今日は俺の人生には無関係だった『バレンタイン』という、お菓子業界の野望が暗躍してるような菓子にまみれた甘い日である。
 ヒーロー科1Aのクラスメイトもバレンタインという日に色めき立ち、男子はそわそわ、女子はふわふわとしていて、それは授業が終わって寮に帰ってからがむしろ本番だった。

「こちらのチョコなのですけど、みなさんと一緒に作りましたの。よろしかったらどうぞ」
「ありがとー」

 八百万が差し出したタッパのチョコを二つつまんで受け取って、隣で目を閉じてぐたっとしている焦凍の口に突っ込む。「う」薄目を開けた焦凍に「八百万がくれたよ」口をもごもごさせた焦凍は大人しくチョコを食べた。俺もぽいっと口に放り込んで、市販品くらいの味にはなっている手作りチョコを味わう。
 まさかこの俺が、義理とはいえ、女子の手作りチョコを食べられる日が来ようとは。ちょっと感激。
 八百万が自信なさそうに眉尻を下げて「どうでしょうか…?」と窺ってくるから、「おいしいよ」ここは素直に、でもちょっと盛った笑顔で返すと、八百万は安心したように胸に手を当てて、次の男子へと義理チョコを配りに行った。
 共有スペース、俺の左隣でぐたっとしてる焦凍の右側はすげぇ冷たいけど、肌に霜はなくなった。それが俺の体温のせいか落ち着いて来たせいなのかはわからないけど、とりあえずよかった。
 授業後、どうしてか調子が悪くなってしまった焦凍がここでいいと言うもんだから、今日という日はとくに落ち着かないだろう共有スペースのソファで、誰かが流してるんだろう、英語音声日本語字幕の恋愛ものっぽい映画を遠目に見ている。内容はあまり頭に入ってこない。
 焦凍の右半身には毛布と俺。左半身には八百万に作ってもらった大きな保冷剤を抱えさせて、それで何とかなっている焦凍はまだ調子が悪そうだ。「部屋行かなくていいの?」「いい」何度目かになる問いに何度目かになる答え。今日はどうしてか部屋に戻りたくないらしい。
 もうちょっと大きな音ならなぁ、と思いながら遠目に恋愛もの(健全)の映画を眺めていると、八百万に義理チョコをもらってヒャッホイと喜んでいる男子のうちの一人、上鳴が上機嫌にこっちにやって来た。

「どうよ、轟の調子」
「ダメそう。すげぇ冷たいしすげぇ熱い」

 どれ、と手を伸ばして焦凍の額に触れた上鳴がぎゃっと叫んで手を引っ込めた。「何コレ、ヤバない? 保健室行った方がいいんじゃ」だよなぁ。俺もそう思ったんだけど、肝心の本人がさぁ。
 薄目を開けた焦凍が上鳴を睨みつけて「平気だ。大人しくしてればよくなる」と返して俺の肩に頬を押し付けた。
 調子が悪いことを理由に公衆の面前でも甘えてくる焦凍にぐっと堪えて、「だってさ」とぼやいて紅白頭をぽんぽんと叩く。
 納得したのか、してないのか、首を捻った上鳴は「ヤバくなったら保健室行けよな」と残して自室に引き上げていった。
 見た目はまぁまぁな上鳴(ただしバカだってみんなが言う)が何人かからチョコをもらってたのは知ってる。きっと今日って日に満足してるんだろう。今からニマニマしながらチョコ食べるのかな。
 義理チョコ以外のチョコがもらえなかったと嘆く峰田、実は誰かからもらってたくせに隠してる瀬呂、お菓子作りが趣味だからバレンタインにはガトーショコラを自作して振舞ってくれた砂藤、表面上気にしてないように見えて実はチョコをもらえてないことを結構気にしてる尾白。それぞれの表情を観察していると色々と面白い。とくに峰田。
 機械の手をぎゅっと握る焦凍の手を右手で撫でる。つめて。

「今日確か、食事当番じゃないっけ」
「ん…」
「俺かわろうか」
「いい。それまでに治ってる」
「何を根拠に…。調子悪い奴に飯作らせるほど鬼畜じゃないつもりなんだけど」

 ぺち、と手を叩く。そりゃあ俺は水は得意じゃないけど、ゴム手袋すれば大丈夫だし。
 眉間に皺を寄せた焦凍と無言で競り合っていると、にゅ、と手のひらが割り込んできた。「その役目、俺が引き受けよう!」飯田だ。バレンタインという今日も特にいつもと変わらない委員長は焦凍の様子を見て腕組みし「俺が当番のときに交代してくれればいい。だから今日は俺がやるよ」そう言う飯田に、焦凍は口をへの字にしてから「わりぃ」とぼやいて俺の肩に頭を預け直した。

「しかし、何が原因でこうなってしまったんだい?」
「さぁ。もしかしたら疲れが溜まってたのが爆発したとか……。インターン大変だしね」

 ナンバーワンのインターンを挙げて苦笑いで誤魔化した俺に、八百万からチョコをもらって感激していた緑谷がたったか駆けてきた。人の良い緑谷はインターンという言葉に反応したようで、「大丈夫? 轟くん」と眉尻を下げて焦凍の心配をしてくれる。「平気だ」口ではそう言うけど、まだ全然ダメそうなんだよなぁ、焦凍。
 今日は一段と賑やかな共有スペースで、焦凍を心配する声が一通り落ち着いた。
 夕飯の支度だったり、自主練だったり、勉強だったり、まだどこかふわふわした空気はあるものの、みんながいつもの日常へと戻っていく。
 テレビではまだ恋愛映画がやっていた。
 それを見るともなく眺めてぼやっとするだけの時間は、退屈ではない。どちらかといえば贅沢だ。焦凍の調子が悪い今日くらいは、勉強とか自主練とかサボっちゃおうかなって気になる。
 そうやって無為に時間を過ごしていると、隣の焦凍がのそりと動いた。八百万が作ってくれた大きな保冷剤はすっかり常温になっていて、ぼちゃっと床に落ちる。

「だいぶ顔色よくなった」

 額に手をやってみると、まだ多少熱い冷たいとは感じるものの、最初ほどではない。「ん…」俺の手に顔をすり寄せてくる焦凍から身だけ引いて、キッチンからトントンと包丁の音がしている共有スペースで数秒見つめ合う。
 部屋行こうか。本日何度目になるのかわからない言葉に、焦凍はようやく頷いた。いつもなら階段を使うところを、焦凍の調子が悪い今日はエレベーターで五階に上がり、角にある俺の部屋へ。
 解錠して部屋に入ったとたん、背中側から抱き締めてきた。調子が悪かろうと力強い。「こら」とりあえず部屋に入りきってドアを閉める。
 焦凍は体調の悪さのせいか潤んだ瞳をしていた。「ベッド」「…しないよ? お前調子悪いんだから」念を押して、縋りついてきて動きにくいことこの上ないけど、焦凍を連れてベッドの方に行く。
 今日はなんでか共有スペースにいたがったけど、やっぱり調子が悪かったらしい焦凍は横になった途端眠そうに欠伸をこぼした。

「寝ていいよ。飯は取っとくから」
「……荷物」
「ん?」
「宅配が来るんだ」
「わかった。受け取っとく」

 おやすみ、とキスすると焦凍は名残惜しそうにしながらも目を閉じて、すぐに寝てしまった。それだけ辛かったんだろう。「まったく…」小さくぼやいて冷蔵庫から冷えピタを取り出し、額に貼りつける。これで明日も調子が悪かったら保健室に連れていくからな。
 焦凍が寝てしまったし、明かりをつけるわけにもいかない。そうするとこの部屋で俺にやれることがないわけで……仕方ないから今日の予習復習は共有スペースでやるか、と教科書とノートを持って下に行き、ついでだから配膳もちょっと手伝って、今日は中華な夕食を一足先にいただく。
 麻婆豆腐とエビチリとご飯を食べて、焦凍の分をタッパに入れて取っておき、飯で賑わう一階の隅でシャーペン片手に教科書を睨みつける。
 いつもなら焦凍が横から教えてくれてすぐに解けるけど、今日はそうもいかない。自力で………あーーわからん。
 教科書を前に唸っていると、寮の扉が外からノックされた。荷物かな。「はーい」ガコン、と扉を開けるとクロネコマークの制服を着た宅配業者の人が「轟さんいらっしゃいますか」と言うから「はい、代理です」預かってるハンコを見せてぽんっと押して、それなりの大きさの段ボールを受け取る。品名は、チョコレート。か。お姉さんとか家族からかな?
 まだ他の寮にも用があるんだろう、「ありがとうございましたー」と走って行くお兄さんを横目に扉を閉めて、受け取った箱と、ちっとも進まない勉強は諦めて教科書類もまとめて部屋に引き返す。
 そろそろ焦凍が寝て一時間だ。このまま眠り続けると夜中に目を覚ますことになる。いったん起きてもらおう。
 五階の自室に戻り、心を鬼にして部屋の電気をつけると、ベッドの方で呻き声が上がった。

「焦凍」

 体調が回復してるなら起きなさい。そのまま寝るとこのあと眠れなくなるから。
 布団を被って部屋の明かりから逃げている焦凍の頭が見えていたので、左右で色の違う前髪をかき上げて冷えピタを剥がし、額に右手を被せて温度を調べる。……うん、寝る前よりいいかな。
 再び心を鬼にしてべりっと布団を引っぺがすと、色の違う両目を薄く開けて眩しそうにこっちを見上げる焦凍がいた。いつもなら寝起きは俺が弱いから、お前のそういう顔見るのはちょっと珍しい。
 眠そうにまどろむ顔に一つキスして「一回起きな。そのまま寝ると夜に寝れなくなるから」「ん……」俺の手に引かれて大人しく起き上がった焦凍が欠伸を一つこぼし、ローテーブルに置いたゴディバの箱を見るなりあっと口を開けてなぜか視線を彷徨わせる。そのことに首を捻りつつ、家族からだろうと疑ってなかった俺は段ボールを差し出した。けど、なぜか押し返される。
 焦凍が視線を伏せたままごにょごにょっと「それ、お前に買った、から」「は?」「……だから。に。バレンタイン」ぼそぼそした声に思わず段ボールに視線を落として、人生初のゴディバを睨みつけ、はぁー、と深く吐息する。

(あのさぁ。俺なんて購買でチョコ菓子の袋を一個買っただけだよ? それがゴディバって。ゴディバって。お前さぁ)

 ゴディバと書かれている段ボールを睨みつけ、照れくさいんだろう、視線を伏せたままの焦凍の肩を抱き寄せて、まだどこか熱くて冷たい首筋を舐め上げる。
 わかりやすくビクつく焦凍の耳に唇を寄せて「ホワイトデーは好きなモノあげるよ」と囁いて顔を離し、人生初のゴディバをさっそく開封してみる。
 チョコを食べたあとでも入れ物として使えそうなしっかりとしたボックスに、一粒一粒が凝っているチョコが、何個だ。何個入ってるんだこれ。「さすがにこんなに一人では……焦凍も食べてよ」「…ん」俺が舐めた首を手のひらで押さえていた焦凍が若干赤い顔でベッドを抜け出す。
 まぁまずチョコの前に、冷蔵庫で寝てる中華の夕飯を食べてからだけど。
 一粒一粒手間暇かけて手作りしたんだろうなぁという技巧が光るゴディバのチョコをつまんでみて、このボックスが一体いくらしたのか、というのは、卒倒しそうだから訊かないことにした。