はぁと息を吐き出せば白く濁った。もうそんな季節かと思いながら黒い外套の前をかき合わせてこつと一歩踏み出す。
 待ち合わせの時間までぎりぎりだった。仕事が長引いたせいで予定していたよりも二十分も遅れてしまった。
(人使いが荒いんだよヴァンも。書類整理くらい自分でやれるだろ)
 胸の内で毒づきながら足早に教会の階段を駆け下りて、それから冷たい風の吹くダアト市街に降り立つ。吐き出した息が白く濁ってすぐ消える。なんとなしに空へと視線を投げれば曇っていた。灰色の重い雲。もしかしたら雪が降るかもしれないと思いつつ歩みを再開して、被っている帽子のつばに手をかけてさらに深く被り直した。
 街であの仮面は目立ちすぎる。かと言ってもしもの可能性を考えて顔を曝け出すわけにもいかない。だから妥協して帽子を被ることに決めたものの、落ち着かない。
 急ぎ足で宿屋の角を左に曲がって、ダアトを行き交う人込みの中に紛れ込んだ。念のためにちらりと後ろを振り返って教会からの監視者がいないかどうかを確認する。
(…大丈夫か)
 そこで初めて歩調を緩めてほっと息を吐いた。外套の襟を立てて冷たい風が肌に当たるのを遮りながら、約束の場所へと急ぐ。

「おそいー」
 思ったとおり十分遅れぐらいで指定場所に着いて、先に来ていたらしい彼女は頬を膨らませて不満げな顔でベンチに腰掛けて待っていた。それに肩を竦めて「文句なら主席総長にどうぞ。あいつがボクに仕事押し付けたんだ」と返しながら公園内に足を踏み入れる。
 こんなに冷えるのにすらりとした素脚を曝け出したショートパンツなんかをはいている。そのことに内心ちょっとどきっとしながらも、顔に出たのは呆れたような表情。
「寒いだろ。なんでそんな格好なのさ」
 彼女の側に歩み寄りながら訊けば、「こんなに寒くなるなんて思わなかったんだもん」とぶっすりした顔のまま返された。丈の長いコートで素脚の部分を覆うようにして寒さをしのいでいるらしい。コートの前をかき合わせてはぁと白い息を吐きながら、彼女は一挙動にぴょんと立ち上がってボクに寄ってきた。さっきまでのすねた顔はどうしたのか、あっという間にボクの腕に腕を絡めて、嬉しそうな表情を浮かべている。
「久しぶりだねシンク」
「そうだね」
 するりと言葉がこぼれて、思っていたよりも素直なものになった。もっと皮肉っぽいものにしてやろうと思っていたのに、彼女の前ではなかなか上手くいかない。
 彼女がにこにこしながらこっちを見ているから、ボクも意地悪する気が失せてしまった。せっかく久しぶりに会ったんだからと自分に言い訳するようにして納得させながら、ボクの口元も自然と笑みを浮かべる。絡めた腕と密着する身体から彼女の体温を感じる。
 寒さで息は白かったし彼女の頬は赤みを帯びて寒そうだった。だからどこか店にでも入ろうと思って歩き出して、それにぴったりついてくる彼女が「どこ行くの?」と訊いてきた。ボクは「どっかあったかいところ」と返して辺りを見回した。だけどダアトの街なんて散策したこともないボクにはどこに何があるのかさっぱりだ。
(もうちょっと事前に調べとくんだったな。この公園だけじゃなくて、他に何があるとか…)
 今更遅いことを思いながらもどうするかなと考えていたら、彼女がくいと腕を引いて「あたしいい店知ってる。あっち」と言ってボクの腕を引いて歩き出した。引かれるままに歩きながら彼女に問う。
「いい店ってどんなとこ?」
「カフェ。穴場だから教会の人なんていないと思うよ」
 さらりと痛いところを突かれてボクは口を噤んだ。自由の身なら例え職場の人間と鉢合わせたぐらいでどうなるわけでもないけれど、ボクはそうじゃない。だから常に警戒しながら彼女と時間を過ごさないといけなくて、彼女もそれを分かっている。一見して能天気そうに見えるのに、実はそうでもないっていう彼女の頭の回転の良さに、ボクはときどきこうしてひれ伏してしまう。
 彼女が楽しそうにどこかの歌を口ずさみながらボクをリードするように歩く。ボクはそれを聞くともなく耳に入れる。
「それ何の歌?」
「えっとねー、なんだったかな。多分この前お店で流してたやつのうる憶え」
「ふーん」
 どうでもいい会話をする。それでも心の渇きが満たされていくのを感じていた。彼女の体温がボクの冷たい心を温めていくのを感じる。
 雪が溶けて水になって全ての命に降り注ぐような、そんな優しい光景が目に見えるようで。
 彼女が案内してくれた店は内装も外装も落ち着いた確かに穴場って感じのひっそりとした店で、ドアを開ければからんからんと取り付けてあるベルが音を立てた。それでカウンターの奥でグラスを磨いていた店主らしい男がこっちを振り返る。彼女の姿を目にするとその店主は人のいい笑みを浮かべた。
「やぁ、また来たのかい」
「マスターんとこのケーキ美味しいから」
 笑顔でそう返した彼女が「シンクこっち」とボクの手を引いて店の奥へと進む。
 他に客の姿はなくて、確かに穴場というか寂れているというか、人はいない店だった。ちらりと窓の外へと視線をやって気配を探り、本当に他に誰もいないのを確認してから息を吐いて肩の力を抜く。
 彼女がくすくす笑ってこっちを振り返って、「そんなに気張ってたら疲れちゃうよ」と言った。ボクは肩を竦めて「もう慣れっこだよ」と返して彼女が示した席にすとんと座った。彼女がボクの手前の席に座って、二人で向かい合うような形になる。
 店内は一応空調が利いているようで、外よりは暖かかった。彼女がコートを脱いで椅子の背もたれにかけるのを見ながら、どうすべきかと迷って外套だけは同じように脱いだものの、帽子は取れなかった。ちらりとカウンターの方を見やれば、店主が水の入ったグラス二つをこっちに運んでくるところ。ふいと視線を逸らせて帽子にかけた手を下ろす。
 彼女が不思議そうにこっちを見て「シンク帽子、」と言いかけて気付いたように口を噤んだ。それから誤魔化すように笑ってたんとテーブルの上にグラスを置いた店主にいつもの笑顔を向け、「マスターあたしいつものケーキセット」と注文した。いつもの、と言う辺り彼女はこの店の常連客らしい。初めて知った事実にへぇと思いながら、ボクはなるべく顔が見えないようにと気をつけながら「コーヒーのブラック」とだけ言った。店主は丁寧に頭を下げて礼の形を取って「承りました」と言ってテーブルを離れていく。
 それを見届けてから、彼女がそっとテーブルから身を乗り出してボクに顔を近づけて、それから帽子に手をかけた。思わず帽子を押さえながら「何」と言えば、彼女は困ったような笑みを浮かべて「取っちゃおうよ」と言う。ボクは何を馬鹿なことと思って「無理」と即答した。すると彼女の困った顔がますます深くなって、ボクは少しの焦りを覚えながら「理由は分かってるだろ」と付け足した。彼女は視線を伏せて頷いてから「でもね」と漏らし、ボクの帽子に触れている手を退けようとしない。
「シンクの顔、ちゃんと見たいな」
「だからそれは……、」
 言いかけて、躊躇って、そして数秒。胸の奥深くから息を吐き出した。
 ここで断れば彼女はきっと諦める。だけどボクは彼女にあんな顔をさせたままにしておけるほど冷たくもなかった。
 以前ならきっと平気でできたことなのに、彼女がボクを少しずつ変えて、ボクはとうとうレプリカでなくなったのだ。彼女のせいで。彼女のおかげで。
 だから帽子にかけていた手を諦めたように下ろして「好きにすれば」とだけ言った。彼女がぱっと表情を明るくさせてさっと帽子を取り上げる。そうすると前髪がぱさりと視界に落ちて、仮面も何もつけていない自分の顔が現れる。仮面を外すときなんて限られているから、こういう場所で自分の顔を曝け出すのは久しぶり、というよりも多分初めてで。
 彼女はにっこり笑って「シンクがいる」と嬉しそうにそう言う。当たり前と言えば当たり前の言葉に「そうだろうね」と返した。彼女がボクが被っていた帽子をくるくると手で回して、少しだけ遠い目をして言う。
「早く、こんなものなくても堂々と外を歩ける日が来たらいいのにね」
 彼女はそう言って視線を伏せた。その手がぱたりと落ちて、帽子のつばがかつんとテーブルに当たる。
 ボクは少し笑って「別にこのままでもいいよ」と言った。彼女は首を傾げて「どうして?」と返してくる。そんなことボクの中ではもう当たり前なのに、彼女の中ではまだ確立していないらしい。だからその誤差を埋めるため、ボクはちょっとこっちと手招きで彼女を呼び寄せる。素直に身を乗り出した彼女の耳元に唇を寄せてボクは囁く。
とこうして過ごせる時間があるんなら、ボクはこのままでもいいと思ってる」
 そう言ったら彼女はぱちぱちと瞬きして、それからはにかんだ笑顔を浮かべて笑った。とてもきれいな笑い方だった。ボクが好きな笑顔だった。
「でもねシンク、私はシンクともっと色んなとこ行きたいよ。一緒に街歩いたりお出かけしたり色々したい」
 彼女がそう言ってボクの頬にそっと口付けた。何度目かのその感触を噛み締めるように頭に刻みながら、「ボクだって本当は」とこぼして彼女の頬に唇を寄せる。彼女の髪からは甘いかおりがした。いいにおいだなと思って目を閉じれば、くすくすと笑う声が聞こえる。甘い声が。
「何さ、笑って」
「なんにも。ただしあわせだなって」
「…うん」
 素直に共感して頷いた。それと同時にことりと控えめな音がして、瞼を押し上げて視線を動かせばいつからいたのか店主がトレイからコーヒーとケーキセットをテーブルに置いているところだった。営業スマイルなのか本物なのか見分けにくい笑みを浮かべて「お待たせいたしました。ごゆっくりどうぞ」と言葉を残して、冷やかしも何もなく一礼してカウンターへと戻っていく。
「ね、マスターいい人でしょ」
 こっちの考えを読み取ったかのように彼女がそう囁いて笑った。確かに冷やかしも干渉も何もない分ここは過ごしやすいのかもしれないと思ってボクも少し笑う。
 かちゃ、とカップを持ち上げて口にしたコーヒーは苦かった。彼女はショートケーキと熱い紅茶を交互に見ながら幸せそうな笑みを浮かべて手を合わせていただきますをする。フォークで切り分けたケーキをぱくと口にすれば幸せそうな顔がとろけた。なんていうんだろう、すごく幸せそう、かな、こういうのは。
 ボクは目を閉じて、いつまでもこんな時間が続けばいいと本気で願った。心の底から、望んだ。

その体温があるだけで

(泣き出しそうなほどにしあわせだなんて)






あとがき

相互記念ものということで、頑張って甘いものを目指してみたらこうなりました(… お気に召していただけると嬉しいです芥子さん!
すごく私情入ってる作品ですね。ええ私自身がこうなってほしいと望んでるからでしょうははは
冗談抜きで、シンクには幸せになってほしかったのです。あの子は損ばっかりしてます。名前も辛苦ですし。…いえごほん。何でもないです
そういう私情含め、こんなものになりました。じゃーん!(何

こんな管理人ですが、芥子さんどうぞよろしくお願いしますー