かつかつかつと気持ち速足で暗い廊下を歩いた。橙の灯りは心ともない感じで廊下を定間隔で照らしているものの、薄暗いことに変わりはない。
(随分遅くなった。会議が長引いたせいだ)
 ぐいと襟元を引っぱって窮屈だった制服の前を開ける。なんたってこんな着づらくて脱ぎづらいものが制服なんだ。ヴァンもどうかしてる。
(いや、そんなの今更か。今更すぎる。世界を造り変えようとしてる奴なんてろくな奴じゃない)
 かつ、と足音を立てて部屋の前に立つ。そこで一つ深呼吸をしてしまうのはもう癖だ。
 ゆっくりとノブを回してドアを開ける。薄暗い部屋の向こう側は廊下よりもずっと暗かった。明かりがついていない。目を細めて部屋に踏み入り、手探りでスイッチを探してかつと指先に触れたそれをぱちんと弾いた。ぱ、電気が灯る部屋に視線を移す。彼女の車椅子は、窓辺にあった。
 ぎょっとする。窓が開いていた。彼女が窓辺に左手をついて車椅子から立ち上がっていた。慌てて駆け寄って「何してんのっ」と声を荒げぐいと細い肩を引っぱる。バランスを崩した彼女がどさと車椅子に座り込み、それから包帯に隠れたままの両目でボクを見上げて首を傾げた。
「窓を開けたの」
「そんなの見れば分かる。危ないだろ」
「位置ならもう憶えたから大丈夫よ」
「そうじゃなくて…」
 はぁと息を吐く。彼女はまだ不思議そうに首を傾げていた。ただ表情は読めないから、そう見えるだけだけど。
 ぱたんと窓を閉じる。もしも手を滑らせて窓から転落していたら。高さは大したことない、だけど目が見えないんだ君は。かろうじて千切れかけてた右腕は機能してるけど、それだってとっさの防御は取れない。それでもし変なふうに落ちて頭を打ったり首の骨を折るような事態にでもなったらどうするんだ。
 鍵をかけながら「もうしないでよ。危ないから」と言うと、彼女が顔を俯けて「ごめんね」と言った。そう出られると今度はボクが参ってしまう。別に、そんなに落ち込まなくても。
 仕方ないからボクは小さく理由を付け足した。彼女には何事も言わなければ伝わらない。
「手、滑らせて、窓から落ちたりしたら大変でしょ。目見えないんだから、もっと自分を気遣ってよ」
 ぼそぼそそう言うと、彼女が顔を上げてボクを見た。それからくすりと口元をほころばせる。今ではそれでしか彼女の笑う顔が分からない。もう彼女に目はないのだ。
「心配してくれたんだ。ありがとう」
「…別に」
 しゃ、とカーテンを引く。彼女が座っている車椅子を押して窓際から離れさせ、ベッドの横に移動させた。「横になる?」と訊くと彼女が首を振る。
「シンクと話がしたい」
 その言葉にボクは押し黙った。正直な言葉はいつも嬉しい限りだけど、でも真っ直ぐすぎて、そういうものにまだ不慣れなボクはいつも一人で勝手に照れてしまう。別にそういう意味があるとは限らないのに。
 ぎ、とベッドに腰かけて仮面に手をかけた。「いいよ。話そう」と言いながら仮面を外してそれをベッドに落とした。彼女の前ではボクはボクでいられる。それは解放感があった。ついでに着替えてしまおうと制服に手をかける。
「今日はいつもより遅かった?」
「うん。会議が長引いた」
「あのね、確かめようと思ったの。この部屋は音時計なかったから。瞼の裏に射す光のぐあいで、今何時かなって、分かるかと思って」
「…だから窓なんか開けてたの」
「だって」
 彼女がふてくされたように唇を尖らせた。そもそももう目がないんだから、瞼の裏に光が射すなんてことはもう。でもそれは言わずに自分の胸のうちにしまい込み、ばさと上着を放りながら「ごめん。忘れないうちに音時計買ってくるから」と言う。目が見えない彼女にとって時間間隔は曖昧だ。だから何時かを告げる時計くらいないと時間なんて分からないのだろう。
 目が見えないというのは本当に不便だ。
「食事、摂った?」
「まだ」
「じゃあ食べよう」
 今更気付いた、テーブルの上に放置されている彼女の食事に視線をやる。ボクが受け持っているとはいえ彼女の食事はちょっと質素だ。ヴァンとかが受け持てばもっと違うましなものを食べさせてやれるんだろうか。これじゃまるで病人食じゃないか。
 黒いシャツに袖を通しながら悶々と考えていると、彼女が首を傾けた。
「シンク今何してる?」
「着替えてる。制服のままだったから。もう終わるよ」
 ばさとズボンを放って普段着の黒いジャージ生地のズボンを履く。彼女が傾げていた首を戻して少し残念そうに笑って「音で何してるか分かるようにならないと駄目だね」と漏らす。そんなの熟練者だって難しいよと思いながら放置されている食事のトレイを引っぱった。スープを手にしてスプーンを突っ込む。
「はい、スープ。今日のはコンソメかな」
「コンソメかぁ。私好きだなぁ」
 彼女があーんと口を開ける。そこにこぼさないようにスプーンを運ぶ。舌に触れると彼女が口を閉じる。彼女が口を閉じ切ってからボクはスプーンを抜く。
 そんなことを繰り返して彼女の食事をすませる。もちろん時間はかかる。だけどボクはこの時間が嫌いじゃない。
「美味しい?」
「うん。ちょっと冷めてるけど」
 彼女が口元で笑う。だからボクも笑う。
 こういう時間は嫌いじゃない。むしろ好きだ。彼女はボクの手がないと生活できない。ボクが世話をできない間は女の教団員が世話をしているけど、ボクがいるときは彼女の世話はボクがする。それが嫌いじゃない。
 彼女がボクなしでは生きていけないように錯覚するから。
 そして、彼女がボクを求めてくれているようにも、錯覚するから。
「ねぇ」
「ん?」
「今度外に行く? 久々に休みがもらえそうだから」
 そう言ったら、彼女が表情を輝かせた。その目はもうない。だけどそう思えるくらいに嬉しそうに口元で笑ってみせた。ずっとこんなところにいたら彼女だって退屈だろうと、そんなことは分かってた。ただ仕事が仕事で彼女にちゃんとかまってあげられる時間がなくて。
 腕を伸ばしてボクを探すように虚空を彷徨う手を取る。ほっとしたように彼女が口元を緩め「行きたい。見えないけど、外のにおいとか、風とか感じたい」と言った。
 それは普通に生活していればどうってことないものだ。だけど彼女はもう違う。あれから、彼女が目を覚ましてから一ヶ月。ようやく目が見えないことに慣れてきた彼女だけど、そんな彼女の世話に慣れてきたボクだけど、まだまだ色々足りてないと思う。
 だから無理を言って休みをもらった。ヴァンが苦い顔をしていたけど知るもんか。
 空になったスープの器を置いてサンドイッチを手に取る。「次サンドイッチ。ツナ、かな。食べられる?」「うん」彼女の口元にサンドイッチの先っぽを運んだ。ぱく、とくわえた彼女が先を噛み切りむぐむぐと租借する。
「ねぇ」
「む?」
「…後悔、してない?」
 ついそうやって訊いてしまうのは、まだ心に残る同情のせいだ。
 彼女が首を傾ける。きれいだった髪は、千切れていたり長さがばらばらになっていたからボクが適当に切り揃えた。ショートカットくらいの長さになってしまった髪を揺らし、彼女はやっぱり、ボクがそうとしか知らないように笑うのだ。
「してないよ」
 だからボクはいつもそんな質問を口にしたことを後悔するのだけど、でもどうしたって彼女のことが不憫に思えてしまって。あんなに笑って自由で楽しそうだった君が今は車椅子で誰かの手がないと立つこともできない。食事一つ取っても彼女はかわいそうな人になってしまった。
 だけどいつも彼女は決まって後悔なんてしてないと言う。だからボクは、彼女がいいならそれでいいと思う。かわいそうなのかもしれないけど、だけど彼女がそれでもいいって言うんならボクだってそれで。
 ささやかだけれど、彼女とのこの時間が、今のボクには何よりも大切なものだ。