俺よりも大きくてごついなと思う手が首にかかり、ゆっくりと密やかに、俺のことを絞め上げていく。
 俺の首を絞めている手から腕、腕から肩を伝い相手の顔へと視線をやると、見覚えのある赤と白の特徴的な髪色をした男子が一人。ヒーロー科の轟焦凍。だ。間違えようがない。
 首を絞め上げる手が片手から両手になり、ギリギリと強く、強く、死ね、とばかりに力を込めて絞められる。
 無感情なその顔からは轟が何を考えてるのかはさっぱりわからず、俺は考えることを放棄した。
 相手はヒーロー科のエース。俺はサポート科の落ちこぼれ。力の差は歴然だ。抗うだけ無駄。

(でも、まぁ)

 轟が何を思ってこんなことしてるのかはわからないけど、少しでもお前の気が済むならこれでもいいや。
 この先の人類に、ヒーロー界に必要な人間の何かしらを俺が支えてやれるなら、一時的な発散先になれるのなら。これでも、いいや。
 そんな夢を見て目が覚めて、首にやっていた手を外す。「ごほ…っ」どうやら自分で自分の首を絞めていたらしい。なんだそれ。我ながら意味がわからない。
 寝ぼけた頭で顔を洗いに行き、洗面台の鏡に映った自分の首にある手の痕に指をやる。…こんなに絞めるか? 自分で。まぁいいけど。
 痕を隠すため、暑いけどタートルネックのシャツを着て朝ご飯を食べ、制服に着替え、いつものように登校。
 パーツを新調したから調子のいいスペアの左腕をぐっぱしながら徒歩十分もない校舎に行くと、女子が教室前でキャイキャイしていた。……邪魔なんだけど。何してんだ。
 迷惑だな〜と思いながら反対の入り口に向かおうとして、ぱし、と右腕を取られた。顔を向けると轟がいるではないか。「あ? あー、おはよう?」ぎこちない挨拶になった俺に「はよ」とぼやく轟が女子が邪魔だと言いたそうな顔をする。それでも俺の腕は離さない。

「あー、トイレいこっか」

 男子だけの逃げ場といえばそこしか思い浮かばず、登校早々男二人でトイレに行くことになる俺。なかなかに意味がわからん。
 今朝見た夢。轟に首を絞められる夢を思い出してなんとなくタートルネックの襟元を引っぱり上げる。
 他に誰の姿もない男子トイレまで行ってようやく腕が自由になった。「なんか、用事?」轟の顔が見れない。夢のこともあるし、アレだ、そういえばなぜかされたんだったキスを思い出す。から。顔が見れない。
 用事かと訊ねた俺に、「腕大丈夫か」と落ちる声はいつもの轟のものに聞こえる。顔に火傷の痕があってもイケメンと言える部類の、いつも涼しい顔をしてる奴。「あと一日あれば直る」そしたらもうこうやって声をかけてくる必要はなくなる。壊れた腕は直るし、俺にはプラスの金が入った。おかげで古い文房具一式を新調したりボロクソだった鞄を新しくしたりできた。全部轟のせいで、轟のおかげだ。
 そうか、と落ちた声もいつもと同じに聞こえる。「うん。じゃあ」そのまま、相手の顔を見ないまま隣をすり抜けようとして、また腕を掴まれた。…なんなんだもう。
 仕方なく顔を向けると、轟がじっとこっちを見ていた。

「……なに」

 夏にはイケメンで有名な男と遊んでたけど、火傷の痕がなければ轟の方が……って何考えてんだ。「轟。俺、教室に」行きたいんだけど、と続けられなかった。轟が顔を寄せてきたからだ。後ずさったけど広くはないトイレ内、手洗いの台に腰をぶつけてそれ以上後退できなくなる。腕は掴まれてて逃げられない。
 力つっよ。さすがヒーロー科。じゃなくて。
 二回目のキスをされて頭の中が白くなった。思考が。うまく、できない。
 すぐに顔を離した轟が自分の行動に首を捻った。「…?」いや、それ俺の反応だろ。なんでお前が不思議そうにしてんだよ。意味わかんねぇよ。
 そんな濃厚な朝だったので、授業内容はといえば、半分ほどしか頭に入ってこなかった。あまりに集中力が散漫すぎて、毎日予習復習してなきゃついていけないところだった。
 昼の時間になり、いつもの隅っこの席でスペシャルチーズバーガーとポテトとサラダのセットをつまみながらアプリでヒーローニュースを眺めていると、ガタン、と隣の席の椅子が引かれた。他が空いてるだろ、と目を向けると知っている紅白頭があってぎょっとする。「と、どろき?」「ここいいか」いいかって、もう座ってんじゃんよ。
 朝の出来事があっただけになるべく壁に身を寄せてバーガーをかじる俺である。
 無言で蕎麦をすする轟に、いっつも同じもん食べてんなぁ、と思う。いつ見ても蕎麦、蕎麦、蕎麦。飽きないのか…?

「なんか用事ですか」
「とくに何も」
「あ、そう……」

 用もないのに何しにきたんだよ。とは言えず。だからって朝のことを問い質すこともできず。
 ポテトをつまんでは口に運び、ジュースをすする。
 雄英の飯はなんでもうまくて安くてサイコー。マクドナルドとかモスバーガーとかもう行けないや。
 轟は本当に用事がなかったらしく、スマホを弄る俺の隣で蕎麦をすすり、険しい顔でスマホのラインを睨み(相手までは見えなかったけど俺ではないと思う)、「轟くーん」とクラスメイトだろう男子に声をかけられると席を立った。…なんのために隣にやってきたのか、本当、謎だ。
 そして、起こるべくしてというか、ソレはやってきた。
 クラスメイトの女子からお呼び出しだ。
 下駄箱に入っていた、ハートのシールが貼られた薄いピンク色の封筒をつまんで胡乱げに眺める。
 嫌な予感しかしなかったものの、これを無視するのもマズいんだろうなということもまたわかっていた。「…はぁ」一見すればラブレターのようにも見える手紙の差出人を眺め、物のよさそうな紙の裏にペンで一言走り書きをし、手紙を元通りにしてポケットに入れる。
 表面上は『これって女子からの告白かな〜うわ〜〜』と浮かれている感じを出せるよう努力し、指定された体育館裏まで行けば、ズラリと五人、クラスメイトの女子が待ち受けていた。中央にいるのはお嬢様のコネというやつで雄英に入ったらしいというウワサが有名な子で、クラスの女子の中心的人物だ。

「ねぇ、くん。どうして呼び出されたのかはわかってるよね」
「どうして、でしょうか…」

 あくまで知らんぷりをしてみようと努力したけど、俺の作った困惑顔に相手は苛立ったようにだんっと地面を踏んだ。「轟くんとどういう関係なの?」いかがわしい感じの関係を疑って詰問する口調なのは本当に勘弁してほしい。マジで困るから。俺と轟は何も………いや。なぜかキスはされたけどさ。
 彼女に従うようにして囲む女子が口々に「あなたのせいで轟くんが迷惑してるの」「片腕の施設っ子が出しゃばらないでくれる?」よくもまぁピーピーピーと鳴くなぁと思う、そんな勢いで俺のことをこき下ろしていく。
 最近の女子は肉食獣だって言われるけど、本当にそうだな。そんなことを思いながら右から左に言葉を受け流す。表面上は傷ついている、反省している、という顔をすることは忘れない。
 いつ終わるんだろうなぁ。早く終わってほしいな。そんなことを思っていると、制服の上着を剥ぎ取られた。「ちょ、」これも予想済みだ。そのために携帯は隠してきた。制服に入ってるのはペンと飴とかそんなもので、俺の持ち物の貧相さに女子は笑っている。
 ズボンのポケットも容赦なく調べられたけど、思ってたとおり、呼び出しのために使った手紙は取り上げられなかった。
 そういう個性なんだろう、一人の女子が体育館の壁に手を当てて扉を作り出す。人一人が通れそうな扉だ。ギギギと不穏な音を立てて開いた扉の向こうの暗闇にドンッと突き飛ばされ、「反省なさい」尊大な顔に見下ろされながらギギギと扉が閉まりかけ………何を思ったのか、リーダーの女子が俺の左腕を掴む。にっこりとした笑顔に嫌な予感で背中が凍る。
 閉まりかけた扉と壁の間に左腕を挟まれる。思いのほか力が強くて女子の手を振り払うことができない。「ちょ、っと待って、」普段自分の左手として使っているからとっさの切り替えが。
 深く神経接続している左腕を挟んだままバンと強く扉が締められ、めき、と腕が嫌な感じの音を鳴らし、突き刺すような痛みを伝えてくる。

「……ッ!」

 ほんと、最近の女子って。容赦ない。男よりずっと怖い。
 俺の左腕を呑み込んだまま消えてしまった扉に舌打ちしながら神経の接続を解除するも、突き刺すような痛みが体中を刺している。
 辛い。しんどい。痛い。
 今はあまり使われていないのか、小さくて埃っぽい倉庫の中に取り残された俺は悲鳴を呑み込み、呼吸を整え、壁に耳を当てた。外からはキャッキャとはしゃぐ女子の声。ついさっきまで俺のことをこき下ろしていたとは思えないくらい楽しそうな女子トークをしながらここを離れていく。
 人の腕をダメにしといて、その切り替えの早さ。ある意味すごいと思う。
 溜息を吐いてその場に胡坐をかく。
 痛みのせいで冷や汗がすごい。シャツがべたべたする。キモチワル。
 思考までズキズキするものの、なぜ俺が冷静なのかというと、こういったことは初めてじゃないからだ。
 片腕。施設育ち。虐めの対象として身体的に欠損のある俺は格好の的であり、小学校でも中学校でもだいたい虐められたし弄られた。施設育ちということで満足な資金援助を受けられないことも手伝い、誰かのお下がりのような服しか着れない経済環境の俺をみんなが嗤っていた。
 そういう目には慣れている。そういう顔にも慣れている。
 嗤った顔。こちらを見下す目。
 雄英は有名な学校だし、ヒーローを志す人が集まるものだと思ってたから、こういう人間もいるんだなってことはちょっと残念だけど。ま、人間なんてそんなもんだろう。

「寝ますか…」

 腰を上げ、時間経過で彼女たちが解放に来るだろうと踏んだ俺は適当なマットを見つけてそこで寝ることにした。
 ここですぐにこの場を脱してしまった場合、また同じような目に遭うことになるだろう。適当に時間を潰した方がいい。その方が彼女たちが『やりすぎた』と考える時間もできるかもしれないし。あの分だと反省とかあまり期待できないけど。
 埃っぽいマットの上で痛みに耐えて蹲っていると、なんとか眠れたようで、次に目を覚ましたら、二階の小さな窓から見える外の景色はすっかり夜になっていた。「ごほ」埃っぽいマットに一つ咳き込んで起き上がり、手を這わせながら壁際まで行って背中を預ける。全然何も見えないな…。人が来る気配もない。
 仕方がない。
 右手を体育館の壁に押し当て目を閉じる。
 ちょっと眠ったから痛みも落ち着いてる。できる。

(神経、接続)

 無機物に対して、古くて誰も訪れない体育館に対して自分の神経を接続、馴染ませていく。
 本体の方がかなり無防備になるものの、ここに俺以外はいない。今は放っておいても問題ない。
 じわじわ、じわじわ、俺の体が寄り掛かっている壁からじわっと体育館の構造その他を把握。二階の窓はここで、階段は、ここか。
 ぱち、と目を開けていったん接続を解除。たった今確認した体育館の構造を頭の中に描きながら暗闇の中を慎重に這って行き、急な角度の木の階段を上がり、人が通ることは難しいだろう小さな窓を開ける。
 たとえば無理矢理、枠組み全部外したとして、それでも外に出られるかは微妙なところだ。
 地上まではまぁまぁの高さがあるから、下手に飛び降りたら骨折とかするかもしれない。俺は鍛えてないし、身体的なカバーができる個性でもないから、無理矢理外に出るのは賢い手とはいえない。
 そこで登場するのが、取り上げられることのなかった手紙である。
 肌触りのいい紙片を紙飛行機にし、神経を接続。「頑張れよ俺……」体の方は完全に力を抜くつもりで埃っぽい床に横たえ、意識の全部を紙飛行機へと持っていく。
 小さな窓からだらりと下げた右腕から紙飛行機が飛び立ち、すいーっと空中を泳いで学生寮に向かって飛ぶ。
 ときには風にあおられ、ときには木の枝に引っかかりながら、俺の意識を乗せた紙飛行機はなんとかヒーロー科1ーAの寮に到着。
 気付いてくれよ、と思いながら紙飛行機をコツンとガラス窓にぶつける。小さな音はガラスの向こうで歓談に興じる誰の意識にも届かない。
 そろそろ限界なのか、紙飛行機の視点がブレ始めた。意識が本体に引き戻されそうになるのを堪え、誰か気付け、と飛行機の先で共有スペースの窓をつつく。
 見慣れた紅白色の頭をした轟が紙飛行機の俺に目を留めた、あたりで、紙飛行機の視点が消えた。
 ぼやっとした視界のまま窓から手を引っこ抜き、古い木板の床の上で目を閉じる。

(轟、気付くかな……)

 気付いてくれるといいなぁ、と思う頭がぼんやりしている。慣れないことを立て続けにしたせいだ。俺は個性の特訓とかしないから、たったこれだけのことで熱を出して疲れている。「もっと、きたえ、ないと…」ヒーロー科はそれこそ死に物狂いでやってるに違いない。偉いなぁ。同じ一年なのにさ。
 意識が曖昧になってきた頃、ドンドンと扉を叩く音が聞こえてきた。「ッ!」…轟の声。だと思うけど。ぼやけていて自信がない。
 声も出せない俺に、どうやら個性を使って施錠された扉をぶっ壊したらしい相手が「どこだ!」と俺を捜す声が、切羽詰まっていて。なんか笑ってしまう。

? しっかりしろっ」

 俺を発見したらしい誰かに抱き起されたものの、感覚が曖昧になっていてよくわからない。
 今度から個性の特訓を真面目に頑張ろうかな、なんて思っているうちに俺の意識は昏い血色の底にドプンと沈んだ。