている手が少し強くなる。だから私もその手を握り返す。そうして笑みがこぼれる。
 こんなにも私は幸せだ。
 この人は勉強もスポーツもできるし不可能はないってくらい何でもこなしてみせる人。当たり前にモテる。そんな彼の彼女をしてる私はたまに不安になる。彼が告白を受けることなんて日常茶飯事だ。だけど彼はそれを全部断る。悪いけど彼女いるからと、ちゃんと断る。断ってくれる。
 だから私も、彼と付き合うようになってから色々、大変な目にはあった。たとえばいじめ。私と彼はクラスが違う。だから授業とか体育の時間とか色々厳しいこともある。だけど何より彼が私を思ってくれていることはいつも分かる。感じている。
 彼は私と一緒に帰ってくれるし私と一緒に登校してくれる。道は途中から分かれるけど、駅までは絶対一緒。いつも私を見送ってくれる。また明日ねって言ってくれる。ちょっとだけ笑ってくれる。それがとても嬉しいのだ。
 そして朝。決めた時間の電車に絶対に乗っていく。そうすると彼が駅で私が来るのを待ってくれている。私を見つけると分かりやすいようにちょっと手を上げてくれる彼。そんな彼に私は駆け寄る。笑顔でお早うと言う。一番最初に登校してお早うを言うのは彼にだ。そうして彼も挨拶を返してくれる。少しだけ口元を緩めて笑って、お早うっていつも。
 私はこんなにも幸せだ。
「ねーシンク、これどうかな。駄目かな」
 彼に宿題の論文を見せる。頭のいい彼は私の勉強だって見てくれる。ルーズリーフを取り上げて顔を顰めた彼が鞄から眼鏡を取り出した。そう、シンクは目が悪いのだ。
 眼鏡をかける仕種一つ取っても、彼はかっこいい。
「……微妙かな」
「え、どこら辺が駄目かな」
「広く浅くっていうのはいいけど、もう少し掘り下げた方がいい。じゃないと自分の考えじゃないみたいに見えるから」
「むーん…そっか」
 帰り道に寄った、駅の並びにあるモスバーガー。淡い橙の灯りのせいで字が見えにくいんだろう、彼はルーズリーフを睨みつけるようにしながら私の考えた文を全部読んでくれる。そしてちゃんと答えてくれる。私はそれが嬉しい。
 彼が私にルーズリーフを返しながら眼鏡を外して「テスト勉強は?」と言うから、眼鏡を外す動作一つ取っても様になるなぁとか思ってた私は予想外の言葉にぎくと固まる。委員会委員会で次期候補選出やら引き継ぎの作業やらに追われていて実はやってない、何てこと、言えない。
 だからあははと空笑いで誤魔化す。彼が息を吐いて「やってないね」と言うからぎくっと固まる。何でもお見通しだ、シンクは。
「だって忙しいんだもん」
「…これ以上順位下がるとまずいんじゃないの?」
 頭のいい彼はテスト勉強なんてしないらしい。それってつまり天才ってやつなんだろうかと思いながら、天才でない私は勉強をしないとならない。テスト勉強。もう残りニ週間を切った。二年生だ。大学や短大その他推薦を狙うならここら辺から本気を出さないといけないところ。でも私、頭よくないし。勉強苦手だし。
 誤魔化すようにずぞ、とオレンジジュースをすする。
「シンクは大学?」
「別に…考えてない」
「なんで? 行こうと思えばどこだって行けるよ、シンクなら」
 もったいないと首を傾げると、彼ははぁと息を吐いた。それから私の額を小突いて「の学力を考えたら早々決められなくてね」そう言われて一つ瞬きする。ポテトをつまんで口に運びながら、彼は言う。「ボクが行けるところでが行けるところなんてそんなにないだろ」と。
 だから、私はまた嬉しくなる。だって彼は私といる未来を選んで考えてくれているのだ。
 緩む頬を自覚しながら「シンクは優しいね」と言うと、彼はあんまり表情を変えない人だけど、「別に。にだけだし」ぼそぼそそう言った顔には素直じゃない照れが見える。だから私は余計に嬉しくなる。シンクは私にだけそうしてくれる。
「あのね、私どうしようかって思ってるんだけど。どうしよう」
「…それはボクだっておんなじだよ」
 それでそう言われて驚いた。先のことも全部考えている彼のことだからてっきりこう、道は絞られてるんだろうなと勝手に思っていた。そんな私に彼が呆れた顔をしてもふとテリヤキバーガーを食べる。
「ただ」
「ただ?」
「…は馬鹿だから。ボクが見てないとね」
 頬杖をついた彼がそう言って視線を窓に逃がした。私は瞬きする。最初にも言われた。あんたって馬鹿だよねと。
 首を傾げてシンクを見つめる。テリヤキバーガーを食べながら彼はポケットで震えている携帯のフリップを開いた。どうやらメールのようで、うざいと言うように眉根を寄せてぱんとすぐ閉じてしまう。
 私の視線に気付いた彼が顔を上げて「何?」と言うから、私は「えっと」と困る。
 何と言われると。私にもよく分からないのだけど。
「…シンクはどうして私が好き?」
「何急に」
「や、だってほら、シンクはモテるでしょ。でも私こんなだし。馬鹿だしさ」
 ポテトの方をつまむ。マックとモスなら私はモスが好きだ。塩辛いマックのポテトも好きだけど、皮がついててざっくり切りで塩味の薄いモスのポテトも好き。オニオンフライが入ってるところも。
「なんでシンクは私と付き合ってるのかなぁって、考えるの。ときどき」
 ぽいと口にポテトを放り込んだ。シンクが目を細めた。多分あんまり見えてないせいだ。
「ないと思うよ。理由なんて」
「え?」
「好きっていうのに理由はないんだと思う。惹かれるものは惹かれる。音楽だってそうだ。好きなものは好き。そうでしょ」
「そ、うだけど」
 ふうと息を吐いた彼が「分かりやすく言うなら運命だよ」と、そう言うから。だから私は首を傾げる。運命。そんな不確かなもの、彼が口にするとは。
 私はときどきすごく不安になる。彼は私のどういうところが好きなのだろうと。
 私は彼の全部が好きだけれど、それってつまり具体的にどこなのだろうと自分に問うといつもあれってなって。どこが好き、って言われると自分でもよく分からなくなる。だからそれって好きって言っていいのかなと思ったりする。考えたりする。
 だけどシンクと一緒にいられれば嬉しいし、シンクが笑ってくれればもっと嬉しいし。シンクがって呼んでくれるのがとても嬉しい。それが現実だ。
 だから、彼の言うように。好きっていうのに理由は特に存在しなくて。強いて言うのなら運命で。ただ、その存在を望んでるってことなのかなぁと、馬鹿な私は考えたりする。
 私はただシンクって人を望んでるのかなぁと、考えたりするのだけど。
(じゃあシンクは、ずっと私が好きかな。望んでくれるかな)
 帰り道。駅前。私はここから電車に乗って帰る。彼の家がどこにあるのかはまだ知らないけど、どうやら近くらしい。彼曰く、私が行けるようなあんまり学力のない高校を選んだのも近場だったからとのことだったし。
 彼は何事にもこだわらない。そのくせ何でもできる。
 それってずるいなぁと思ったけれど、シンクならそういうのもありかもなぁと曖昧なことを考えたりして。

 呼ばれて顔を上げる。定期を手にして改札に並んだところだった。振り返れば、彼が呼んでるのが分かった。だから私はたったか彼に駆け寄る。
「何?」
 忘れものか用事か何だろうと思った。思ったけどそのどれでもないようだった。私の手を取って引き寄せた彼に、私はお付き合いし出して初めて抱き締められた。実は半年も付き合っているけれど、まだ手を繋いだことしかなかった。驚きで目を見開く。あったかい。
 少し、ほんの少し。多分一秒とか二秒とかそれくらい。それくらいだったけどキスされて。それですぐにぱっと離された。
 何が起こったのか分からず呆然とする私から顔を背けて彼が言う。「大丈夫だよ」と。そうとだけ。
 急にぼんと顔が熱くなるのが分かった。今私の顔って赤いんじゃないだろうか。そう思うと視線がおろおろする。だって見える限り彼の顔だって赤い。私から隠すみたいにした横顔だって、赤いのだ。
「、あの、シンク」
「行きなよ。電車来るよ」
「え、」
 振り返る。そうすると確かにアナウンスが流れていて『まもなく電車が参ります。黄色い線の内側までお下がりください』と言っている。だから一歩踏み出しながら彼を振り返る。顔を背けたままだったけど、彼はちょっとだけ手を振ってくれた。だから私もほっとして手を振り返す。ぴっと改札に定期をかざして通り抜ける。電車がホームに滑り込んできた。あれに乗らないと次は十五分後。そんなに待たされるのはごめんだ。
 だから電車に乗り込みながら彼を振り返った。いつもの通り、私が乗った電車がホームから出るまで彼は改札の向こうで私を見送ってくれている。目が悪いんだしきっともう私のことなんて判別できてないのかもしれない。だけどいつも、彼はそうして私を見送ってくれる。
 ふいに着メロが鳴って、慌てて携帯をポケットから出した。電話。相手は今私を見送ってくれている彼。
 ぴっと通話ボタンを押す。『扉が閉まります。ご注意ください』というアナウンスと一緒にぷしゅーと音を立ててドアが閉まる。シンクはまだいる。携帯を耳に押し当ててる。
『言っとくけど、ボクは本気だからね』
 そして聞こえた声。走り始める電車。私は流れ始めた景色にとけて消えてしまった彼を思った。
「…じゃあよかった」
 そう絞り出した自分の声は濡れていた。さっき一瞬だけ触れた唇に手をやる。ああなんだか私、泣きそうだ。
『泣かないでよ。泣かれてもそばに行けないんだから』
「、わかってる。わかってるよシンク」
 ぎゅうと携帯を握り締める。
 ぐいと袖で目を擦って顔を上げた。流れていく窓の外の景色。ほんとは電車内では通話はご遠慮くださいだ。だから握り締めた携帯から『じゃあね。また明日』という声がして、私は笑う。シンクはちゃんと私の状況も思いも全部分かってる。
「うん、また明日」

が終わり
ここにが始まる