4、みつめる

 恥ずかしい話だけれど、私はこれまでそんなに一生懸命生きてきた方じゃなかった。キムラスカでなくマルクトでなくダアトで生まれた私に徴兵制度というものはなかったし、私は女だった。プラス、私は少し頭ができる方だった。だから兵士の道とは関係のない科学者の道へと進んだ。
 ダアトはローレライ教の総本山。どんなに悪いことが起こっても、預言のあるダアトだけはある種の安全が保たれる。ローレライ教と預言を信じて疑わない溺れた人々の中で、私はそれに混じるようにしながら始祖ユリアを象ったステンドグラスを見つめていた。周りの大人と同じように導師様導師様と祭壇に立つ小さなあの子に手を伸ばす気にはなれなかった。
 小さなあの子は名前をイオンといい、導師様と皆から呼ばれていた。
 預言は確かに、頼ればとても楽だ。たとえば明日の天気。預言は絶対にそれを外さない。だから明日が天気なら安心して傘を持たずに出かけられるし、天気が悪くなってきても預言が外れるはずはないからと雨の心配をせずにすむ。そんなふうに麻痺した思考をするのが周りの人達だった。私の親さえそうだった。預言さえあれば生きていける、この先困ることはない。そんなふうにも見て取れた。
 それほどに、ダアトの人々はローレライ教と預言というものに溺れて生きていた。自らを捧げていた。自ら生きる自由を、考えること自体を放棄していた。
 私はそんな考えには賛同できなかった。だから預言に頼る道は選ばず、月に一度のミサに顔を出すのもやめた。親に引っぱられて導師様に直接預言を詠んでもらえるチャンスだというその言葉を断って行ってくればいいと言った。私は行かなかった。ただ自分にできる自分の可能性を探して、自分の道を模索することを考えた。
 預言を詠んでもらえばいい。そうすれば未来の自分の姿が分かって、そこに向かってただ前進すればいい。いつかにそうやって言ってみせた親に、私はかちんときた。ばんとテーブルを叩いて椅子を蹴倒して、なんでそんなふうに頭が空っぽなのと声を上げた。どうして自分で何も考えないの、父さんも母さんも頭おかしいんじゃないの。そう言ったら両親は私を変なものでも見るみたいな目をして何を言ってるんだお前はと言う。預言は絶対なんだ、頼って何が悪いと。そう言う。
 だから私は自力で道を切り開くことを決意して家を出た。両親とはそこで縁を切った。同じダアトにいるとは分かっていたけど、家を出てからはもう一度も顔を合わせていない。
 私は能力を買われて信託の盾騎士団に入団し、そこで科学者としての道を行くと決めた。
 科学者の道。それは幅広かった。軍事目的で仕様される様々な音機関や船の整備、仕事は山ほどあった。そこから何かを選べばよかった。それなりに頭がなければできない仕事だったけど、私にはその頭があった。だから進める道はまだ続いていた。
 預言がなくたってやってやる。預言がなんだ。確かに絶対に当たる占いは広まることだろう。何せ当たるのだから。だけどそれは本当にそれでいいことなのだろうか?
「ああ。君か」
 ある日あるとき、夜も更けた頃だった。上の人から呼び出しを受けた。何かしでかしたろうかと不安に思いながら本部の暗い廊下を歩いていった先の、指定されたその部屋。そこにいたのは間違いなく導師イオンで、私を見ると小さく笑ってみせた。
 いつかに祭壇に立つ彼を見たことがある。導師様導師様と皆から手を伸ばされ、それに固定した微笑みを返していた。あのときより少し大きくなった気がする。私の方が年上だから小さい子だなんてイメージがあったけど、こうして向かい合ってみたらその印象は消えた。
 彼の瞳は幼い子のそれじゃない。むしろ大人の、老成されたそれにも似ているような。
 ここにいるのは私とイオン様、それから正面に大きな機械がある。見たことのない音機関だ。微笑んでいる彼とその後ろの音機関を視界に入れながら、科学者の頭が疼く。これはなんだろうと。
 小さな導師様がかつんと硬質な床を一歩踏み出して「君の能力を見込んでここに呼んだんだよ」と言うから、私は「え」と言葉を漏らした。イオン様は微笑とも取れる笑みを浮かべながらこう言う。微笑とも取れる笑みを、冷たい笑みを浮かべながら。

「君に、僕のレプリカ作成を手伝ってほしい」

 それは、私が科学者の端くれで仕事をしていて食いつないでいた、そんな日々の終わりを告げる声だった。
「…、」
 ずる、と被っている毛布がずり落ちた。慌てて握り締めて引き寄せる。
 背中が痛い。肩も痛い。首も痛いかも。そう思いながら小さく欠伸すれば、ぐうとお腹が鳴った。ああちょっとお腹が空いて目が覚めちゃったのか。そう思いながら何度か瞬きして顔を上げる。
 背中には木の幹の硬い感触。座ってる場所も木の枝だからすごくお尻が痛い。
 枝先に生い茂る葉の向こうにはまだ暗い空があるだけで、星は見えなかった。
 隣の体温に視線を移す。シンクは眠っていた。子供みたいな顔で。木の上で寝ることにもすっかり慣れてしまったから、こんな場所でもこんな顔をするようになった。子供みたいだなぁと思いながらそっと手を伸ばして、緑色の髪についていた葉っぱを取ってあげた。
 一つ上の枝に上手に引っかけてあるトランクとは別の手荷物、同じく枝に引っかけてあるリュックサックに手を伸ばした。ごそごそと中をあさって、携帯食の干し肉が入ってる袋を取り出す。中から小さめの欠片を摘んで口に入れた。うん、干し肉だ。
 随分と。昔の、夢を見た。
「……そういえば。まだ、言ってないね」
 自己満足の独り言を漏らす。シンクは眠っている。物音はしない。静かな朝の近付いてくる気配と、干し肉をよく噛んでいる自分の顎の感触が分かるくらい。
 シンクは、イオンのことを嫌っている。イオンと言ってしまうと今は違う人になってしまうから、被験者のイオンのことを、と言えばいいのかな。生まれたことを呪っていたこの子は同時に生まれる原因になったイオンのことも呪っていた。お前のせいでボクなんかが生まれたんだ、と。
 それも、随分昔の話だ。
 シンクは言った。今はもう大丈夫だと。生きていたいと。私を守って生きていきたいと言ってくれた。彼はもう昔の彼じゃない。光のない瞳で暗闇に呪詛を吐き続けていた彼じゃない。もうきちんと一人で立って、暗闇の中から光の眩しさに足を竦ませながら、それでも歩き始めている。
 私はシンクの少し先で彼を待っている。光から闇を見つめて、そこから這い上がる彼を手伝うために手を伸ばしている。
 下手をすれば一緒に暗闇へ逆戻り。そうなればもう二度と光のある場所には戻れない。
 だけど私は伸ばされた手を取ってぎゅっと握り締めて、光のある方へと引っぱっている。
 自分の手を掲げてみた。ちっぽけな手だ。機材を握ることも多かったからちょっと傷の多い手。どこにでもある手だ。それでも、彼の手を取れるのは、他でもない私だけ。この手だけ。これは私自身の意思だ。
 だいぶ硬かった干し肉をようやく噛み砕いて飲み込んだ。ついでにペットボトルのお水も一口。しっかり蓋をしながら息を吐いてリュックにボトルを戻す。
 朝までまだ時間がある。しっかり眠らないと、またシンクに迷惑をかけてしまう。
(今眠ったら…続きが、見れるのかな)
 シンクの頭にこつと頬を当てる。ゆるゆる狭くなっていく視界の中で、私はそんなことを思った。
(なんなのこのスケジュール…無茶振りにも程度ってもんがあるでしょうに)
 配られた今月のスケジュール表。それを睨みながら今日も今日で私は徹夜組というか居残り組みというか、そうして音機関の調整をしていた。フォミクリー音機関はものすごく繊細で、明日のスケジュールに間に合うように稼動調整するためにはどうしたって時間が足りない。明日の勤務時間から始めてたんじゃ間に合わない。つまりこれは暗に間に合うように整備しろ、と言っているわけだ全く。
 油やら埃やらにまみれながらようやく音機関の調整を終えた頃にはすっかり深夜。この部屋に残っているのももう私だけだ。どうやら徹夜組で今日のビリは私らしい。
 はぁと溜息を吐いて顔を上げる。こんな暗いところでこんなにくたくたになるまで働くのは、すごく疲れる。
「…導師様のばーかー」
 全ての終着点である彼の名前を出してみたところで何が変わるわけでもないのだけど、そう言ってみた。ちっともすっきりしなかった。はぁと溜息を吐いて作業着を払って立ち上がる。今から宿舎に帰ってシャワーを浴びてすぐ寝るにしても、やっぱり時間が。
「誰が馬鹿だって?」
「、」
 ただの独り言。それに答える声があった。びっくりして振り返れば、いつからいたのか部屋の入り口には導師イオンの姿があった。薄暗い廊下の照明を背中から受けながら、微笑んでいるように見える。私は口をぱくぱくさせてから慌てて頭を下げて「すみません独り言で、すごく独り言のつもりでっ」と声を上げた。かつと踏み出される靴音。心臓がばくばくいっている。まさかどうでもいい独り言が、本人に聞かれるなんて。
 靴音は私の横をすり抜けて、少し後ろで立ち止まった。恐る恐る顔を上げて振り返ってみる。彼は怒っているでもなく笑っているでもなく、今はただ静かに音機関を見つめていた。
「あの…」
「びっくりしたかい? こんな仕事を頼んで」
「え、と。それは、はい。びっくりしましたけど」
 彼が少し笑って私の方を振り返った。いつもの法衣でないところを見るに、夜着のようだ。彼は薄い緑のそれで私の頬を拭った。「だいぶ汚れてるよ」と。慌てて半歩下がって彼から遠ざかりながら「イオン様いけません、汚しては。眠ってください、朝に」「君も起きてるじゃないか」「これはその、仕事が今終わったせいでして。ほんとなら寝たいですよ」ちょっとむくれた顔でそう言ったら彼がふっと笑った。それはいつもとは違う感じの、冷たさのない笑い方だった。
 静寂が訪れて、彼が私を見つめて私が彼を見つめる時間が過ぎる。
 翡翠の瞳はいつかに受けた印象と同じ、幼さの残らない、子供は持ち得ないはずの大人の色をしていた。

「あの…これ、脱いで、しまって、ここを閉めます。そろそろ施錠しないと」
「うん」
「あの…イオン様。お部屋に戻った方がいいんじゃ」
「いいよ。僕のことは」

 作業着のつなぎを脱いで指定のロッカーに押し込んでいる間、彼は何も映さない瞳で音機関を見つめていた。彼をここにこのままいさせてはいけないと頭のどこかが考えて、とにかくここから連れ出さなくちゃ、と思う。どうしてそう思ったのかは分からないけど、とにかくそう思ったのだ。
 ばたんとロッカーを閉めて「イオン様閉めますよ」と声をかける。音機関から視線を外した彼がようやく部屋を出てくれた。ほっとしながらバシュと音を立てて閉まった扉の横に設置されている機械に掌をかざして認証。操作盤のロックを解除して、扉を施錠した。
 これで明日の勤務時間まで、ここは閉じたままだ。
 終わったと息を吐いたところで視線を感じてはたと顔を上げる。イオン様と目が合って、翡翠の瞳が細められて「疲れているね」と言った。私はもう苦笑いしかできなくなる。疲れているのは、確かに事実だ。
 薄暗い廊下の中、イオン様が私から視線を外して歩き始めた。少し躊躇ったあとにその背中に続く。小さな背中に。
 きちんとお部屋に戻ってもらって、眠ってもらわないと。イオン様は小さくても導師様で、しなきゃならない仕事とか色々あるはずだ。きっと私より忙しい身。なのにどうしてこんな時間にこんなところへ。
 神託の盾の暗い廊下に出て、私はどう声をかけようか迷っていた。そんなとき声が聞こえた。「ベッドに入ってもどうせ眠れないんだ」と。だから私は瞬きして顔を上げた。彼は暗い廊下を見つめていて、その瞳は暗い色をしている。
「眠れないって、辛いよね。寝てしまいたくても眠れないんだ」
「それは…あの、どういう……?」
 小さく笑った彼が私を振り返る。「分からないならいいんだよ。君は疲れたらベッドに入ってすぐに眠れるんだろう?」と言うからちょっと困った顔で「それは、そうですね」と返す。私はこのあと部屋に帰ったらシャワーを浴びて最低限のことをしたらベッドにダイヴだ。目覚ましのセットを忘れずに。それで朝はそのやかましい目覚ましに起こされて引きずるように眠りから覚めるのだ。それが最近の私で、最近の日常。
 小さな手が伸びて私の手を取る。私より小さな掌。冷たい温度にびっくりして慌ててしゃがみ込んで彼の手をさすった。こんなに冷たいなんて、身体が冷えてしまってる証拠じゃ。
「イオン様、手が冷たいです」
「いつものことだよ。気にすることでもない」
「風邪でも引かれたら大変です、すぐにお部屋に戻ってください」
 いくらさすってあたためようと試みても、彼の手は冷たいままだった。私が一生懸命なのがそんなにおかしかったのか、彼がふふと笑いをこぼして「君をこれ以上引き止めるのもいけないね。分かった、戻るよ」と言ってくれたからほっとする。私も宿舎に帰らないといけないし、彼にも部屋に戻ってもらわなくては。
 結局冷たいままの手が私から離れて、「君への負担をもう少し減らすよう手配しておこう」と言われて「え?」とこぼして顔を上げる。彼は固定のあの微笑みではない微笑みを浮かべて私を見ていて、「そうでないとまともに話もできそうにないからね」と言う。
 それはどういう意味なのか、私は考えた。考えてる間にぽかんとしてる私を置いてイオン様は行ってしまった。
 そうして次の日、スケジュールの変更があったからとまたスケジュール表が配られた。私は眠い目でそれを見つめて、自分の欄をじいと見つめてはたと頭が止まる。何度か瞬きして確かめたけれど事実だった。仕事時間が減っている。音機関の整備の押し付けもない。これは、まさか。
 まさか昨日の言葉の通り、イオン様がこれの変更を上にかけあった?
(本当に…)
 ぽかんとしていられたのも束の間。今はもう勤務時間だ。呆けていたところから慌てて作業着のつなぎを着て、昨日念入りに整備した音機関の横に立つ。今日は無機物のレプリカではなく生物のレプリカを作り出す初めての日だった。実験体はその辺にいる小さな草食系の魔物。さっきから檻の中でもしゃもしゃ草を食べている。
 生体レプリカは禁忌に指定されていると聞いたことがある。だけどそれをダアトが秘密裏に行っている。導師様も容認済みのこれは、だから正しいことではないのだろうけど、間違ったことでもない。指示に従うのが部下の仕事だ。それが私のやるべきことだ。
 でも結果的に、最終的に。私はそのことを悔やむことになる。悔やんでも悔やみ切れないほどの思いを抱くことになる。
? 、寝坊だよ。ねぇってば」
「う…、」
「いいかげん起きて」
 声。聞き慣れた声に薄目を開けて、眩しい陽射しにまた目を閉じた。「ねむい」と漏らせば隣から溜息。「ダメだよ。ここはそれなりに魔物のいる地帯だから、今日中に抜けなくちゃ」「うー」ごしごしと目を擦ってどうにかぱちと視界を確保。すっかり陽が昇って、あたたかい陽射しが膝にこぼれ落ちているのが見える。
 隣を見ればシンクがいて、干し肉をかじりながら地図を睨みつけて「街道沿いが一番安全なんだけど、それだと馬車に行き合いそうだし…」独り言を漏らしながらぶちと干し肉をちぎった彼。顔を上げた彼とぱちと目が合う。「何?」「ううん。なんでも」だからシンクの手から干し肉をもらってがぶと噛みついた。なかなか硬いんだなこれが。
 引き続き地図と睨めっこを開始した彼。さっきまで夢に見ていた彼。同じ顔で同じ声で同じ姿で、レプリカとオリジナルという立場だった彼ら。私が救い出せたのは結局たった一人だった。
「あのね、シンク」
「うん?」
「私、話さないといけない、ことがね」
「うん。食べてからね。喉につっかえるよ」
 とんとペットボトルを押しつけられて受け取る。確かにそうだ、口いっぱいに頬張りながら喋ってたらつっかえそう。というかむせこみそう。口に水を含んで一生懸命干し肉を噛み砕いていたら、シンクが笑っていた。その顔が少しだけ彼に重なった。私の知るイオンに。
「よく噛んでね」
「うん」
 手を伸ばして、なんとなく彼の頭を撫でる。眉根を寄せた彼が「何?」と言うから首を振った。それからじっと翡翠の瞳を見つめて、ごくんと干し肉を飲み込んでから言う。
「あのね、イオンの話。したら怒る?」
「……いい気分はしないけど」
 ぷいと顔を逸らした彼がぼそりと付け足した。「でも、の話がそれなら聞くよ」と言ってくれた。だから私はシンクはいい子だなと微笑んだ。
 もしもイオンに、彼に未来があったなら、こんなふうだったのかもしれない。イオンとシンクはどことなく似ていたから。姿形だけじゃなくて、どこか根本的なところが。
 だから話そう。彼のことを。今のシンクにならきっと大丈夫だ。
 私を助けてくれた彼のことを。彼の力になっていた私のことを。私はきちんと話すべきだ。全てはイオンから始まり、そうして枝葉は分かれていった。私たちがいるのはその一つ。イオンが最初の種だった。
 今の私にできることは、シンクを連れて生きて逃げ延びること。そうしてイオンの姿を、私が知る導師イオンの本当のことを憶えていること。
 せめてもの罪滅ぼし。私はそのために、こんな世界でも顔を上げて笑って生きていくと決めたのだから。