相手の首に手をかける。力を込める。げほ、と咳き込んだ相手が苦しそうにこちらを見下ろしたが構いやしない。ただ両の手に力を込めて、締め上げる。
 このままこの手を捻ってしまえば相手が脆くも簡単に崩れ去る姿が想像できてそれが滑稽で、仮面の下で薄く笑った。
 相手の顔は歪んだままこっちを見返して、剣を振りかぶる。だけど下ろさない。というよりも下ろせないのか。
 微かに震えかたかたと小刻みに揺れる切っ先。それはただ苦しいというだけが原因ではないんだろう。
(甘ちゃんだな)
 思って、微かに譜術特有の空気の変化を感じて相手の首から手を離した。反射的に後ろへ跳ぶ。それと同時、今までいた場所にどんと水圧が襲いかかり地面が震えた。スプラッシュ。
 舌打ちして譜術を発動したんだろうマルクトの軍人を見やる。いつ見ても嫌味にしか見えない笑みを浮かべてこっちを見返しているその姿に苛立ちを覚えた。ごきりと間接を鳴らす。

 二体六ではいくら何でも不利だって事くらいは分かっていた。これは単なる時間稼ぎだ。導師がダアト式封咒を解放するまでのただのお遊び。
 げほげほと咳き込んで首に手をやっている赤毛の相手を見やって、同じレプリカを見やって、目標を定めて地面を蹴った。
 あのスプラッシュには指向性が働いていて、だからそいつにはあの術ではダメージがない。だから相手は体勢を立て直して構えてくる。剣先は、まだ微かに震えたまま。
 そんな震えた手でどうして戦うのか疑問だった。背を向けて誰かに庇ってもらえばそれですむ話だというのに、相手は意地でもそれをしようとしない。
 降ってきた水圧を避けながら接近する。あと少し。相手が構えた剣を横に薙ぐ。だけど浅い。手加減している。手を抜いている。だから僕まで届かない。薙いだあとの隙、そこに蹴りを叩き込んだ。相手が吹き飛ぶ。
 同じレプリカだ。だから手加減なんてものはしない。同じなら、同じだけのもので相手をする。同じなんだってことを思い知らせてやる。絶望させてやる。
 そう遠くはない未来に絶望し、きっとこいつはボクのようになるだろう。曲がって歪んで駄目になっていくだろう。そうなるのが楽しみで仕方ない。だってこいつは何も知らないただの馬鹿なんだから。
 早く、その生意気な表情が絶望の陰に埋もれればいい。早く、その真っ直ぐな瞳が絶望の色に陰ればいい。
 そうしたらきっと同じになる。ボクと同じものに。
「弱いんだね」
 地面に転がって、それでも剣を拾おうと伸ばしている相手の手を踏みつけてやった。「ぐっ」と小さく呻いて視線をこっちに向けてくる相手のその瞳の蒼にボクが映る。その瞳にボクだけが映っている。
 譜術の気配を感じた。だけどその場を退くことはしなかった。代わりに相手の服の襟を掴んで顔を引き寄せた。思ったよりも劣化している赤い髪を一房すくってやる。
「そのくせ諦めが悪い」
「うるせぇっ、悪いかよ!」
 怒鳴って返してきた相手に薄く笑って襟首を離した。それと同時に上から水圧が降ってくる。避けるだけの時間は、ない。
 背中からのどんと音を立てた水圧に膝をついて耐え舌打ちする。思ったよりも重い。どうにか倒れそうになるのを堪えるのがやっとなくらいに。あいつの譜術は封じてやったと聞いてたけどもとが違うなら封じても威力が違うか。
 それでも上げた視線の先のあいつの顔が複雑に歪んでいて、それは水を通して見ているからなのか、それともその顔が本当に歪んでいるからなのか判断がつかない。
 だけど振り上げられた剣先の、歪んで見えるその顔の、全てに、執拗以上の何かを感じる。
 ど、と水の流れが切れると同時に肩を貫く相手の剣。
 やっぱり歪んだその顔は、まだ躊躇っていた。そのまま斬るべきなのかどうかを。
 その隙をついて相手の首に手をかけて締め上げた。それでも相手は剣を振り斬らない。まだ躊躇っている。
 ぽた、と濡れた髪から雫が落ちて地面を濡らした。あれだけの水圧で仮面が取れなかったのは幸いだ。
「弱いんだね」
 再度そう言ってやる。
 強ければいいだなんて話だとは思ってないけど、何となくそう言ってやった。
 躊躇っていた瞳が毅然とした色を見せて相手が腕に力を入れて剣を、振り斬る。左腕の筋肉か何かが切られたようなぶちりという音がしたけど気にしずに痛覚を捻じ伏せて相手の首を絞め続ける。
 再度、譜術の気配。今度は違う属性の。空気が変わって何かが口を開いたような寒気がする。だけど構わずにそのままでいた。黒い塊に呑み込まれて視覚が遮られても手だけはずっとそのまま。ず、と腕から力が抜ける。恐らくあいつはボクの手から逃れて落ちた。
 ぴりぴりと視覚聴覚を刺激してくるその空気に目を閉じる。
「…それでも真っ直ぐなんだね」

 その言葉が相手に届くことはないと、知っていたけれど。