かちゃん、と静かにドアノブを回して室内に足を踏み入れる。相変わらず暗い部屋の白いベッドの上には、目を覆うようにきつく包帯を巻かれたままの彼女が眠っている。 かつ、と一歩踏み出してベッドに歩み寄る。手を伸ばして眼球のない瞼の上をそっと撫でた。ぼっこりとへこんだ、あるべきものが納まっていない瞼を。 ボクは一体何をしてるんだろうか、と思う。 「今日も来てあげたよ。感謝してよね」 ぽつりと漏らす。彼女からの答えはない。彼女はまだ目を覚まさない。もしかしたらこのまま死んでしまうのかもしれない。でもそれはそれで、恐らく間違ってない。 彼女が、目を、覚ましたら。そうしたら一体どんな顔をしてどんな声を出してどんな言葉を口にするのか、ボクはただそれが気になって、だから馬鹿みたいに毎日毎日、仕事がなくて暇な時間ができると誰もいない彼女が眠っている病室を訪れた。 「あんたはこのまま死ぬの?」 包帯がきつく巻かれた顔の輪郭を掌で撫でる。 もうこれで何日目だ。いくら点滴を受けて栄養補給をしていたって限界がある。彼女はだんだんとやつれていく。それは彼女にじわじわと死が迫っていることに他ならなかった。それを眺めているのは、間接的にでも死を見つめているのは、決して気分がいいものではなかった。 だけど彼女が目を覚ましたときにもし独りだったらかわいそうだと思ったのだ。そう、かわいそうだと。ボクは彼女にひどく同情していた。だからここに通い詰めていた。 あるいはボクよりもずっとずっと哀れなのかもしれないとさえ、思い始めていた。 ボクには最初から何もなかったから、何かを失う痛みというのは分からない。最初から何もなかった。だけど彼女は違った。色々なものをきっと持っていた。そしてそれを一瞬で失った。彼女はもう世界を見つめることはできない。そのきれいな両目は失われた。いつかのときのように剣を振るうこともできない。その利き腕はもう使い物にはならないのだ。 ボクはひどく、彼女に同情していた。それが彼女にとって迷惑なのかどうかは知らない。彼女が目を覚まさない限り、ボクのどんな思いも彼女には届かない。 掌が、彼女の顎を伝い、その白い首に手をかける。 何ならこのまま絞め殺してしまった方がよほど彼女のためで、これ以上じわじわと這い寄る死を見つめ続ける必要もなくなり、結果的にはボクのためにもなるのではないかとさえ考えた。 そして、そこで、彼女の指先が空気を震わせた。 「、」 ボクは反射的に手を引っ込めた。彼女の指先がまた動き、ゆっくりとその手が動いて持ち上がり、そして自らの顔に手をやって掌を這わせ、彼女の唇が薄く開き、そして。 ボクはごくりと唾を飲み込んだ。 「なにも、みえない」 掠れた彼女の声。無感情な声。ボクはそっと息を吐き出した。覚悟を決める。 「両目がないんだよ。ベヒモスにやられたの、憶えてる?」 「……ベヒモス」 呟いた彼女の首が僅かに動いてこっちを向いた。目を覆うようにきつく巻かれた包帯。痛々しいほどのその白。その顔がボクを見ても、ボクを捉えることはない。彼女はもう何も見えないのだ。 だからこそボクは、仮面を取った。目が見えない。それならボクが仮面を取っていてもなんら支障はなかった。 「シンク?」 名前を呼ばれてどきりとしてしまったのはなぜだろう。 かたん、と仮面を置いて「そうだよ」と返す。彼女が包帯がきつく巻かれた瞼の上を掌でなぞり「私は、生きてるのね」と漏らす。 この先だ。ボクは知りたいのはこの先の彼女。そうして彼女が何と言うのか、ボクはそれが知りたい。 彼女はぱたと手を下ろした。それからおもむろに腕を伸ばして空中をかくようにし、「シンク、どこ」となんだか切ない声を出すから、ボクは思わずその手を取って握り締めてしまっていた。「ここだよ」と絞り出す声がどうしてか彼女よりもよっぽど切なくなってしまった。 ぎゅうと細くて折れそうな手を握り締める。左手だけは包帯は巻かれていなくて彼女の体温に直に触れられた。もう目が見えなくても利き腕が使えなくても死にかけていても、それでもその体温だけは生きている人のそれとなんら変わらなかった。それがどうしてか嬉しかった。そんなの当たり前のはずなのに。 「ありがとう」 そして彼女はそう言った。ボクは目を見開いた。それは、予想もしていない言葉だった。 掠れた声で、彼女がもう一度「ありがとう」と言う。ボクは首を振った。それじゃ相手に伝わらないのに気付いて「お礼言われることなんてしてない」と言う。彼女の声も掠れていたけどボクの声も負けないくらいに掠れていた。ああなんだか泣きそうじゃないか。そう、思ってしまう。 彼女がゆっくりとした動きで顔を正面に戻し、それから深く細く、息を吐き出した。 「目覚めて独りだったなら、心細くって、泣いていたかもしれないけど。でもシンクがいたから」 彼女はそう言って少し笑った。「おかしいね。私、あなたに嫌われてるとばかり」そこで言葉を切る。僕は強く唇を噛んだ。ああごめん、嫌いなんかじゃないんだ。嫌いだったんじゃない、ボクはただ君が羨ましくて。本当はそれだけで。 それなのに君をこんなにしてしまった世界が憎くて憎くて仕方ない。 「世界を、怨まないの。あんたをこんなにした世界を」 ボクはそう言った。彼女は口元に薄く笑みを浮かべた。首を傾けてみせ、「どうして?」と、そう言う。理由なんて分かりきってるのに。 だけど彼女はボクがそうとしか知らないように、笑みを浮かべて言うのだ。もう見えない両目、もう二度と世界を見ることのできない絶望感、使い物にならないだろう右腕、歩くこともままならないその身体を持ちながら、それでもボクがそうとしか知らないように、笑って。 「こんな私になってしまったけど、今ここに、あなたがいるじゃない。なら私、それでいい」 愕然とした、と言うのかも、しれない。 (そんなこと、で) ボクは握り締めた彼女の手の甲に唇を押し付けた。 ああなんてことだろう。彼女がこんなになってまで世界を怨まない理由が今ここにいるこのボクにあるだなんて、一体誰が予想しただろう。世界を怨むだけの空っぽのボクが理由になるだなんて、ボクだって想像していなかった。こんなボクが、彼女が世界を怨まない理由になるだなんて。 目が覚めて、独りきりだったなら。彼女は世界を怨んだろうか。 (だけど、でも、やっぱり。ボクの中の君は、いつまでも笑顔なんだ) そっと手を伸ばして彼女の頬を撫でる。その感覚でこっちを向いた彼女が「シンク?」とボクを呼ぶ。ボクは「」と、初めて、彼女の名前を口にした。 ああなんてことだろう。これは完全な、誤算だ。 身を乗り出して彼女の唇に自分の唇を押し付ける。 彼女にそれがどう伝わったかは分からない。ただボクは、こんなになっても世界を怨まない彼女がとてもすごい人だと思い、同時にボクがいたからもうそれでいいと、そう言い切ってみせた彼女に、不覚にも、恋をしてしまった。 正しくは崇拝の思いにも似ているのかもしれない。こんなになってまで世界を怨むという行為に出なかった彼女の心に対する、崇拝の気持ちだったのかもしれない。 ただ同じなのは、愛しいという、その存在への肯定の気持ち。守りたいという気持ち。そしてできるならその心をこのボクに、という気持ち。 「、何したの?」 「キスした」 「何で?」 首を傾げる彼女。ボクはすでに決めていた。彼女の身柄を引き取ることを。 もう目が見えず、立つこともままならない身体を持つ彼女を、それでも引き取ってそばに置くことを決めた。 ボクは笑う。それはきっと彼女に伝わらない。だから彼女の手をきつく握り締めて、ここにいるよと念じながら、ボクは言うのだ。 「君は世界を憎まないんだね」 「うん」 「君は世界を怨まないんだね」 「うん」 「ボクは、そんな君が好きだから」 「…ふぅん?」 いまいち分かっていない様子で彼女が首を傾げる。 ボクはそれでもよかった。いずれ、いずれ全部話そう。彼女になら全部を話してもいい。そうして本当に心の底からボクを、受け入れて、それでもいいと彼女が言ってくれたなら。そうしたらボクは今までのボクをどれだけ後悔しようとも世界を救う側に回り、彼女のために力を尽くすと、そう自分に誓った。 |