2、ふれる

 白い家。緑の庭。白色を多くした食器ややわらかい色を重視した家具たち。木の色の床に合わせてテーブルや椅子は木の持ち味を生かしたそのままの色。それでちょっぴりアンティークを取り入れると、まぁそれなりの家って感じに見えなくもない。
 ぱちん、と庭用のハサミで今日の料理に使う予定の葉っぱをいくつか切ってかごに入れた。あとは痛んでる部分もついでにとハサミを入れてぱちんと切る。
 できるだけ家庭菜園できるものを本で調べて、お庭の半分以上を畑にした。自家栽培についての本をいくつか町の方で買ってきて、食器棚の横の棚の上にその類の本が数冊置いてある。そのうちまた町まで行って、それでまた本を買ってくるつもりだ。シンクはもう全部読んだって言ってたから、退屈しないように。
 今度はどんな本がいいかな。菜園以外の本だってやっぱりいるかなぁ。ファッションとか、自炊のとか。
「…はやい」
 ぼそっとした声が聞こえて振り返る。眠そうな目をしたシンクが窓からこっちを見ていた。そんな彼ににっこり笑って「おはよ」と言う。眠そうに目を擦りつつ「おはよ」とぼそぼそした返事が返ってきて、これまたぼそぼそと「顔洗ってくる」と言って彼が窓辺からいなくなる。
 さてじゃあシンクのご飯の準備をせねば。かごの中にハサミと手袋を入れて取っ手を腕に引っかける。玄関まで行って白色のドアのノブに手を伸ばして、
「、」
 振り返る。どこか、視線を感じた気がして。
 でも玄関前に人の姿はなく、いつものように草原と木々が林立する景色が広がっているだけ。
(…気のせいかな)
 気持ちそっとドアを開けて、滑り込むように中に入ってぱたんとドアを閉めて。かちゃんと鍵をかけた。このドアには覗き窓の類がついてない。しまったなぁと思いながら白いドアを振り返り、とりあえずとっさにポケットに突っ込んでいた手の方をそっと抜いた。
、どうかした?」
「…んーん。なんでも」
 私がいないから探しにきたんだろうシンクに声をかけられて、ようやく玄関から離れる。
 少しの不安が、胸で渦巻いていた。
 教団から逃げおおせる。それは恐らくキムラスカやマルクトから逃げおおせるよりも大変なことだと思う。
 キムラスカとマルクトは今は戦争していないにしても敵国同士。その国境付近は常に警備が置かれ、互いが互いを牽制しあう日々を送っていて、いわば冷戦状態。いつどこかで戦火が上がってもおかしくはない状態だ。だからそんなキムラスカやマルクトから逃げるのであれば、ある意味チャンスもあるのだ。二国は対立している、だからこそまた隙もある。その隙をかいくぐっていけば、あるいは逃げおおせることも可能かもしれない。
 けれどダアトは違う。キムラスカとマルクト、両国の中立の立場を取っている。そしてダアトはローレライ教の総本山だ。つまるところ預言のある場所だ。その恩恵を受けるためならキムラスカもマルクトもダアトを邪険にはしないだろう。そのことから言っても、ダアトの教団に追われるということはなかなかに厳しい状態で、そこから完全に逃げ切るというのはとても難しいこと。
 キムラスカ、マルクト、ダアト。つまるところこの三つから逃れながら生きなければならない。
 そうだと頭では理解していた。理解していたけど、私は、冷徹な科学者にはなりきれなかった。作られたレプリカやその被験体、それらの末路。それを知ってもなお科学を追及するほどに、私は科学者ではあれなかった。
 だから逃げ出した。この手で連れて行けるたった一人の手を握り締めて、ありったけの後悔とありったけの受戒の念を刻み、私は教団を抜け出した。
 この手で連れて行く資格はなかったかもしれない。私は広く浅くレプリカ技術について知ってしまっていた。彼がレプリカだと分かっていた。彼がレプリカである自分を呪っていたことを私は知っていた。
 この手で連れて行く資格は、私にはなかったかもしれない。
 だけどそれでも抜け出した。教団を敵に回してでも逃げようと思った。生きようと思った。
 私にできる全部をかけて、自分の生を呪っているこの子をしあわせにしようと。そう思った。
「…囲まれてるね」
 ぽつりとシンクがそうこぼしたのは、朝ご飯を食べ終わった頃だった。今日の紅茶はーと戸棚の茶葉の入ったビンを選んでいた私の手が止まる。ゆっくり一つ息を吐いて窓の外に視線を投げた。いつもの風景。そう見える。
 だけど他ならないシンクがそう言うのだからきっとそうなんだろう。囲まれてるのだろう。そう思って手を下ろす。その手を何気なさを装ってポケットに突っ込んだ。そうしてその手にナイフを握って、戦闘経験なんてないけどと思いながら科学者なりの頭でこの家を上から見下ろしどこからどう攻撃がきてそれをどう防げばいいのか、なんてことをシュミレーションし始めた。そんな矢先シンクががたんと席を立つ。テーブルについた手でゆっくりと拳を握って、「それ貸して」と言うから。だから私はそれが何か分からなくて「え?」と首を捻った。シンクが視線を私のポケットにやって「そのナイフ」と言うから、ぎくっとする。隠してたつもりだったのに、お見通しか。
「でも、シンク」
「大丈夫だよ。ボクならできる」
 敵数を指を四本立てて示してみせた彼。それからすっと手を差し伸べるから。だから私はぎゅうとナイフの柄を握って、ゆっくり力を抜いた。そっとポケットから抜いたナイフを彼の手に託す。
 こんなことは予想できてた。だけど私は、科学者の頭はあるけど、頭だけ。戦闘能力は皆無だ。科学者の頭と言っても六神将みたいなすごいことが考えられる頭じゃない。つまりそれなりだ。それなりのことしかできない私は、今一体何ができるだろう。
 笑える状況じゃないのに、シンクは口元を緩めて私に笑いかけてみせた。「泣かないで待っててね」と。そう言って何気ない感じで窓辺に歩み寄るその背中を、私は唇を噛み締めて見つめた。
 私に今できることってなんだろう。そう考えたけど、大したことは思い浮かばなかった。せめてシンクが言ったように待ってることと、怪我しないようにテーブルの下に避難すること、くらいだろうか。
「テーブルの下、隠れてて」
「うん。シンク気をつけて、」
「わかってる」
 からりと窓を開ける音。洗濯物を干すためにベランダに通じてる窓。その窓を開けた彼が顔を上げてだんとその場を蹴って跳躍。その姿はすぐに私の視界から消えて、テーブルの下にもぐり込んだ私はぎゅうと拳を握って、どうかどうか上手くこの場を切り抜けられますようにと祈っていた。
 外で物音が続き、譜術使用時の独特の空気の震えを何度か感じ。そうして一分くらいだろうか。彼がたんと軽い着地音と共に上から降ってきてベランダに下り立った。ぱっと顔を上げて慌ててテーブルの下から抜け出る。「シンク、シンクっ」と彼を呼んで駆け寄った。
「怪我は、怪我はないシンク」
「だいじょぶだよ。これがあったから少し助かった」
 彼がナイフを一つ振るう。そのナイフは私が自分なりに改造した、柄から刀身全部にかけて譜術を相殺するという機能がついている自分で言う最高傑作の代物だ。役に立ったならよかったとほっとする私とは違い、彼は少し険しい顔でそれを睨みつけて「どうして隠してたの」「え」「これ、いつも持ち歩いてたのは知ってる。どうして言わなかったの」「…それは」問い詰められて、私は視線を伏せた。シンクに負担をかけたくないから、ある程度の敵なら自分でも対処できるように。あなたにばっかり頼ってられないからって、私は。
 ふうと息を吐いた彼がぐっと伸びをして「死体が出ちゃった」「…うん」「片付ける場所あるの?」「ない、かも」「そっか」彼が私にナイフを押し付ける。受け取りながら、「怒った?」と小さな声で訊ねた。シンクは小さく笑って「全然」と言う。「自己防衛のために持ってたんでしょ。いいじゃない」と言って、それから少し眉根を寄せて「ああでも」と付け足してこっちを見た。
「こういうのはボクがやる。に怪我されたらたまらない」
「でも、それじゃシンクの負担になるよ」
「…負担なんかじゃないよ。ボクはを、守るんだから」
 私から視線を逸らした彼が「守らせてよ。ボクがを守りたいんだ」と小さな声をこぼす。私は何度か瞬きしてからじんわりしている視界に気付いて慌てて目を擦った。ナイフを鞘に入れるために。そういう感じで顔を伏せて誤魔化しながら「でも、やっぱり負担」「違う。それは絶対に違う。、」かけられた声とかけられた手。頬にそえられた掌の感触。くいと顔を持ち上げられれば、滲んだ視界にシンクがいる。
「…泣かないでって言ったのに」
「だって」
 仕方ないなぁって笑った彼。さっきまでその掌は人を殺していたのだろう。だけど私も同じようなものだ。科学と称し研究と称し、きっと同じようなことをしてきた。私たちは同じなのだ。
 こつ、と彼が滲んだ視界の中で私の額に額をぶつけた。頬から離れた手がゆっくりと私を抱き締める。
「ボクはあなたを守りたい」
 ゆっくり紡がれた言葉と、そっと触れた唇。私はぎゅうとナイフを握り締めて、もう片手を彼の背中に回して抱きついた。
 実質、私に戦力はない。だから私は彼に守ってもらうしかない。だけど守ってもらうというのはなんだか相手に負担をかける表現だ。だから私は私を守りたいと言ってくれたシンクに涙が出た。頭の片隅でまだどこかでレプリカの生に負い目を感じ、彼はまだその場所から抜け出せていないんじゃないかと思っている自分がいたから。だから私を守りたいと言ってくれた彼が、純粋に、嬉しかったのだ。涙が出るくらいに。