博多での脳無撃退から数日。
 親父は顔の左側に大きな傷を負ったが無事退院した。
 がうるさく勧めるもんだから、俺は仕方なく実家に戻って、今は蕎麦をすすって親父を待っているところだ。「学校どうだ、焦凍」夏兄が振ってくる話にずぞっと蕎麦をすすって咀嚼、飲み込んでから、「大変だけど、楽しい。退屈してねぇ」と返すと「そうか」とどこかホッとした顔をされた。なんでだ。
 考えて、ああそうか、と思い至る。
 緑谷と体育祭でぶつかるまでの俺は、学校生活を『楽しい』なんて言う人間じゃなかった。そういうことだ。あの頃の俺ならきっと…『ただの通過点』だとか、冷めた声でそんなことを言ってたろう。親父を労おうっていうこの場に参加することもなく、そんな暇があるならと自主練でもしてたに違いない。
 そのうち親父がやってきて、ああだこうだと話はした。
 夏兄は俺とは違い、育児を放棄されていた側だ。親父に思うことは色々あるようで、噛みつくように言葉を吐き出して出て行ってしまった。
 テレビではこの間の対ヴィランの話を取り上げていて、エンデヴァーについてを話している。それを見るともなしに眺め、蕎麦をすする。

 親父さんが死ぬかもって思ったとき、内心冷や汗かいたろ

 ぼんやり思い出すのはの言葉だ。
 とっさに何も返せなかった俺に、アイツはこう言った。生きているうちに、言いたいことはちゃんと言った方がいい。躯は何も言わないし、答えないし、喧嘩だってできないよ、と。
 それが自身のことを言っているのだと気付いて余計に何も言えなくなった。
 だから、じゃないが、姉の誘いをOKして今日この場にやってきた。
 言いたいこと。親父に言いたいこと。……たくさんありすぎて、何から言えばいいのか。
 ニュースで繰り返し流れるエンデヴァーってヒーローの姿を見ながら、まとまらない思考のまま口を開く。「エンデヴァーって奴は、凄かったよ。凄い奴だ」オールマイトも手こずった奴を援護されながらも倒してみせた。凄い奴だったと思う。「けど、夏兄の言うとおりだとも思う。お前がお母さんを虐めたこと……まだ許せてねぇ」思い出すのは、母が入院するまで追い詰められたこと。そのせいで俺の顔にできた消えない傷。
 顔の左側を手のひらで覆う。
 傷は、消えない。この傷はもう俺の一部だ。
 の腕がないことが、義手であることが、アイツの一部であるように。この傷も俺の一部。
 俺はこれを受け入れる。過去は嫌っても消えない。だから。

「だから、これから親父としてどうなっていくのか、見てる」
「焦凍……」

 姉が感動したように涙ぐんだ目で「そば湯持ってくるね」と部屋を出て行く。
 親父は何も言わなかったが、それでよかった。軽い言葉はいらないし、できない約束もしてほしくはない。
 俺は知ってる。ちょっとしたきっかけが人を変えることもある、ということを。
 たとえば緑谷と戦って自分の左を使う気になったように。たとえばに会って、守りたい、そのためになんでもしたいと思えたように。親父もきっと、小さなきっかけで変われる。いや……もう変わり始めてる。
 言いたいことは言ったし、次は親父が応えるのを待とう。
 相澤先生を待たせているし、と蕎麦を食ったら早々に実家を後にし寮に戻ると、部屋着の灰色のスウェット上下姿のが共有スペースのソファで机にかじりついていた。どうやら緑谷、切島、上鳴たちと宿題を片付けているらしい。

「あ、おかえり轟くん」
「おう」

 教え役らしい緑谷に片手を挙げて返し、のそばに行く。
 普段なら俺が教えるんだが、今日は俺がいなかったから緑谷に頼ったってところか。それで次々宿題終わってない奴らが集まって勉強会みたいになってる。
 はシャーペンの消しゴム部分を唇に押し当てて「あー。えー? えー……」ぶつぶつ言いながら書いたり消したりを繰り返している。
 なんでもない姿。特別でもないし、日常的にありふれている、そんな姿でさえも守りたいと思うのだから、お前は罪深い。
 ふわふわしている黒い髪に顎を乗せて「ここがポイント」と数式の一部を指すと、がじっと俺の指を見つめてから顔を上げた。さっき風呂に入ったのか、さらふわの黒髪がきれいに揺れる。「おかえり。ここポイント?」「ん」「えー。あー……ああ!」頭の中で数式が浮かんだらしいがシャーペンでガリガリとノートに記述していくのを眺める。丸っこくて小さい字。
 最後の難問だったらしく、は高々とノートを掲げて「終わった〜!」と宣言するなりソファから立ち上がり、まだ唸っている上鳴と切島に向かってガッツポーズをしてみせると、緑谷にいい笑顔を向ける。

「終わったからイチ抜けた。緑谷ありがとね」
「どういたしまして。あとは切島くんと上鳴くんだね」
「ぐぬー…」
「くっそぉズルいぞ。轟の手まで借りやがってぇ。えこひいきだ〜!」

 そんなに解けないのか、数学のノートをぶん投げそうになっている上鳴に首を捻る。
 えこひいき。そりゃあ、贔屓するさ。好きな奴なんだから。
 俺が何かを言う前に、俺が墓穴を掘るって可能性をいつも案じているの行動は早い。「よし、じゃあ部屋戻る。二人ともガンバ!」背中を押されるまま歩き出し「頑張れよ」と二人に声をかけて男子寮側のエレベーターに乗り込む。
 箱の口が完全に閉じてから、風呂上りのせいかふわっと良い匂いをさせながら髪をかき上げたの首筋に、吸い寄せられるように顔を寄せて肌を舐める。「コラ」「ん」「せめて部屋に戻ってから」「ん」同じシャンプー使ってるはずなのに良い匂いがする。
 が風呂に入れと言うから、さっさと済ませて畳の自室ではなく防音仕様になってるの部屋に行くと、テレビでは映画が流れていた。
 ダンベル片手に筋トレしながら視線はテレビに釘づけののそばに行って細い腰に腕を回して抱き寄せると、なんだか呆れた顔をされた。

「なんでそんな触りたがりかなぁ」

 呆れたような諦めたような溜息に「わからねぇ」と返して、俺からも同じ匂いがするんだろうかと思いながら、の首すじに唇を埋めていく。
 このままシてぇなと思ったが、ダンベルを持った腕を突っぱねられた。「シないよ」「……なんで」「もう補講の試験まで時間ないだろ。今日も出てたんだし、たまには体休めなさい」「………」無言で抗議してぐいぐいと抱き締めると呆れた顔をされる。

「あんね。エッチにかまけて補講の試験まで落ちたらどうするんだ」

 ……正論だ。正論すぎて何も言えない。
 俺の腕から抜け出したをそれ以上捕まえることができず無言で拗ねていると、はぁ、という溜息のあと、ダンベルを手離した右の手にやんわり頭を撫でられた。「ちゃんと合格して、仮免取れたら、気が済むまでシてやるよ」「……ホントだな」「ほんと」頭を撫でる手を取って唇を押し付け、今は、これで満足しておくことにする。
 がヒーロー名である『ナーヴ』としてヒーローの授業の場に立ったのは、ヒーロー科A組対B組に、普通科の心操をゲストとして参加させる対抗戦の場でだった。
 それまでは個性伸ばしの特訓で一人隅っこで個性を使ってることが多く、ちゃんとした授業として参加するのは、これが初めてだ。
 ヒーロースーツで個性の特徴が判断されないようにか、冬服みたいにもこっとした上着を着て、対照的に下はタイトでスラッとしたパンツ一枚という格好をしている。
 つい股間にいきがちになる視線を無理矢理引き剥がして「…動きにくくないか」もこっとした上着を指す俺には義手である左腕の方をぐるぐるさせて「あったかくないと腕の調子悪くなるから」「ああ…」それでもこもこしてるのか。
 尻のラインが出てる白いパンツに生唾を飲み込んで、かわいい、エロいって言ったら微妙な顔をするんだろうと思い、その言葉も唾と一緒に呑み込んだ。
 昨日の今日ってわけじゃないが、の本格的な実技項目の参加。本人よりも俺の方が気持ちが落ち着かない。
 大きな怪我をするんじゃないか。たとえしてもリカバリーガールが治してくれる。ヒーローをやるなら避けては通れない道だ。いずれこの日はきていた……。
 目の前のスクリーンの試合がどこか他人事で、俺は自分のことよりの心配をしてしまってる。
 せめてもの救いは俺と同じチーム分けになったってところだ。俺がカバーをしてやれるし、守ってやれる。
 そんな俺の考えが分かるんだろう、ひょい、と俺の視界の真ん中に入ってきたがどこか呆れた顔で手袋をした左手でぺちんと俺の頬を叩く。

「これからホントにヒーローするなら避けては通れない道だ。大丈夫。やれるよ」

 ……本人がこう言うんだ。俺に頷く以外の何が返せるだろうか。
 俺が自分を落ち着けている間に第二セットが終了。「ステージ移動だ」相澤先生の言葉にはとくに気負いした様子もなく「行くよ」と先を歩いていく。
 第三セットは俺、、飯田、障子、尾白でA組が五人。対するB組は四人。
 ルールの細かいところを省くなら、制限時間は二十分、自陣からスタート。自陣にある校長マークのファンシーな檻に相手チームを四人放り込んだ方が勝ち。
 このメンバーで機動力がないのはだが、個性の神経を使って相手の場所を遠くからでも正確に絞れる。
 の個性で敵の場所を発見して俺や飯田、尾白で攻め込み、目も耳も人より増やせるカバー力がある障子にのことを任せて……。
 考えていると、カン、と足元の鉄の床を蹴飛ばしたが足を止めた。「はい、作戦会議」手を挙げたは、その手で俺を指した。

「B組の個性とかは一通り知ってるけど、情報共有がてら復唱。はい」
「角取ポニーの個性は『角砲』…角を飛ばせるって話だ。本数は知らねぇ」
「次、飯田」
「鉄哲くんの個性は『スティール』自らの肉体を鋼鉄のように硬くするぞ」
「はい。次は障子」
「では…骨抜の個性だが、『柔化』だ。触れたものを柔らかくできるらしい」
「じゃ、最後、回原を尾白」
「彼は体をドリルみたいに回転させて、削ったり弾いたりできるらしいよ」
「はい、よくできました。その上でみんなに提案があります」

 ぽん、と手を合わせた向こうの方で上がり始めた煙を眺めながら、とても淡白な声で、「作戦ってほど大げさなものでもないけど、轟の炎を使いたい」「炎?」首を捻った俺に、はとても淡白な顔を向けてきた。まるで感情のすべてを削げ落としたような無の顔。

「炎責め。この一帯焼き払うくらいできるだろ。できない?」
「……できる。と思う」
「炎責めの理由は、あっちには柔化の個性持ちがいること、俺や障子のような偵察系の個性持ちがいないことが挙げられる。
 偵察役がいないなら、戦力を分散してくる戦い方は考えにくい。となると、正面からのぶつかり合いがあちらの理想だ。ほら」

 が指さした方角を見やると、鉄塔が音を立てて倒れていくところだった。続けざまに色々壊れているところを見るに自然崩壊じゃない。つまり、B組の仕業。「向こうは隠れる場所をなくして更地で真っ向勝負って考え。で、今壊してるわけ」「な、なるほど」頷く尾白。障子も飯田もの思考の回転力に感心している。それは俺もだった。
 こういう実践経験はあんまないはずなのに、組み立て方に隙がない。ついでに遠慮もない。

「炎を使いたい理由の捕捉。
 骨抜だけど、地面や建物だけじゃなく轟の氷まで柔らかくしてくるかもしれない。だから氷に頼って相手を無力化する作戦は危険だと判断する。
 かといって、こっちのメンバーに相手の正面攻撃を広く迎え撃てる奴は轟以外いない。でも氷はダメ、なら」
「だから炎、か。しかし、それだと建物に被害が…」
「もうあっちが出してるし、それはオアイコで」

 考えるように顎に手をやる飯田に、俺は黙した。
 はあくまで淡白に「相手はヴィラン。そう仮定するなら、命を奪わない程度に加減しながら、それでも容赦なく、迅速に鎮圧すべきだ」と言う。

「これは対抗戦だけど、本番だと想定しなよ。
 場合によっては人質がいる。街に被害が出ていて市民が救助を待ってる場合もある。ヴィランに時間はかけていられない」

 作戦を語るはまるで氷みたいに冷たい声で、俺は思わずのもこっとした右腕を取っていた。「ん?」首を捻ったは俺の知ってるだ。ただ、作戦を練ってるときのお前が、俺の知らないお前ってだけで。
 一つ大きく呼吸して、手を離す。
 破壊音は大きくなってる。この時間もそうはない。
 この場一体足ごと凍らせてしまえばそれで終わりだと思ってた。だが、相手の個性を考えるならの言うとおり、氷では甘い。
 わかった、と返した俺にはようやくいつもの顔でへらっと笑った。その笑顔に束の間ホッとする。
 の作戦、結果はといえば、炎で辺り一帯を焼き払って熱で攻めた俺に、相手は大した手も打てなかった。
 の個性で地面を動かし相手を逃げ場なく縫い留め、一人ずつ気絶させてから檻まで運搬する。
 一番の問題だった骨抜の柔化も、地面に潜られたときは警戒したが、が地面に神経を流して『生き物』にしてしまえば、骨抜の柔化は通用しなかった。生き物になった地面から吐き出された骨抜を気絶させて飯田で迅速に運搬、俺の灼熱にも負けない体力馬鹿の鉄哲は全身氷漬けにしたまま運び込んで檻にぶち込み、試合終了。

「いえーい」

 飯田、障子、尾白とぱちんと手を打ち合うには表情が戻っている。「いえーい」はい、と手を掲げるに同じく手を出してぱちんと打ち合いながら思う。あの冷徹な表情。あれも俺の知らないなのだ、と。
 それなりに一緒に時間を過ごしてきたように思う。飯も、風呂も、勉強も、セックスだってしてきた。それでも、俺の知らないお前はいるんだな。