生きることに必死な君は


僕をみようとはしてくれなかったね

 その人はしっかりと前を向いて歩いてきていた、生きていると言える人だった。だから大嫌いだった。生が実感できずに世界を呪うことでしか意識を維持できないボクとは、まるで正反対のような人だったから。
 その人はよく笑う人だった。例えば任務でものすごく無謀なことを課せられても、しっかりと前を向いて、真っ直ぐすぎる瞳ではいと、そう肯定の返事をする人だった。
 疎ましいと思っていた。その人はいつも輝いていた。ボクから見た視点でしかないけれど、その人は生きることにとても一生懸命で、眩しいくらいに一生懸命で、ああやって生きられたならきっと後悔もよりよいものとなり、生きていることにも感謝できるのだろうと思っていた。

「あ、シンク」

 誰とも親しく接するその人。どんな人にも笑顔を向けるその人。仮面をつけて素性の知れないボクにだってその人は平等に笑いかけた。ボクはいつもその人を無視する。苛々した。苛々して毛嫌いしてその人からまるべく距離を取った。
 疎ましいと、そして羨ましいと、ボクは思っていたのだ。
 そんなふうに生きてみたかった。生まれてしまったのだから呪うこと以外の術を探せばよかった。だけどそんな暇もなかったし、気付いたら組み込まれていた。世界崩壊のレクイエムを奏でる奏者の一人として。
 馬鹿みたいに真っ直ぐなその人はボクとは正反対。だから関わることはない。ボクはその人を避けている。向こうだってそんなこととっくに気付いてる。
 どうしてアッシュぐらいの年頃なのに同じように剣を手に取っているのか、どうして騎士団に属しているのか分からないわけじゃないけど、どうでもいい。
 真っ直ぐな瞳。曇りのない笑顔。その過去がどんなものかは知らない。興味もない。
 今笑っている、笑って生きている、そのことがただただ疎ましい。
 そしてそんな彼女にでさえ、世界は無情だったのだ。
 任務に出た彼女の隊は全滅だった。任務で討伐予定だったベヒモスの返り討ちにあったのだ。
 当たり前と言えば当たり前だ。彼女の隊はごく普通の戦闘能力しか持ち合わせていない。それなのにベヒモスに挑むなんて方がどうかしているのだ。
 それはつまり上が彼女かもしくは彼女の隊を疎ましく思い、そういう任務を押し付けたのだろう。確かに最近イニスタ湿原を騒がせているベヒモスがいるというのはボクの耳にだって入っていた。だけどどうでもよかった。任務が下れば狩りに行く。そして彼女もまた同じことをした。
 ボクは、殺れる自信がある。だけど彼女に能力はさほどない。所詮小隊をまとめているだけの人間だ。音素もさして使えない。
 それなのに彼女は任務に赴いた。そして。

「…無様だね」
 唇から言葉が落ちた。誰もいない教会内の病室にそれは静かに滲んで消えた。
 彼女は両目を包帯でぐるぐる巻きにされていた。その右腕も、その身体にも、いたるところに包帯が覗いていた。
 ボクはぎしとベッドのふちに膝をついた。手を伸ばす。包帯で隠された両目に指を這わせる。
 その中に納まっているはずの眼球の感触はなかった。
 調べた結果分かった詳細は、彼女の隊は全滅したこと。全てベヒモスの餌食にされた。そして彼女もその目を両方抉り取られ、右腕は包帯に隠れているけれど千切れかかっていて、きれいだった髪もばさばさで、ベヒモスに弾き飛ばされて、全身打撲と骨折がひどくて。
「あんたはそれでも、まだ笑って、生きていこうとするの?」
 意識がないことは知っていた。言葉はこぼれ落ちるだけだった。
 意識を取り戻したとしても、彼女はもう世界を取り戻せない。上の思惑通り、騎士団から姿を消すことになるだろう。目が見えなくては戦えない。利き腕がやられてしまえば剣も握れない。
 目が見えなくては、一般人に雑じって生活するのだって困難だろう。
 これが、上の思惑通りの結果。
(これで分かったでしょ。世界なんてのはね、あんたが思ってるほど綺麗でもなければ優しくもないんだよ)
 あるべきもののなくなった瞼の上を指でなぞる。こんなとこに来てボクは一体何がしたいんだろう。彼女も、こんなになってまで生きているなんて、哀れなものだ。同情するよ。心から。
 それなのに、それでも、ボクは知りたいと思っている。彼女が意識を取り戻したとき泣くのか笑うのか、それとも怒るのか、憎むのか、一体目が覚めて一番に口にすることはなんだろうかと。
 ぎ、とベッドに手をつく。包帯をきつく巻きつけられた顔の輪郭を掌で撫でる。
「ねぇ」
 こんなになってまで生きてるくらいなら死んだ方がよかった。君はそう言うだろうか。それとも、ボクが君をそうとしか知らないように、また笑うのだろうか。きれいだった両目をなくしてまで。利き腕を使い物にならなくしてまで。ぼろぼろになってまで。
 それでも君は、笑って生きていくのだろうか。
「…くだらない」
 自分に言い聞かせるように吐き捨てる。彼女の顔からぱっと手を離した。たん、と床に足をつけて乗り出していた身体を離す。体温はボクと変わらない。だけどその身体は死に瀕している。
 そんな彼女を、二人以外誰もいない病室で、ただ見下ろしていた。

 ボクはきっと望んでいる。彼女が目を覚ましたときにまた笑ってくれることを。
 だけどこうも望んでいる。あれだけ真っ直ぐにひたむきに一生懸命に、それこそ必死なほどに生きていた君でさえ、世界は見放す。君はそれを嘆いて憎んで呪えばいい。ボクのようになればいい。見かけるたびに笑顔だったその顔が、絶望と悲しみと憎しみに染まればいい。

「…馬鹿らしいなぁ」
 ボクは仮面に手をやった。ああ邪魔だ。始終これをつけていないといられないなんて本当に不便で仕方ない。そんなことまでしてボクは生きないといけないのか。やりたくないことをやってまで世界を真っ白にしないといけないのか。ボクのような存在ができなくなるまで、ボクはボクでない誰かのために何かをしなければならないのか。
 く、と笑いが漏れた。ああなんてばかばかしいんだろう。くつくつと笑いが漏れる。ボクと彼女以外誰もいない部屋に笑い声は溶けて消える。
 彼女が、目を、覚ましたら。世界に絶望してくれたら。ボクの話を聞いてくれたら。少しは、この胸につかえているものは軽くなるだろうか。
 そんなことを思いながら、仮面を外して視界を掌で覆った。
 ああなんて馬鹿なんだボクは。一体何に涙を流してるんだろう。
 笑い声が、いつか嗚咽に変わるとき。ボクは崩れ落ちて、彼女が眠るベッドのふちに頭をぶつけた。
(ああでも、何でかな。ボクの中の君は、やっぱりいつまでも、笑顔なんだよ)