何度か、ここを出ようと話をした。追っ手がきてこの家を見つけてしまったのなら、ボクらはここを出てどこか違う場所へと逃げなくては。時間がたてばたつほどボクが始末した奴らが戻らないことに気付いた相手側がさらに手を打ってくる。だからなるべく早く荷物をまとめてここを出なくては。できればあとをたどられないようこの家も燃やしてしまって、ボクらの痕跡はできる限り消して。 だけどその話に、彼女はいつも微妙な顔をしてみせる。 「ねぇ」 「…分かってるんだけど」 ぎゅうとベッドのシーツを握りしめた彼女。最初の追っ手を始末してから、もう三日が過ぎていた。 本当ならここを出てどこか別の場所へ行かなくてはいけないのに、彼女が答えを渋っていた。だからボクもここに留まっていた。本当なら、ここにはもういるべきじゃない。 だからといってどこへ行けばいいのだろうか。それもボクにはよくわからない。彼女はボクよりずっと長く生きているしボクより物を知ってるだろうから、できるなら彼女と意見を出し合っていきたいところなのに。 はぁと息を吐いて彼女の座るベッドに腰かけた。夕暮れが迫ってるいつもの森の景色が窓の向こうに見えて、人の気配は、感じない。 「…何をそんなに迷ってるの」 「シンクは。ここ好きじゃなかった?」 「別に。好きでも嫌いでもないけど」 彼女が顔を上げて部屋の天井を見上げる。橙色の光を落としてくる天井を見上げて「私はここが好きなんだ」とこぼす。だからボクは同じように天井を見てみた。特に何もないんだけど、彼女は多分思い出してるんだろう。ここで過ごした日々のことや、ここで過ぎた時間のことを。 あたたかくて、やさしくて、どうしようもなく当たり前の日々。自然と笑顔のこぼれた時間。彼女と過ごした時間。ボクにだって思い出せるものはある。ここがあったからその時間もあった。わかってる。 「。確かにここで過ごした時間は、ボクも好きだったよ。だけどここに留まってたらその時間はなくなる可能性の方が大きいんだ。わかってるでしょ?」 「…うん」 「ボクとがこの先も一緒にいられれば、そんな時間もっとたくさんになるよ。だから、」 なるべく気遣って言ったつもりだったけど、彼女がぎゅっと目を閉じて顔を俯けた。「わかってるのよ」という震えた声に、ボクはそっと彼女の手を握った。震えている手。ボクと同じかボクより少し大きい手。 ボクがもう少し成長したらきっと彼女の手なんて包めるくらいになる。すぐに成長してみせるから。ボクは生まれてまだ一年もたってないような奴だけど、それでも君を守れるくらいの奴にはなるから。だから泣かないでと、言葉にしないで彼女を抱きしめる。「大丈夫だよ」と言う。彼女の決心はこの涙にこめられているようだった。握り返された手の感じでそれがわかった。 「ごめんねシンク、ごめんね」 「そういうときはありがとうでしょ」 「うん、ありがと。ありがとう」 ひっくとしゃくりあげる彼女の頭を撫でて、ボクは自分の決意を固めた。きつく閉じた視界の裏にあるのは彼女の笑顔だ。ボクのことをシンクと呼んでボクに手を差し伸べる彼女の笑顔だ。 不安がないわけじゃない。ここで安定した生活を少しでも送れたこと、それはとてもよいことだった。放浪生活っていうのがどんなものかはボクには想像しかできない。その想像もきっと子供のようなもので、現実には程遠いんだろう。たった一年ぽっちしか生きてない奴が世界のどれだけのことをわかってるというのだろう。きっと全然、自分のことでさえわかりきれていない子供だ。だからこの先踏み出すのは未知の領域。それでもボクは生きていかないといけない。精一杯、この先の世界を。 この世界を壊そうと動いている奴がいるんだとわかっていても。影でどれだけの人間が動いているのか、どれだけの人数が関わってるのか、それを知っていたとしても。 (…大丈夫。この手にある体温一つ、それだけあれば、ボクは大丈夫だ) まだ震えている彼女を抱きしめて、その背中をゆっくり撫でながらボクは小さく吐息した。 この先ボクらを待っているものが決して優しくないとわかっているのに、どうしてかしあわせだった。こんな状況でも、しあわせだと思えた。それは多分、生きている証だ った。 「これだけでいいの?」 「うん。なるべく身軽の方がいいと思うから」 そうして翌日、早朝にはもう準備をすませた。ボクはもともと持っていくようなものなんてこだわりがなかったから用意は簡単だったけど、彼女はそうでもなかったろう。でも一時間とかからずに荷造りをすませて部屋を出てきた彼女が持ってきた荷物は、トランクの大きいのが一つに小さい背負えるリュックが一つ。それだけだった。 庭に出て、彼女が最後に家の中を見回った。忘れ物はないかの確認だ。ボクはその間白い家を見つめていた。 ここに住んで、どのくらいだったろう。わからないけど、とても落ち着く場所だった。ここをなくすことはボクにも彼女にもとてもかなしいことだ。でも仕方がない。少なくともボクらはこの先逃げる生活を送らなくてはいけない。だからここはなくす。ボクらの痕跡をなくすために。逃げるとは、そういうことだ。 「大丈夫」 「…うん」 彼女が庭に戻ってきてよいしょとトランクを手にした。両手でどうにか持ってる感じで庭の外に出る彼女を追いかけて家に背中を向ける。玄関のアーチを通りすぎたところでぎゅっと拳を握って振り返った。白い家はいつものように佇んでいるだけ。 (ありがとう。…さようなら) 拳を作った手を緩め、掌を白い家へと向ける。範囲を間違わないよう意識しながらゆっくりと譜陣を展開させる。白い譜陣が地面に浮かび上がって範囲を広げ、やがて家全体を覆って淡く光り出す。 ボクの隣ではトランクを地面に置いた彼女がどこか苦しそうな表情で白い家を見つめている。 「フレアトーネード」 範囲を絞ってなるべく火加減を押さえた火柱。白い譜陣から光と火柱が上がる。白い家は炎と煙に呑み込まれてすぐに見えなくなった。 彼女がぎゅっと目を閉じて顔を逸らしたのがわかる。ボクは炎から目を逸らさず、ただ全部を焼き尽くすことだけを考えた。ここにつまっていた思い出も時間も何も考えないようにした。そうしないと彼女みたいにボクも、泣いてしまいそうだったから。 そこからは、船も馬車もなるべく使わない、人の目に触れることを最小限に控えた日々が始まった。 基本的に町への滞在は一日、長くても二日。病気をした場合は別だけれど、ボクらはなるべく人ごみに紛れ、なるべく人を避けるように日々を過ごした。大きな街に立ち寄ったときは兵の巡回に常に注意を払ったし、自分達の張り紙が壁にないかどうかなんてことも気にした。指名手配でもされてたらもっとめんどくさいことになりそうだったけど、ヴァン達はそこまでボクらのことを執拗に追い回しているようではなかった。事実、あの森を出ていくつかの町に立ち寄ったけど、今のところ追っ手の気配はない。 野宿、なんてのも珍しい話ではなくなった。だいたい地面ではなく木の上だ。寝てる間に誰かに襲われるという心配を一番に考えるなら、安全なのは高いところ。陸上型の魔物なら木の上まではこられない。だからそこで上手にトランクを開けて薄手の毛布を一枚取り出して二人で身を寄せ合う。薄いのに保温性抜群のこれも、彼女が手がけた発明品らしい。 科学者っていうのはすごいなと思いながら、彼女が木から落ちたりしないようにしっかり肩を抱き寄せて目を閉じる。 疲れていないかと言われれば疲れていたけど、これくらいどうってことはない。ボクの覚悟も彼女の覚悟も、少しも変わりはしなかった。 逃げ延びる。生き続ける。二人で。それだけは少しも変わりはしなかった。 「」 「、うん。ごめん」 それで、こっそりと国境を越えた頃。まぁ不法侵入だけどそんなこと今更だ。すっかりくたびれた感じになったトランクを引っぱり上げて崖の上に放り上げ、彼女の手を取って険しい崖の道なき道を行く。 ここを登りきったらあとは下っていくだけだから大丈夫だろうと思いながら視線を跳ね上げた。ごおおと風がうるさい中で耳をついたばさという羽音。魔物か。 舌打ちして彼女をどんと岩肌に押しつける。「いたっ」という声にごめんと思いながら譜術を展開し、羽音のした方角にタービュランスを凝縮し圧縮した風の刃を放つ。 手応えありで、ぎゃあと鳥っぽいものの声がした。上手いこと翼でも落とせたのか、がらがらと崖を落ちていく鳥っぽい巨体が視界の端に小さく映る。 「あ、れ、魔物?」 「うん。ガルーダ辺りかな。…ごめん、痛かった?」 反射とはいえ少し乱暴だった。そんなボクに彼女が困ったように笑って、ぶつけたんだろう頭を押さえつつ「だいじょぶだいじょぶ。それより急ご、見回りの兵とかきたら大変」と言う。だからボクは頷いてトランクの方に手をかけて一段下の岩肌に下ろす。急ぎながら、でも慎重に。じゃないとさっきの鳥みたいにこの崖を落ちていくことになる。 「大丈夫?」 「うん、」 息を切らせている彼女のために少し休憩をはさみながら、その日はどうにかカイツールの国境を越え、フーブラス川を渡った。地図で位置を確かめながらがこんとトランクを持ち上げる。 この先にある主要な街はセントビナー、それからエンゲーブ。こっちはマルクト領になるのかなと思いながらどうでもいいから考えるのをやめた。大事なのはとりあえず街につくこと、だ。 それで、その日のうちになんとかセントビナーまで到着。城砦都市とか言われてる由来のの大きな門を通り過ぎて、ボクらはすぐに宿屋に転がり込んだ。さすがに歩きづめでボクも疲れていたし、彼女は疲れきっていた。 へろへろとベッドに座り込んだ彼女。ぱたんと扉を閉じてかちりと施錠し、ほぅと息を吐く。 まだマルクトもキムラスカも目に見えて緊迫した状況ってわけじゃないらしい。よかった。旅券とか身分証明書の提示を示されたらめんどくさくなりそうだったところだ。彼女が偽装してくれたものがあるけど、これにも限界がある。 「お風呂入ったら? お湯入れるよ」 「うー、ごめん…くたくただぁ」 「うん。ボクもちょっと疲れた」 バスルームの扉を開けてバスタブにお湯を入れ始める。狭いけどないよりあった方がずっといい。 手袋を外して石鹸で手を洗って、ついでに顔も洗った。ふうと一息吐いて備え付けのタオルで顔を拭く。部屋に戻れば彼女がベッドに寝転がってうとうとしていた。疲れてるせいだろうなと思いながらトランクから取り出した毛布を被せて窓の外に視線をやる。すぐそこにマルクト軍基地。あまり安心できる場所ではない、けど。 だけど、うとうと眠りこけそうになってる彼女の寝顔を見ていたら、自然と口元が緩んでいた。 一日くらいしっかり寝かせてあげたい。なんだかんだでベッドで眠ることなんてどのくらい久しぶりだろうか。 (しっかりしろボク。まだ気は抜けない) ぐにーと頬をつねって、彼女と一緒に寝転がってしまいそうな自分を起こした。どぼぼとバスルームからお湯の音と白い蒸気が漏れてきている。お湯を止めにバスルームに行ってきゅっと栓を捻った。彼女の方はベッドでうとうとのまま。 しょうがないなぁと吐息してぺちとその頬を叩く。「お湯入ったよ」「…むぅ」眠そうな顔で薄目を開けた彼女がよろよろ起き上がった。まだ眠そうだ。 「シンクは」 「あとで入る。先入って」 「はーい」 眠そうなままトランクをごそごそする彼女から視線を外して窓際に歩み寄る。見えるのはマルクトの軍基地と見張りの警備兵。巡回兵と敬礼を交わす姿。 ばたんと扉の閉まる音を聞いてから目を閉じる。思い浮かぶのは周辺の地図と、この先どこへ行くのかという問いかけ。 どこへ行こうが無駄なことだよ 「、」 ぱちと目を開けて窓の外を睨みつける。ここにはいない奴の声が、聞こえた。 頭をよぎった言葉。オリジナルの冷たい声と冷たい瞳と冷たいその全て。拳を握りしめてそんなことはないと胸の内で反論し、暮れていく夕陽を睨みつけた。 ボクらのもとになった人間。もう、死んだけど。 それでもあいつがいなかったらボクはここにいなかった。そう思うと、嫌うばかりで何も思うことのなかったあいつに、少しだけ同情の念が生まれる。 だってあいつは死んだのだ。全て終わったのだ。全て終わりにしてしまいたいと願ったこともあったけど、今はそれはしたくない。終わりたくない。まだ生きていきたい。彼女と、と一緒に。 思いふけっていたらがっこんと派手な音がして「いたっ」と短い彼女の悲鳴が聞こえた。はたと我に返って慌てて閉まってる扉越しに「だいじょぶなの」と声をかける。あははと笑った彼女の声が「手が滑っちゃった。だいじょぶだよ」と言う。 「寝ないでよ、危ないから」 「寝ません。ちょっとうとうとしちゃったのー」 「気をつけてね。怪我しないように」 「はーい」 会話越しに、彼女がちょっと困ったように笑ってるのが想像できて。ボクは一つ息を吐いて、ごつと扉に額を当てて口元を緩めて目を閉じる。 うん、だから大丈夫。ボクはこの先も生きていける。 |