親しい人間を通して見ていた世界は、その人を失くしてしまえばひたすらの灰の色だった。
 それはたぶん、その人たちを失くしたせいと、亡くしたせいと、それがどうあっても自分のせいでもあったことが関係していた。
 馬鹿だった子供は、自分のせいで大事な人たちを失くして、亡くして、もう二度と返ってこない二人の遺灰を前にして、微睡むように揺蕩っていた世界を知った。

「あー、

 呼びかける声に視線だけ上げると見知らぬ大人が立っていて、無造作な黒い髪に手を入れてがしがしやっている。参ったな、という感じに。「俺のことは分かるか?」「…いいえ」見知らぬ大人の質問に答え、ぱち、と一つ瞬いて灰色の世界をくるりと眺めると、見知らぬ人間にぞろぞろと見下ろされているという今の状況に気がついた。
 ついさっきまで、俺は何をしていたんだっけ。
 思い出そうとして、思考に靄がかかったようにはっきりしなかった。「じゃあ、僕のことは?」しゃがみ込んで俺と視線を合わせた緑のもしゃっとした頭の人が自分のことを指しながら俺に問いかける。その問いにも、答えはノーだ。
 緩く頭を振って「いいえ」と答えると、周囲の人間は参ったなという顔をした。
 両親が死んで、周囲が知らない人間で溢れることには慣れていたから、突然のこの状況も、別にどうということもなかった。
 その顔はよく知っている。俺のことが手に余るという顔は警察の人もよくしていた。
 でも、どうしてこうなったんだったかな。そうぼんやり考えていると、ぐす、と洟をすする音がした。俺じゃない。
 視線を彷徨わせると、俺と同じくらいの子がいた。左右の髪の色が違うことと、顔に大きな火傷があることが特徴的な子だった。今にも泣きそうな顔をしてぎゅっと拳を握っている。
 なんだかわからないけど、その子を見ていると不思議と泣かせないようにしないとという使命感のようなものが込み上げて、世界に少し、色がついた。その子からじわじわ、じわじわ、白紙の紙にぽたぽたと絵具が落ちるように色が散らばっていく。
 てくてく歩いて行って名前も知らない子の手を右手で握ると、泣きそうな潤んだ瞳からぱっと涙が散った。驚いたのだろう。「そっちはどうだ、麗日」「ダメそうです。私のこともみんなのことも知らない人だって……」頭上で交わされる会話を無視して、左腕がないから、右手で握った手を離してからその子の頭をぽんぽん叩く。

「泣かないよ」
「……しらないひとばっかり。ここ、どこ?」
「知らない。気がついたらいた」
「おうちにかえり…たくない。けど。ここにもいたくない……」

 泣かないのを堪えるようにぎゅっときつく両の手を握り締めたその子の頭をぽんと叩いて、視線を大人たちに向ける。「ジュースはありませんか」図々しくならなくては親なしの子は生きていけない。両親がいなくなってから学んだことだ。
 大人たちが俺の要求に一瞬驚いて、それから大きな冷蔵庫からオレンジジュースを二人分用意してくれた。
 ちびちびとオレンジジュースを飲みながら、泣きそうなままの紅白髪の子の隣で周囲の観察を続ける。
 大人たちは何か真剣な顔で額を突き合わせてこそこそと話を続けている。俺は個性を使ってそれを勝手に聞いた。

「やっぱり、講演に来てた人の個性ですか」
「そうだろうな。土下座する勢いで平謝りしてたが……本人にもコントロール不能な個性らしい。人前に出てアがってしまうと個性が暴発する恐れがある、と注意はしていたようなんだが、的中したといったところか」
「じゃあ、いつ解けるのかは……」
「わからんな」

 意識を済ませてはみたけれど、中身はよくわからなかった。講演。暴発。個性、は、個性のことだろうけど。
 ピシャっと個性を閉じた俺は、ジュースを飲んで少しは落ち着いたらしい紅白髪の子を眺めた。ずず、とジュースをすすったその子と目が合う。「…なに?」左右で瞳の色も違う。「顔の、痛くない?」その子にとっては左側にある火傷を示すため自分の同じ側を撫でると、バツの悪そうな顔をされた。「もう、いたくない」「そう」「……きみの、うでは?」恐る恐る、というふうに指さされたのは俺の空っぽの左腕だ。二の腕の中間辺りから失くしてしまった腕をぱたぱたさせて「もう痛くない」と返すと、ほっとしたような顔をされた。なんでだろう。
 それから、色々、大人たちに話しかけられたけれど、紅白髪の子は俺の横でむっつり黙り込んでしまったので、ほとんどの質問を俺が代わりに答えた。欲しいものはあるか、したいことはあるか、大丈夫だからね、時間がたてば自然と戻るよ。そんなことを口々に言われた。
 最後に、緑色のもしゃっとした髪をした人が俺たちの前にしゃがみ込んでにこっと笑顔を浮かべ、「オールマイト、好き?」と訊いてきた。ちらっと隣を確認すると紅白髪の子が何か言いたそうにうずうずしていたから、代わりに「好きです」と答えると、「じゃあ見に行こうか。いっぱいあるんだ」と、とある部屋に案内された。
 壁にも床にもベッドにも、そこかしこにオールマイトのヒーローグッズが溢れる部屋に、紅白髪の子が目をキラキラさせている。
 俺は別に好きじゃないけど。この子はオールマイトのことが好きみたいだ。
 とくに感心もなくて、ベッドに腰かけていると、オールマイトの人形を持たせてもらったその子が隣にやって来た。「オールマイト」こっちに人形を突き出してくるその子にどういう顔を返すべきか迷う。君を代弁しただけで俺は別に好きじゃないんだとは、言えない空気だった。
 コスチュームに身を包んだ人形を一つ撫でて「本当だ」とこぼし、表情筋が動かないかな、と思ったけど、両親がいなくなってから固まってしまった俺の無表情が動くことはなかった。
 一目その子を見たとき、その腕の欠落を補わなくては、と思った。
 その思いはキレイな感情からきているとは言い難くて、単純に『腕がなくて、自分よりかわいそうな子供だから』という、子供ながらの残酷な心に基づいていた。
 片腕がないことは、顔に火傷を負った自分よりも不便で、融通が利かなくて、かなしいことだと。僕は子供ながらに理解していたのだ。
 だから、かわいそうな彼のところにオールマイトの人形を持って行った。好きだと言っていたから。だけど嬉しそうな顔はしてくれなかった。それどころか、表情一つ変わらない。無。彼は腕だけじゃなくて感情すら失くしてしまったみたいにぼんやりした顔のままだった。
 それが悔しくて、その部屋にあるオールマイトグッズをたくさん持っていった。マグカップとか、マグネットとか、シャーペンとか、限定グッズのマフラーとか、色々だ。
 だけど彼はぼんやりとした顔のままだったし、一応手に取ってみせてはいるけれどそれだけ。この部屋に来たのは僕のため………そんなふうに思うくらい、オールマイトには興味を示さなかった。
 やがて根負けした僕は、オールマイトの人形を抱き締めて彼の隣で静かになった。それでそれまでにこにこ僕らを見守っていた緑髪の人が困ったような顔になっている。

「えっと、お腹空いたかな。おやつ持ってくるよ」
「お願いします」

 僕よりすらすら言葉を喋る彼は、相手が大人でも知らない人でも遠慮がなかった。無表情に自分の要求を通す。
 部屋に二人で残されて、僕はおずおず隣の彼を窺う。やっぱりぼんやりとした顔で虚空を見ている。
 そろそろと手を伸ばして空っぽの左の袖に触れると、彼は僅かに反応した。僕に視線を寄越すと「気になる?」と首を傾げる。
 身近で腕のない人なんていなかったから素直に頷くと、彼は左の袖を右手でめくっていった。あるべき腕はいつまでたっても出てこず、二の腕の真ん中あたりで、ようやく、腕だったものが顔を出した。
 それは僕の知っている腕の形をしていなくて、寸断されたハムを連想させた。
 そっと伸ばした手で断面に触れる。ハムじゃないからちゃんと人の温度がある。ハムとは全然違う感触。そのことが子供心には気味悪くて、さっと手を引っ込めた。
 左の袖を離した彼は、その手で僕の顔の左側……火傷の痕に触れた。少しひりつく。そのことが顔に出たのか、彼は少し眉を顰めて「まだ痛いんじゃないか」と言って手を下ろした。「べつに、いたくない」嘘だけど精一杯強がる。痛みを認めたら負けるような気がしたから。
 僕は唇を引き結んで顔のひりつきに耐えた。それがアイツへの抵抗のつもりだった。
 ………本当は、誰にも言うつもりがなかったこと。でも、二人きりで、会話もないし、顔はひりひりと痛むし。だからつい、言葉が口をついて出てきてしまった。

「かおの、これ。おかあさんに、おゆ、かけられた」
「……どうして? 虐待?」
「ぎゃくたい。がなにかはわかんない、けど。おとうさんが……アイツが、おかあさんをおいつめた。だから、おかあさん、おかしくなったんだとおもう」
「そうか」
「きみの、おとうさんとおかあさんは?」

 お父さん。ともう呼びたくもないアイツからは吐くぐらいにヒーローとしての訓練をやるよう毎日しつこく言われ、やらされ、優しかったお母さんもいなくなった。顔には火傷も負った。自分はなかなか酷い環境にいる、と子供の時分でもわかっていた。
 子供心には自分が受けた仕打ちの酷さは人生の重さだった。
 他の子どもより重たくて意味のある人生を送っている。その自覚がかろうじて僕を僕として一人で立たせていた。一人で立てる僕にしていた。
 そういう僕を話すことで、僕はより僕になれる気がして、この知らない場所でも一人で立てる気がして、胸がスッキリした。
 誰にも言ったことがなかったけど、僕は僕が特別だと思わなければ、この顔も、この今も、好きになれそうになかったのだ。
 だけど、そんな僕よりもっと重たい人生を、隣の彼は持っていた。
 しばらく考えるように右手に目をやっていた彼は、やがて諦めたように息を吐いた。子供の僕には大人びた仕種だった。

「俺の両親は、死んだよ。もうこの世界のどこにもいない」
「え」

 こぼした自分は、相当間抜けな顔をしていたと思う。
 自分より壮絶な人生を送っている子供なんて想像したことがなくて。出会ったことがなくて。だから、もう親がいないのだという彼の言葉はショック以外の何者でもなかった。
 僕のお母さんは、病院だけれど、ちゃんと生きている。お父さんは嫌いだけど、いなくなっても困らない気はするけど、いざ本当にいなくなったら困るのだと思う。
 そんな人たちが、彼にはもういないのだと言う。
 彼は自分の右手に視線を固定したまま「大人は俺のせいじゃないって言うけど、俺のせいで、二人は死んだんだと思う」と語る。子供らしからぬ雄弁さで、落ち着きを持って。
 なんだか唐突に恥ずかしくなってきて、オールマイトの人形を抱き締めて俯く。ベッドから浮いた自分の両足に視線を固定する。
 他人より重たくて意味のある人生を送っているつもりでいた。他人より特別な存在。お父さんにもよく言われる。だから僕は頑張れたのだ。
 じゃあ、何もかも、左腕も、両親も、大事なものを色々となくしてしまった彼は、どうやって頑張るのだろう。欠けた腕で。片腕で。誰かに頼るという希望の一片も許さない世界で。
 そろりと隣の彼を盗み見ると、例のぼんやりとした顔と目が合った。それで、こんなときだけ、やんわりと笑うものだから、僕は逆に泣きたくなった。
 僕と同じくらいの子供なのに、僕よりずっと重たくて特別な人生を送っている彼は独りぼっちだった。

「大丈夫。もう慣れた」

 色々なことを、彼はその一言で表して片付けてしまった。
 そんなわけがないのに。そんなことあっていいわけがないのに。
 オールマイトの人形を持ったまま、僕と同じくらいの子供に抱き着くと、たっぷりとした間のあとに右手で背中を撫でられた。「なんで、君が泣くんだ」「だって…ッ」悲しかった。哀しかった。子供らしく喚くこともせず、泣くこともせず、諦めたような顔で笑う彼はもう子供ではなかった。世界を知って、現実を知って、絶望を知った、子供にも大人にもなれないかわいそうな生き物だった。