4、みつめる

 大体の連中は馬鹿だ。僕から声がかかれば浮かれた顔でイエスの返事しかしない。ローレライ教団最高指導者導師イオンの肩書きを持つ僕からの命ならどんなことにでもイエスと答えるかのように、イエスとしか答えは返ってこない。それはものすごく馬鹿なことだ。本質を見極めることをせず上辺の口上だけで納得して返事をするなど、そこに思考の余地はない。
 珍しく昼間に時間が空いた。当然彼女の時間ももらった。だから珍しく、花の咲き誇る中庭で、彼女が街から買ってきたシュークリームなんてものを食べている。
 すごく甘い。こんな甘いもの教会では絶対に出ない。身体に悪いから。笑ってしまうような理由だ。今更僕が健康に気を遣ってどうなると?
(まぁ、どうでもいいけど)
 ベンチで隣に座っている彼女はと言えば、シュークリーム片手に幸せそうな顔をしている。僕と目が合うと笑って「おいしいですね」と言うから、僕は肩を竦めて「甘いねこれは」と返して半分くらい食べたシュークリームに視線を落とした。
 そういえば女の子は甘いものが好きなんだったか。そういえばそんな気がする。
は、甘いものが好き?」
「好きですねぇ。何より、頭を使う仕事には糖分は必須ですし」
 ぱくぱくとシュークリームを平らげた彼女は満足そうだった。だから僕もそれで満足だった。半分残ったシュークリームを見つめて試しに彼女の方に差し出してみる。きょとんとした彼女に「僕はもういいよ。よければ食べて」と言えば、少し迷ったあとに彼女がシュークリームを受け取った。甘いものは別腹、なんて言葉、そういえばあったな。今の彼女がそれか。
 ぱくぱくとシュークリームを食べながら彼女が言う。「あの、ありがとうございました」と。だから首を捻って「何が」と訊けば、「スケジュールです。イオン様が調整してくださったんでしょう?」と言われてああと思う。そういえば何かのついでに彼女の過密スケジュールを減らすよう指示したんだった。忘れてた。
「仕事はどう? 少しはマシになったかい?」
「だいぶマシですよ。こうやってお昼の休憩が取れますし、定時にはあがれるから徹夜もしなくてすむようになりましたし」
「そう」
 彼女が嬉しそうに話をする。僕はそれを聞いている。彼女が最後の一欠片のシュークリームを口に入れて、ごちそうさまでしたと手を合わせた。律儀だなぁと思いながら僕は彼女を観察している。そうしていると自然と目が合う。そうすると彼女は困ったように笑う。最近はその表情に自分の顔が和らぐのを自覚している。
 僕は彼女に少しだけ心を許しているのだ。許そうと思えたから。
 馬鹿の一つ憶えみたいに二言めには預言預言の連中と違って、彼女は預言とは言わない。僕を気遣うことはするけれど、それは最低限の、役職故の上の者への敬意。媚びるためのものじゃない。
 預言を求めて僕に群がる人だかり。導師直々に預言を詠む月に一度のミサの日。導師様預言をと祭壇に殺到する人の群れ。それから少し離れた場所で、この聖堂にいながら僕でないものを見ていた彼女。よく憶えている。ガラクタばかりの人だかりの中、彼女だけその人だかりから浮いていたから。
 僕でない何かなら、ここで見るものなんてあったろうか。視線を少しだけずらしてみれば背中側からは光。始祖ユリアを象ったステンドグラスが落とす光が見えた。それだけだった。特別珍しくもない、もう見慣れた色合いだ。
 視線を戻す。今度は目が合った。導師様導師様とうるさい群集から少し離れたそこで彼女は黙っていた。僕に手を伸ばすことも、導師様と言うことも預言をと言うこともなかった。ないままに終わった。
 彼女が月に一度のミサに顔を出しているのは、熱心なローレライ教信者の両親にここへ連れてこられているから。それが理由。少し観察していれば分かった。彼女は一度も僕に手を伸ばしたことはないし僕を呼ぶこともないし僕を求めることもしない。ただじっと、僕か僕の後ろのステンドグラスを見つめていた。ミサの時間ずっと。
 やがて彼女がミサの日に顔を出さなくなって、僕は少し彼女の姿を探した。だけど群がる人混みはみんなガラクタばかりで預言を預言をの一つ覚え。
 馬鹿はいらない。彼女はどこに?
 何度ミサの日が回ってきても同じだった。彼女は姿を現さなくなった。消えてしまった。だから僕は彼女を探した。ただ探すだけじゃ見つからなくて、捜そうと範囲を広げた。ダアトにいるだろうと思ったから彼女を捜した。名前すら知らない彼女のことを、それでも捜して、探した。
 やがて彼女が信託の盾で科学の道を突き進んでいるのを見つけ、僕は考えた。彼女に声をかける口実を。ちょうど人手をそろえないといけないと思っていた頃に彼女を発見したのも何かの縁だ。だから僕は彼女にレプリカ作成のことを話し、仕事をさせることにした。
「…君を」
「はい」
「こんな面倒なことに巻き込んで。すまないと思ってる」
 ぽつりと言葉がこぼれた。彼女が困ったような顔で「えっと、何がでしょう」と言うから。僕は束の間目を閉じた。いつかに遠くから僕を見つめていた君。僕を求めず手を伸ばさず預言を見なかった君。そんな君を僕が奪ってしまった。他ならないこの手で。
 レプリカ作成の理由を、僕はまだ彼女に話していない。どうして自分のレプリカが必要なのか、その理由を。彼女は純粋に科学としてのフォミクリーの方に興味があるようだから、どうして僕が僕を作るのか、そこまでは訊いてこない。もしかしたらまだ疑問に思っていないのかもしれない。ここまできても、まだ何も。
「イオン様?」
 呼ばれてぱちと目を開けた。隣を見れば彼女が首を傾げている。だから僕はなるべくいつものように微笑む。誰かにこうして話をしてしまうのは、何となく弱音を吐いているようで、こんな自分僕は好きではないのだけど。それでも心の内を明かすことでやっぱり少し楽になるのだ。
 だから僕は、誰か他人の話をするように、自分の話をする。
「どうして、僕は自分のレプリカを作ろうとしてるんだと思う?」
「え」
「想像でいいよ。理由はなんだと思う?」
 彼女が困った顔で視線をあっちへこっちへやって、それから考え込んで、そうして「えっと、単純に考えると自分とそっくりさんが必要だから、でしょうか」とこぼした。僕はその答えに微笑んで「そういうことだよ」と返す。顔を上げた彼女の困った顔に、こう告げる。「僕はもうすぐ死ぬんだ」と。
 そのときの彼女の驚いた顔といったら、多分今まで見た中で一番のぽかんとしてる顔だった。
 僕はきっとこの記憶を忘れないだろう。死が僕を覆うその瞬間まで、何を言っていいのか分からない、そんな顔で呆然としていた彼女のことを、僕は忘れないだろう。
 僕はきっと、多分。自信はないけれど、君のことをそれなりに好いているのだと思う。人を好きになるってどういうことか僕には分からないから、これがそうだとは言い切れないし、自信もない。ただそうであればいいと思っている。それだけの話。

 だから、僕は君を逃がそうと考えた。

 ヴァンは信用できる奴ではない。自分の考えを貫き通すためならどんなことでもやってのけるだろう。それだけの奴だと思ったからこそ僕も手を貸した。だからこそ、この導師レプリカ計画が露呈することは避けたいはずだ。そのために用意した人員もそのために用意した何もかも、全て泡となって消えるだろう。計画に関わった者関わった物の全てを消去して、痕跡を消し去るはず。利用できる者と物だけを除き、全ては目につかぬところできれいさっぱりなくなっている。
 彼女は、僕の話を聞いてもなおフォミクリーという科学を追及できるほど冷徹な人間でも変わった人間でもなかった。彼女は月日がたてばたつほどに小さなミスが増えていて、それが僕のところまで報告されていた。
 使えなくなる。そう判断される前に、僕は彼女を逃がす必要があった。
 ヴァンの息のかかった奴に見られてはいけない。だけど僕が信頼を置いているような人物もいなかった。つまるところ彼女を逃がすのは僕自身でどうにかしなくてはいけなかった。
 君をこれ以上、かなしませないように。苦しませないように。辛い思いをさせないように。僕は君を逃がさなくては。ここからどこか遠い場所へと。この世界から逃れることはできないかもしれないけど、君が死んでしまうのは僕だって嫌だった。だから。
「いいね。できるね、
「、イオン」
 いつから君は僕のことをそうやって呼ぶようになっていたのか。最後の夜、月が隠れた曇りの晩に、僕は君を逃がすことにした。
 彼女が泣きそうな顔をしている。僕は音叉の杖を床について深く息を吐き出し、騒ぎを起こすための算段をもう一度頭の中で見直す。譜陣の状態は万全だからあとはちゃんと発動させるだけ。彼女はすでに荷物をまとめている状態。残るのは、彼女が連れ出すのだと決めた一人のレプリカを牢獄から奪取すること。それだけ。
 その必要はないと何度か言おうと思ったけど、他ならない彼女が決めたことだ。それなら僕はそれで構わない。彼女は僕のレプリカをイオンと呼ぶことはないのだろう。そのレプリカの名前を僕は知らないけど、彼女は僕を僕として扱ってくれた。それはとても嬉しかった。僕は近く死に、僕のレプリカが僕を演じるけれど、それでも彼女はそのレプリカを僕として扱うことはしない。きっと。
 信じている。これは、そういうものかもしれない。
 最後の別れというほど大したこともできず、僕は彼女を一度だけ抱き締めて、離した。「行くんだ」と囁いて音叉のついた杖を振り上げる。彼女が強く目を閉じて泣きそうな顔を堪えて、それから瞼を押し上げて頷いた。強い瞳。僕を見つめたその瞳が「さよならイオン」と言う。僕は微笑む。最後なんだからと笑う。「さよなら」と。
 かっ、と光を爆発させ、各所に描いておいた譜陣が連動して発動し次々と光の爆発を起こした。弱い爆風程度のものだけど、急な襲撃にしては上出来だ。あとは僕はここから部屋に戻るだけ。
 戻るだけ。
「ち、」
 低下してきている体力でダアト式譜術はそれなりの消耗だった。彼女の後姿がぼやけて見える。
 君が、離れていく。
 僕が逃がすと決めたのに。こんなことではいけないのに。僕はもっとしっかりしなくては。少なくとも生きているうちは、僕は君のためにこの手で届くことを。君のためにできることを。
 騒ぎに駆けつける兵士の鎧の足音を聞きながら、部屋に戻る譜陣に足をつける。
 光に呑まれていく中で君の無事を祈った。君が上手くこの場をやりおおせてここから逃げてくれることを思った。願った。
 本当なら、僕の最後の瞬間までそばにいてほしかったのかもしれない。だけどそれでは君が処分されてしまう。そこまでは僕の手が届かない。
 だから手の届くうちに、僕は君を、僕の手で、この牢獄の外へと逃がすのだ。

(君は生きるんだ。僕の分もきっと、この先も、きっと)