アンプルで向上した個性の最後の力を振り絞って川の水という水を一瞬だけ凝縮させ、相手の体に穴を開けるつもりで放って、薬の効果が切れた。びき、と全身に筋肉痛みたいな痛みが走る。
 咳き込んで肺の辺りを押さえている焦凍を抱えてバックパックのガスを噴射、片腕落とすことに成功したデカいヴィランから距離を取る。濡れた髪が顔にはりついて邪魔だ。

「まだいける?」
「やれる」
「薬は切れた。あとは普通にしか個性使えないのと、反動が来るから、ちょっとダメになると思う」

 感覚が鈍くなり始めている指先を見つめてから、抱えている焦凍の紅白頭に一つキスをする。
 髪が濡れてぺったりしてる。そういうお前も色っぽいけど。
 世界中でトリガー・ボムが爆発する、タイムリミットまで残り五分くらい。
 今から俺と焦凍が頑張ってこの敵を撃破できたとして、トリガー・ボムの制御システムまで到達はできないだろう。先行した緑谷を信じて任せるしかない。
 なら、俺たちが今やるべきことは。このヴィランの相手をすること。緑谷のもとへ行かせないこと。

「俺が囮になるから、その隙に頑張って」

 薬が切れたから制御を失い散らばった水がぼたぼたと雨になって降ってくる中、パッと焦凍を離した。
 返事を聞く前にバックパックを使って飛んで距離を取ると、怒りやら憎悪やら、とにかく負の感情を込めた叫び声を上げて、片腕を失ったヴィランが俺へと突進してくる。
 うん、それでいい。
 巨体のわりに素早い相手の、きつく握られた大きな拳にとっさに構えた左腕。鉄製の義手はオモチャみたいに簡単に破壊されて、大きな拳が大して鍛えてもいない俺にめり込んで、ばき、ぼき、と骨が砕ける音を聞いた。
 でも、左腕を落とされたときに比べたらなんのその。
 と、意識で軽口を言えるだけまだマシだけど、現実問題、吹っ飛ばされた先が地下水と洞窟の終わりの滝で、投げ出されて、震える手でバックパックのガスを放出。なんとか落下を防いだものの、俺にはもう満足に動ける力も残っていなかった。
 喉をせり上がってきた血の塊をぶっと吐き出す視界に、また拳を振り上げて迫ってくる巨体が映っている。
 その後ろに、完全にブチ切れた顔をしてる焦凍もいた。

(アレは、本気で怒られるな)

 謹慎処分はもちろん受けるつもりだったけど、それ以上に焦凍からのお咎めがどんなことになるか、怖いなぁ。
 一瞬にして滝が凍り、巨体のヴィランが氷の中に閉じ込められる。そこに間髪入れず炎が噴き出されるのを緩く落下していく体と意識で眺めていた。
 氷と炎。その激しい温度差で爆発を起こす焦凍の大技の一つ、膨冷熱波だ。
 爆発の中に飛び込んでトドメだとばかりに振り上げられた左の拳が、赫灼熱拳が叩き込まれる。いつもより二段も三段も火力が高い。離れてるのにここまで熱気が伝わってくる。

「はは」

 すっげぇ、ブチ切れてるな。
 これからヒーローやってくならこれくらいの怪我はすることあるだろうし、その度にそんなキレてたら、お前、もたないよ。
 前にもこんなこと思ったなぁ、と落下しながら思って、なんとか押し続けていたボタンをついに押せなくなった。アンプルの副作用だ。体に力が入らない。
 落下していく俺に、同じく落下してきた焦凍の手が伸びて右手を掴まれる。「」げほ、と咳き込んだ焦凍の口にも血が滲んでいる。俺を庇ったときにどこかしらヤられたのかもしれない。
 焦凍は俺を抱えて左手の炎の噴射で地面への激突を回避して、でも立つだけの力は残ってないようで、二人して落下の勢いを殺せないままゴロゴロ地面を転がった。
 周囲にあるのは川の水の音。あとは、静寂。
 ヒューマライズの本拠地からも離れてしまったせいか、他の物音は聞こえない。

「アイツ、もう動かない?」
「本気で、ブチのめした。大丈夫、だろ」
「キレてた。なぁ。……そんなに、キレないでも…」
「お前、俺より怪我してんだぞ。ほんと、ふざけんな」
「ハイ。ごめんなさぃ……」

 地面に転がったままぼやくと、体を引きずってなんとか起き上がった焦凍が、なんか泣きそうな顔で俺を覗き込んでくる。「本当に、心臓が、止まるかと」「ごめんて…」アンプルの副作用もあって動けない俺に血の味のキスが降ってくる。
 泣きそうだ、と思ってたら本当にぽろぽろと涙をこぼすもんだから、参ったなー、と空に視線を逃がす。今は慰めてもあげられない。
 携帯でセットしておいたアラームがピピピピと無感動な音を伝えてくる。タイムリミットを知らせる音だ。
 ここは爆発しないだろうけど、トリガー・ボムはどうなったろう。
 もし爆発していたら、世界は終わり。終末だ。
 川の音がするだけのとても静かな終末の訪れ。
 万が一そうなっていたとしたら。それはそれで、焦凍と二人、お互い以外を気にせず生きていける。
 でも、たぶん、そうはならないだろう。
 気がすむようにキスされていると、焦凍も辛いんだろう、俺の横に転がって、泣いたまんま静かになった。「緑谷、やったかな」静かな声に「大丈夫でしょ…たぶん」と返す。何せ緑谷だし。なんとかする奴だよ、アイツは。

(あばい。いしき……)

 骨の状態がマズい。気合いと根性を振り絞ってでなんとか個性で固定してるけど、それも、続かないかもしれないな……。
 薄れそうな意識をなんとか保ちながら、どのくらいたったのか。
 この耳が幻聴を捉えていないのなら。遠く、どこからか、ヘリの音が聞こえてきた。
 空の彼方にポツンと黒塗りのヘリが見えたとき、ようやく、世界は終わらなかったのだということを実感する。
 俺たちの救援のためにヘリが来たってことは、世界の状況が落ち着いているって証拠だ。緑谷が止めてくれたんだ。…よかった。
 そりゃあ、世界の人口が減れば、俺と焦凍は好き勝手できる。人目を忍ぶ必要もなくなれば四六時中くっついていられる。そういう世界も悪くない、とは思う。
 でも、今の世界も別に嫌いじゃないから。……昔は大嫌いだったけど、今はそうでもないから。
 世界を好きになることになった原因を右手で探すと、指先がこつんとぶつかった。全力で個性を使ったからだろう、隣で転がる焦凍の意識はないようだ。
 その横顔をぼんやり眺めて、きれいだなぁ、と思う。
 傷があっても。火傷の痕があっても。
 お前がそこにいる限り、俺が見る世界は美しいままなんだろう。
 あんなに汚いもので溢れていたのに、目に入っていないだけで、今も世界に存在している醜さなのに。お前がここにいて、俺のことを見てるから。俺のことを求めるから。俺のことを呼ぶから。そういうの全部ひっくるめて、この世界は美しいものになってしまったんだよな……。
 罪深いなぁ、なんて思いながら、着陸したヘリから救急隊員が降りてくるのを視認した辺りで、保っていた意識が落ちた。