1、つなぐ

 そんな辛いところにいることないじゃない
 好きでいるわけじゃないんでしょう?
 どうしようもないからそこにいるのよね。どこかへ行きたいのにどこへも行けないのよね
 …この手を。取って。私があなたを、
「…、」
 夢を。見た。
(………ああ。朝)
 ぼんやりした頭で緩く被りを振ってからだを起こす。けだるい頭をもう一回振ってアンティーク調のベッドから抜け出した。まだ頭がぼんやりしてる。
 スリッパに足を突っ込んでまずは顔を洗おうと思ってがちゃんと白い扉を開けて、それでぱったり彼女と鉢合わせした。あ、まずい、寝起きなのにボク。
「シンク。おそよう」
「…おはよ」
 ぼそぼそ挨拶を返して気持ち早めに洗面所に行ってばしゃばしゃ顔を洗った。白いふわふわのタオルで水滴を拭う手を止めて鏡に映った自分を見れば、どこにでもいそうな庶民層の服装をした緑の髪の男子が一人立っている。
 ボクだ。ボクがいる。暗い廊下のあるあの建物じゃなく、本部じゃなく、陽の光の当たる場所にボクが。妙な感じがまだ頭から抜けなくて、試しに頬をつねってみた。よくある夢かそうでないかを見分ける方法。当然つねったら痛かった。…当たり前か。
「なーにしてるの」
 そこに声。そして後ろから彼女が抱きついてきた。跳ねる心臓を感じながらふうと一つ息を吐いてぱっと頬から手を離し「別に。顔洗っただけ。朝ご飯は?」「今日はベーコンエッグです。にサラダとパンね」「ふぅん」ぺったりくっついたまま離れない彼女に顔を向けて「動けないんだけど」と言うと、なぜか満足そうに笑った彼女が腕を緩めて「おいでシンク、ご飯にしよう」とボクに手を差し伸べた。だからボクはタオルをハンガーに引っかけて彼女の手を取る。あたたかいその手を。
 ボクは救い出された。本当に救い出された。そうして夢見ていた日常を送っている。人殺しをするでもなく任務で遠征するでもなく、ただ当たり前に過ぎていく時間と陽の温もりを感じながら、光の当たる場所で息をしている。
 夢見ていたものが現実になり日常になる。それは何とも呆気ないようでいて、同時にとても幸福で、至福で、それから付け足すならこわかった。
 痛みが待ってるわけじゃない。恐怖が待ってるわけじゃない。何も待ってはいない。ボクを縛るものは今何もない。これまで重たい枷をつけられて息をしてきただけに、ボクは自由というそれに、まだ慣れることができないでいた。本当は嬉しくて嬉しくて仕方ないくせに、それでもまだ手離しで喜べない自分がいた。
 こういうのを、不器用、とかいうのかな。
「おいしい?」
「うん」
「そう、じゃあよかった」
 木目のテーブルを挟んだ向かい側でふふと笑みをこぼす彼女。ボクは自然と口元が緩むのを自覚した。仮面なんて邪魔なもののない視界で彼女の笑顔を見つめて、それからちぎったパンを口に放り込んで。簡素で質素と言われればそんな生活を送ってるけど、ボクにはそれが至福だった。
 ボクは六神将烈風のシンクではなくなったのだ。
 彼女がボクをあの場所から連れ出した。彼女がボクに光をくれた。そんなところにいることないと手を差し伸べてくれた。それはまさに救いの手だった。ボクはその手に縋った。もう嫌だ、こんなことを続けるのはもう嫌だ。もう疲れた。そんなボクに休んでいいんだよと言ってくれた人だった。唯一そう言ってくれた、教団を敵に回すことになろうともボクを連れ出してくれた人だった。
「お庭の手入れをしないとね。そろそろハーブを摘める頃だと思うの。それから今日は天気がいいからちょっと日向ぼっこもしたいなぁ。あ、あと家の掃除も」
「うん」
「あとね、おいもとかなくなってきちゃったからちょっと買出しにも行きたいの。シンク付き合ってくれる?」
「うん。行くよ」
 朝ご飯のあと二人で片付けをする。彼女が食器を洗ってボクがきれいになった白いカップや白いお皿をふきんで拭いて戸棚にしまう。キッチン仕事は二人いれば楽になる。そんなこと、あそこにいたら知りもしなかったことだけど。
 彼女はよく笑う人だった。つられてボクも笑うようになっていた。あんなにも何もなかったボクの中に今は至福と幸福が満ちていた。彼女がボクに与えてくれた。それは多分しあわせというものだった。
 つい癖で鍛錬を積もうとするボクを彼女が叱る。もうそんなことしなくていいのよと。本当にそうだろうか、本当にそれでいいのだろうか。そう思いながらもボクは彼女の言葉に甘えてただの一般人と同じ日常を送る。
 レプリカで利用されるために生まれた命が自由に息をする。レプリカ、そこから抜け出した自分。まだどこか足元が不安定で、でもここはとても見晴らしがよくて、だから不安になることも多い場所だけど。
待って」
「はーい」
 両手に食材いっぱいの紙袋を抱えて、多少ふらつきながら彼女に追いついた。手ぶらな彼女は身軽そうにロングスカートをふわふわさせて少し先を歩いている。何が楽しいのか、彼女は笑顔だ。
「シンク、楽しい?」
「え…どうだろ。よくわかんない」
「そっか。私はねー楽しいよ」
「…そんなの見てればわかるよ。はよく笑ってるし」
「ふふ、そうね。私ってば馬鹿っぽいねぇ」
 両手を広げてくるくる回転して、白いスカートがふわふわと風と戯れダンスをして。両手が埋まってなかったらその手を取ってボクも同じようにできるのかなと思いながら空を見上げた。青かった。白い雲があった。ここはもう薄暗い天井が広がるばかりの部屋じゃない。ボクはあの場所から逃げ出したのだ。
 ヴァン達はボクを追ってくるだろうか。
(…そのときは。迎え撃たないと)
 そっと彼女に視線を戻す。後ろ手を組んでリズミカルに歩く彼女。くるりとこっちを振り返って「さぁシンク帰ろ。家を掃除しなくちゃ」「うん」だから少し足を速めて彼女の隣に追いついた。
 ボクはもうあの場所に戻りたくない。もし強制連行されるのだとしたらボクはどちらか選ばなくては。この世界を守るのか殺すのか。彼女のそばにいるのかいないのか。今のボクにはもう彼女のいない生活が想像できない。ボクは彼女に生かされた。
 だからボクは、この景色を守らなくては。
(…覚悟なんて。あの手を取ったそのときから、決まってたさ)
 目を閉じる。ざわりと風を感じた。血のにおいなんて欠片もしない風だった。瞼を押し上げれば見える景色はきれいな青い空と白い雲。それから、
「シーンク」
「今行く」
 こつと一歩を踏み出す。彼女がこっちを振り返って村の入り口でボクを待っている。いつものように差し伸べられた手。だけど荷物で両手がふさがっているせいで君の手を取れない。そんなボクに気付いたように笑った彼女がボクの服の裾を握った。「さぁ帰ろうか」と。それに口元を緩めて笑いかけ「うん」と返す。
 これが、今のボクの現実だ。