沈む前に

 一葉が仕事で外の世界へ出ている間、私はお留守番の花果のところへ行く。毎度のことながら警戒されるわ唸られるわ逃げられるわで仲良くなれた例がないけど、今日は諦めないで走って走って逃げる花果を追いかけた。どたばたどたばた走り回る私と花果に羅漢さんはかなり顔を顰めている。
「花果聞いてっ、私は一葉の帰りを待ってるけど! ほんとに待ってるのは一葉じゃなくて滇紅なんだってばっ!」
 私のさっきからの主張はこれである。だっていうのに、花果はうろんげな目で私を見てあまつ「おっちね」とか失礼なことを言ってくる。
 ついに体力が尽きてばたっと羅漢さんが仕事中の机に倒れ込んだ。「こらこら」とたしなめてくる羅漢さんは常識人だ。ずるずる床に膝をついてへたり込む。小さいくせに、花果は体力がある。くそう。私だって外仕事でそれなりに体力あるつもりなのにな。
「ど、どうしたら、信じて、もらえるんですかね…」
「花果は人見知りだからねぇ。まぁ気長に頑張って」
 ぐう、と唸って散らかってる床に頬をつけた。埃も目立つし不必要になった書類が散らばってる床にいつまでもへたり込んでいる私はちょっとだらしないかもしれない。でも疲れたから仕方ない。花果はこの部屋から退散してしまったから、今日はもう、諦めようか。ああ、今日も、か。
 左に床、右に天井のある視界で壁をぼけっと見つめながら、「花果ぁー」と情けない声を出す私。当然、戻ってきてくれる気配はない。
 本当に、私は花果から一葉を取り上げる気なんてないのだ。私は滇紅を待っているだけ。一葉と一緒にいる彼を待っているだけなんだけどな。花果には一葉狙いみたいに思われてるのかも。そりゃあ仲良くしてくれないわけだよね。いや本当、私が見てるのは一葉じゃなくて滇紅…と何度説明したのやら。
 花果に一葉を預けて、その間滇紅と話がしたいなぁとか、そういうことを企んでいたわけだけど。それは毎回失敗に終わって、私は結局一葉に付き従う滇紅についていって、結果的に三人で話をする。そこに花果が加わったり羅漢さんが加わったり、毎度そんな感じだ。彼と二人になったことはない。
「羅漢さぁん」
「なんだーい」
「滇紅って、私に興味ないんでしょうねぇ」
「そうだねぇ。彼の最大の興味は食べ物じゃないのかな」
 あっさり肯定された。床から顔を離して机で書類作業を続ける羅漢さんを睨む。「今グサっときたんですけど。もうちょっとオブラートに包んでくださいよ」「いやぁははは」悪気はなかったんだよなんて笑う羅漢さんにはぁと溜息を吐いて、のそりと起き上がる。ぱたぱた服を払って「じゃあ仕事戻りまーす。二人が戻ってきたら連絡くださいね」「はいはーい」ひらりと手を振られて手を振り返して、私は自分の仕事に戻った。
 今日も花果と仲良くなることができなかったなと溜息を吐く。花果と共闘すれば私だって滇紅と二人で話ができるんだけど、なぁ。
 しょんぼりしながら歩く帰り道、ふと足元がぐらついた。地震だ。とっさにしゃがみ込んで地面に手をつく。幸い、今回の揺れは小さく、すぐに治まった。
 この国には時間がない。そのことを肌で感じた。
 だけど、私にはどうしようもない。私はこの国に神様を連れて帰ることはできない。私の仕事は畑を耕して種を撒いて食物を育てて売ること、それだけ。
 ……本当にそれでいいのかと、思うことがある。
 私はこの国の事情を知ってしまった。一葉がぽろっとこぼしたことを聞いただけだけど、地震が起きる度、その話を思い出す。
 もうすぐこの国は沈むのだ、という現実を。
 今日もよく畑を耕し種を撒いて作物を植えた。我ながらよく仕事をした、と家に戻ると憶えのある赤い長髪が見えてぴたりと足が止まった。夕暮れに暮れ始めた空をぼけっと見上げてるあの人は、まさか。
「て、滇紅?」
「あ」
 ぱちりと紫色の瞳と目が合った。にこっと笑顔を浮かべて「お仕事お疲れ様でーす」とぶんぶん手を振ってる滇紅は、一人だった。ごしごし目をこすって何度も現実を確かめる。うん間違いない、滇紅、一人だ。一人、なんだ。じゃあ今は、二人きりなんだ。
 そう思ったら嬉しくて、仕事で疲れてるのに走って彼のところまで行った。腕を組んでうんうんと一人頷いている彼は「その働きっぷりを是非うちの師父にも見習ってもらいたいもんです」なんて言ってる。他の誰に働き者だねぇと言われても愛想笑いしかできなかったけど、彼にそう言われるのは照れくさくて嬉しかった。
 呼吸を整えつつ、隣に並んでみた。頭一個分違う彼を見上げて「今日帰ってきたの? お帰り滇紅」と笑うと彼も笑った。「ただいまです。残念ながらまた空振りですけどね」と苦笑いする彼に私は困った笑顔しかできない。
 一葉が外に行くのは四凶を連れ戻すため。この大地の支えとなる人柱を取り戻して国を安定させるため。一葉はずっとそれを目標にして外に出続けていて、その成果が出たことはまだなかったりする。
「…一葉大丈夫だった?」
「へ? ああー、優しいですねさんは。師父はピンピンですから心配しないでください。むしろ羅漢さんの財布の心配をしてあげた方がいいのかも」
 ころころ笑う彼にちょっと吹き出してしまって、くすくすと笑った。
 人を笑わせるのが上手だな滇紅は。それが素だっていうから才能なんだろうきっと。
 ほら、ね。滇紅といると私はこんなに嬉しい。こんなに楽しい。
 くすくすと笑みをこぼす口を片手で塞ぐ。私は今笑っているはずなのに、どうしてか涙をこぼしそうになっている。
 こんなにも楽しいのに、目に入る地面は今もずっと不安定で、ぐらついているのだ。そう思うと不安が胸を押し潰しそうになる。
 ひょいとしゃがんで下から私の顔を見上げた滇紅が目を丸くした。それから慌てた様子であたふた手をあっちへこっちへやって「え、あれ、嘘、俺が泣かせちゃいましたっ? え、ごめんなさいさん、変なこと言った憶えはないんですけどごめんなさいっ」全力で謝ってくる彼に私は笑う。笑った拍子に涙がこぼれ落ちたけど、それは左右から一つずつで終わった。
 今ここに、大地の基盤を取り戻そうとずっと頑張っている人の一人がいる。それなのに勝手に絶望して勝手に不安になって勝手に泣くなんて最低だ。
(沈んだりしない。大丈夫。だって滇紅がいるもの)
 もちろん一葉も、と心の中で付け足して私は滇紅の手を取る。手袋には爪があって少しちくりとした。それでもよかった。首を捻った滇紅が「さん?」と呼んでくれる。だから、私は彼に笑いかける。「頑張ってくれてありがとう」と伝えれば、彼は器用に爪先で頬を引っかいて笑ってみせた。
「それ師父にも是非言ってあげてください。何気に飢えてますからあの人」
 飢えてると表現された一葉を思い出して思わず笑った。ああ本当、滇紅といると私、嬉しくて楽しい。泣きたくなるくらいに。
「じゃあ一葉のところ行こうか?」
「ああ、今はちょっと留守というか、用事というか。終わったらどうせ俺を捜しに来ますから、それまでのんびりしてればいいでしょ」
 ね、と笑いかけられて、両の掌で私の手を包んだ滇紅。爪のある手袋だから、私の手を握り返すことはしないで、代わりにそうしてくれた。包んでくれた。
 ああ好きだなぁと思いながら私は照れくさくて笑う。滇紅と二人の空間、時間をそっと噛み締めながら、暮れて落ちた橙色の空と岩肌の見える景色を背景に、私は笑う。
 包まれている手があたたかい。
 この国はもうすぐなんて絶望するのは早すぎる。
 こんなに近くに国を沈ませないために頑張っている人がいる。笑っている人がいる。
 それなら私も自分にできる限りのことをしよう。頑張ろう。そして笑おう。私がそうしてあなたから元気をもらっているように、私も誰かに元気をあげられたなら、嬉しい。