5、せなかあわせ

 頭がぼんやりしていた。さっきまで聞いていたオリジナルの話のせいかもしれないし、ただ疲れがたまってるせいなのかもしれない。
 頭がぼんやりしてる。彼女は隣で眠ってる。今日は木のない場所で時間切れになってしまったから、岩陰に二人で身を隠している。
 彼女がボクを連れて逃げられた理由。今もまだ逃げ切れている理由。それがなんとなくわかった気がした。
(あいつ…できる限りのことをして、死んだのか)
 彼女に聞いた、オリジナルの話。どうしてレプリカ作成に関わることになったのか、そういう細かいところまで話を聞いた。話を聞くうちにボクの中のオリジナルのイメージが変わった。冷たい瞳と冷たい言葉しか持たないあいつのあれは、ボクだけが感じたものではなかったのだと。彼女も最初はそう感じたのだ。だからそれは恐らく、あいつがいつも纏っている仮面のようなもので。その仮面を取って話ができた唯一の人が彼女で。だからきっとあいつは、彼女に心を許していたんだと。そう思う。
 だから彼女を逃がした。ボクを連れて行くことも踏まえて、あの場所から彼女を逃がしたのだ。
 生きてほしいと思ったから。あそこであのまま利用されるか、それともヴァンのことだから、彼女が処分なんてことにもなっていたかもしれない。あいつもそれを危惧したんだろう。だから彼女を逃がした。手の届くうちに、死ぬ前に。
 それがもうだいぶ前の話だ。ボクらがあの白い家で月日を過ごし、こうして逃げる日々を続けてもうどれくらいになるだろう。季節の移ろいなんて感じる暇もないくらい各所を転々としてきた。
 もうあいつは死んでるだろう。
 ぼんやりした頭で手を伸ばす。そこには何もないけれど、ただ呪い憎むだけだったあいつに、ボクは今こう思ってる。もう一度あいつと話ができたなら、これから先どうやって彼女を守って生きていこうかと、相談もできたろうにと。なんだかんだ言って教団の最高指導者だったあいつが頭が悪いわけがない。もし生きていたらきっとボクにはない知恵の一つや二つ持っていたろう。ボクにできるたいていのこともこなしてみせたろう。それがオリジナルってものだ。
 妙な気分だ。死んでる奴を今頃頼りにして何になるだろう。それ以前にあいつに頼るような頭、少し前までなら絶対になかった。あいつのことはなるべく考えないようにするのが常で、忘れていたならそれでよかった。思い出したって少しもいいことはない。そう思ってた。
 でも今は。
「…しんく?」
「、」
 無意味に掲げていた手をぱっと下ろす。彼女が隣でもぞもぞ起き上がって「どうしたの、ねれないの」と眠そうな声を出すから曖昧に笑う。「うん、まぁね。は眠ってよ」「うん…でも」「ボクのことはいいから」「……」ごしごし目を擦った彼女が瞬きしてボクを見る。眠そうな目で、それでもまっすぐこっちを見ている。
「私が、イオンの話をしたせいかな。ごめんね」
「…謝るのは、おかしいでしょ。ボクも、知らないよりは知ってた方がよかったことだ」
「うん。そうかもしれないけど」
 彼女が毛布を引き寄せてボクにくっついた。そうすると心臓が一つ跳ね上がる。顔も熱くなる。彼女がボクの隣で膝を抱えて座り込んで、「いつかは話さなくちゃって思ってたの。もうちょっと落ち着いたときでもよかったね」と申し訳なさそうな顔をするから首を振った。だって思うところがあってあいつの話をしたのだ。その意思を否定したくはない。
 それに、他に人がいる場所でできるような話でもない。
 心臓が無駄にどきどきいってるのが自分でもよくわかる。
 そういえば、あいつは彼女のことを。好き、だったのだろうか。彼女はそういうことは言わなかったけど、あいつは彼女のことをどう思ってたんだろう。
「あの、さ。気になることがあるんだけど」
「うん」
「あいつは、のこと好きだったのかな」
 どきどきする心臓で訊いてみた。そうしたら彼女がきょとんとした顔をして「え?」とこぼすから。それから難しい顔で黙り込んでしまうから、ボクとしてはそっちの反応の方が予想外だった。何を言っていいのか頭をぐるぐるさせてるうちに彼女が真剣な顔でボクを見て「そう思う?」と訊くから「わかんない、けどさ」ともごもご返してそっぽを向いた。
 わかんないけど多分、あいつは君のことを、想ってたんじゃないだろうか。あいつなりに。だから君を逃がしたんだ。君に未来を与えるために。
 そうして廃棄処分予定だったボクを連れて彼女は逃げた。
 あいつは彼女の未来を繋ぎ、彼女はボクの未来を繋ぎ。ボクも、彼女の未来と自分の未来のために息をしている。
 誰かの未来のためなんてきれいな言葉はこの世界には到底似合わない。だけどそれでもそれが本当だから。
 彼女の未来のためにあいつは自分にできることをした。彼女はボクの未来を作るためにこの手を取って教団から逃げ出した。
 今度はボクの番だ。誰かを守るのも、その未来のためにいくのもボクの番。
 なんだかようやく頭がすっきりした。そうしたら欠伸が漏れて、彼女がきょとんとした顔をしたから慌ててそっぽを向く。「眠いのシンク」「そりゃ、寝てないし…朝になっちゃうし。眠いよ」ぼそぼそ返したら彼女がくすくす笑った。「じゃあ今度はシンクが寝て。私が起きてる」と言われて「でも」と顔を向ける。彼女がやわらかく笑って「いいの。ね」とボクの頭を撫でるから。だからボクは口を噤んでから吐息した。確かに少しは寝ないと身体がもたない。
 こてんと彼女の肩に頭を預けた。ゆるゆる目を閉じればすぐに眠気が襲ってくる。さっきまでぼんやりしてた頭がすっきりした代わりにすごく眠い。
 ボクらレプリカはオリジナルと向き合うことはなく、触れ合うこともない。背中合わせのような関係。影と光のような関係。両方が生きることはとても困難。一つがあるなら二つはいらない。オリジナルがあればレプリカはいらない。だからボクらが隣同士で存在することは絶対にないだろう。
 だから、ボクらは背中合わせ。あいつの代わりをするために生まれたボクらレプリカのうち一人があいつの代わりに選ばれ、そうして一人がボクとして生き残り、あとはどうなったのか知らない。
 運は悪かった。レプリカなんてものに生まれてしまったから。それを憎んで呪ったこともある。だけど今は、それだけじゃない。
 暗い視界の中目を凝らすと、意識が現実から離れていて、これが夢だと分かる。そこにあいつがいたからだ。さっきまで考えてたオリジナル。憶えのある導師の格好で、冷たい瞳と無表情でそこに立っている。
 現実ではありえないこと。だからこれは夢だ。
 何を言うべきだろうか。前までならこんな夢を見たらああ嫌な夢だと思ってあいつのことを罵っていただろう。だけど今はそうでもない。あいつが残したものが何かわかっているし、あいつが何をしたのかもわかってる。だからこそボクは、何か違うことを言うべきなのに。
 あいつが足音もなく歩いてくる。遠かったのがだんだんとボクのそばへ。そうしてすぐ横をすり抜けた。あいつが立ち止まったのが視界の端っこに映って見える。背中合わせのような状態。
 あいつが来た方向には光が。そうしてボクの後ろからは闇が手を伸ばし足元を呑み込もうとしている。

 僕はここまでだ。あとはお前に任せるよ

 声が聞こえた。自分と同じ声が。だけど少しだけどこかしら違う声が。ボクは小さく笑って手を掲げる。あいつもそうしたようだ。だからボクらは背中合わせにパンと小さく手を打ち合わせた。
 あんたの代わりはしない。だけどのことは守る。そう口にしたらあいつは笑ったようだ。表情は見えないけど、多分彼女が話してくれたように笑ってるんだろう。冷たい微笑み以外の顔で。